第6章

第38話 音楽は止まない(1)

 舞踏会場、ホール・オデオン。ワインレッドと金で彩られた壮麗な宮殿は、奢侈しゃしでヴァルト帝国を傾かせたとされる斜陽皇帝ジギスムント二世の時代のもの。天井には楽園を描いた絵画、特産のクリスタルガラスを使ったシャンデリアの数は二百。平時でも絢爛たるホールは今宵、五千にも登る花束でさらに飾られていた。


 年の瀬迫る三面呪法ノルエルの月の二十日はつか、冬至の夜は提燈ラテルネの祭り。一年で最も長いこの夜を、闇に紛れて忍び寄る災いをはらうために、ヴァルト帝国の人々は朝まで踊り明かして過ごした。朗らかな祭りの存続は併合後も許されて、慈悲深い総督府は全ての帝国民が手を取り合って楽しむ貴重な機会として、この日だけは二等国民以下にもダンスホールを開放することにした――。


「ゲホゲホ……! オエェッ、水ほしい」


「いつまで続くんだよこれぇ」


 大理石で作られた古代風列柱廊の奥。ダンスホールの端も端、一段下がった半地下で、お揃いのローブを着たクライノート・ギムナジウムの生徒たちは、聖歌隊の任を務めていた。


「朝までと言ったでしょう。限界を迎えた生徒は申し出なさい」


 引率のアガタ・アルトマイヤーはいつも通り峻厳に言い渡しながら、困り果てたように眉を下げた。「……まだ木琴の後ろが空いてます」


 ティンパニ、コントラバス、チューバ――大型楽器の背後には、小さく丸まって眠る下級生の姿。


 勤務時間はリハーサルを含め、昼から翌日の夜明けまでという鬼畜仕様。まとまった休憩は与えられず、食事はおろか水分補給も顧みられない。同じ苦労はレーベンスタット・フィルハーモニー管弦楽団の皆さんと分かち合っている。


 この過酷な仕事は、前触れもなく降って湧いたものだった。毎年の提燈祭ラテルネで音楽を奏でるのは、ヴァルト帝国時代から続く百余年の歴史を持つオーケストラ。ギムナジウム生など全くお呼びではないはずなのだが、そろそろ聖餐日ヴァノーチェのラム酒ケーキを仕込もうかという酩酊の月オエノトリアの中旬にもなって、今年は子どもたちの愛らしいコーラスも楽しみたいという総督府の声が下りてきたのだ。


 どれほど意図のわからぬ命であれど、ベルチェスターのご意向にフェルディナントが否やを言うはずもない。結果、わけもわからぬまま急ごしらえで聖歌隊を発足し、夕食後の自習時間を削って練習させられて、前世紀に使っていたというとんでもない年代物のローブを頭から被らされる羽目となった。たまに指揮者がこちらを向いた時に、思い出したように歌う。


 二等三等国民へのダンスホールの開放。それはつまるところ、『そこで仕事をしろ』という意味でしかない。


 当然ながら、20時を回る頃に幼子たちはリタイアした。給仕のヴァルト人たちがこっそりとレモネードやパウンドケーキを差し入れし、楽団員が楽器の影に隠して寝かせてくれるおかげで、バタバタと医務室に運ばれるような事態は辛うじて回避できている。とはいえ全員、疲れ果てていた。「お腹空いた」「眠い」「帰りたい」としくしく泣き始めた子どもたちの対応に、アガタもグンターもオフィーリアも大慌てである。ちなみにフェルディナントは数少ない二等国民の来賓枠を付与されて、夜会客のひとりとして登場する予定だ。


「迷惑なもんだぜ、一等国民さまの気まぐれは」


 オリーブ色の双眸でキリルが睨むのは、ホールの二階。エルもチャイムの影で眠る後輩にブランケットを掛けながら、「そうですねえ」と見上げた。


 ビロードのカーテンに縁取られた箱庭の君主の席は、客たちの登場に合わせてまだ空席である。


 そう。最もうんざりするのは、こっちはすでに疲労困憊だというのに肝心の客はちっとも出揃っていないというふざけた事実であった。


 21時半を過ぎたころから、人々はようやく集まり始めた。翌朝からの仕事などない人間のタイムテーブルである。


 燕尾服の紳士を伴ってカナリアイエロー、ミントグリーン、ベビーピンク、アメジスト……色とりどりのドレスが衣擦れの音を立てて通り過ぎていく。


「……」


 片目ずつ瞑って半球睡眠を試みていた女子たちは、突然今日一番の集中力を発揮した。瞬きすら惜しいと言わんばかりに翠眼を開いて、食い入るように見入る。ヘッドドレス、後れ毛を垂らした髪型、大きく開いたローブデコルテの形、幾重にも重なったチュールレースの裾、パールのついたロンググローブ。手に届かない眩しい品々を、誰にも取られない頭の中に仕舞っておくために。


 エルもペリドットを忙しなく走らせた。ご令嬢たちのファッションは、もちろん気になる。だがそれ以上に、真っ先に見つけたいものがあるのだ。


(あっ、いた!)


 人でごった返す広大な舞踏会場――だが猛禽に由来するというところの眼は、難なく青年を見出した。


 今日のロスはブラックウールのマントジャケットにロングブーツ、つまりブレイク隊の軍服姿だった。軍装の青年はあちこちにいるが、すらりとした長身に時計の針のような立ち姿は、群衆の中でもひときわ映えていた。


(やっぱりロスさんが一番ハンサムだわ!)と、勝手に誇らしい気持ちで胸を張る。欲を言えば、スーツがあれだけ素敵なのだから、成功が約束されているタキシード姿も見てみたかった。


 彼の隣にいるのは、同じくらいの長身に眩しい美形、ブレイク部隊の隊長ユージンである。


 何の話をしているかまではわからないが、笑顔で話しかける上官に対して副官は相変わらず、エルに対する感じのよさの百分の一も見せなかった。横を向いたまま言葉少なに返す顔には、さっさとどこかに行ってほしいと太字で書いてあるようにしか見えない。


(あ、あんな態度でまともに仕事できてるのかしら……?)


 不安に襲われたが、しばらく見ていれば同じ軍服を着た男たちが話しかけに来た。それもそこそこの人数が、わりと頻繁に。彼らに対しては、ロスも身体の向きを変えてきちんと返事をした。まだ十代らしい若い隊員には曲がったネクタイを直してやり、行ってこいという様子で肩を叩く。何のジョークを飛ばしたのか壮年の隊員が腹を抱えて大笑すると、氷の頬を緩ませてかすかに笑った。


 一連の光景は、素性を隠して軍に潜入する彼が、仲間の中で信頼を勝ち得ていることを教えていた。


 そうでしょうとも! とまた胸を張る。あの澄まし顔の青年の面倒見のよさと来たら、お腹の袋に赤ちゃんを抱っこしたクオッカワラビーの母親並みなのだから。どれだけ冷酷将校を演じていても、心根の実直さは分かる人には分かるのだ。エルはますます誇らしくなった。


 キラキラと輝かしい視界は突然、花々によって妨げられた。


 人ごみを割ってロスに話しかけたのは、華やかなドレスの女性たち。貴婦人らしく扇で顔を隠しながら控えめに視線を送れば、隊員たちは心得たように離れた。


 彼女たちがどんな目で青年を見つめているのか、離れていてもエルにはよく見えた。憧れと羞じらいを滲ませた、それはもう可愛らしい眼差し。


 文句のつけようもない淑女たる貴族令嬢と、紳士ぶりも凛々しい青年将校。絵になる光景を、クリスタルガラスの乱反射が照らしている。


「……」


 赤毛頭は、ゆっくり俯いた。


 目に入るのは、塗装の剥げた半地下の床。舞踏会においてオーケストラは脇役なので、照明は列柱廊を境に明確に区切られている。自分が着ているのは、ツギが当たった年代ものの聖歌服。一生懸命洗ったが、ちょっとかびた臭いは取れなかった。


 ホール・オデオンの光と影が雄弁に語る。あちらとこちらでは、生きる世界が違うと。


 胸元を握りしめれば、すっかり慣れた黄金の形が指に食い込んだ。ロスが贈ってくれた鍵。だがいまだ、一向に使いこなせる気配はない。……ただひとつの期待さえ、応えることができない。


 黒手袋の大きな手は、エルにワルツを教えてくれた。何度足を踏んでしまっても怒るどころかクスクス笑うばかりで、褒め言葉しか口にしなかった。


 あの手は別の誰かの手を取って、シャンデリアの下で踊るのだろうか。踊り終わったあと、素敵でしたよと褒めるのだろうか。


「見たくないなあ……」


 泣き出しそうな呟きは、オーケストラの演奏によって掻き消えた。

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