第32話 デモゴルゴ経典の変化

 深夜。蛍と経典について話し合い、一部の戒律に修正を加える。土着信仰はその地域の言い回しや、言葉や意味合いの捉え方が独特のため、正しい意味を知る為には、神教を実際に信仰していた者に聞くのが一番の近道だ。


 言葉の細かいニュアンスを得たアルフレドのペンは昨日の倍の速さで動いている。


 蛍はコテツを立ち直らせるのを条件にデモゴルゴ教への入信を快諾してくれた。ピートモス第一号の信者だ。まだまだ布教活動の道のりは長いが、この第一歩は凄まじく大きい。


 経本の修正を終え、アルフレドがペンを置く。椅子の背もたれに大きくよりかかり目を閉じる。


 寅之助時代も激務で背もたれにもたれかかり眠ってしまった過去を思い出す。あの時は忙殺され何の感情も湧きあがる事はなかったが……今は信者を新たに得るという使命があり、同じ事務作業でも大きな差がある。


 疲れを取るために閉じていた瞼を開く。目の前には卓上ランプの光が小さく揺らめく……はずである。しかし、机上にランプの暖かな光はない。隙間風で消えてしまったのであろうか? そんな疑問が頭をよぎるが、その疑問がすぐに間違いであるのにアルフレドは気付く。


 机の上に置かれているデモゴルゴ経典がいつの間にかページが開かれている。


「んっ?」


 思わず声を漏らしてしまう。経典を開いた覚えはない。いつの間にページが開かれたのだろうか? 風か? しかし、あの厚めの表紙を捲るような強い風は吹いていない。アルフレドが頭を悩ませているとデモゴルゴ経典に更なる変化が訪れる。


「ひ、光っているのか?」


 暗い室内で経典が見えているのが、そもそもおかしいのだ。よく見れば経典に書かれている文字の一つ一つが極々わずかではあるが淡い赤色を帯びている。右手の人差し指をゆっくりとその経典に近づける。


「うわっ!?」


 あまりの驚きに思わず椅子から落ちそうになる。ページがパラパラと勝手に動き出し、経典からなにやら声が聞こえる。


「オッォォォォォォォォ。信……仰ヲ……集……見……事。ア……ルフレド。我ガ僕ヨ。ホウ……ヲ」


 アルフレドが口をあんぐりと開けていると経典はゆっくりと光を失う。やがて捲られていたページも勢いを緩め、二つの文字を残し動きを止める。


「これは?」


 アルフレドが読むことができない二つの文字。どうやら何らかの記号のようだ。


(いや、どこかで見たことある気がする)


 アルフレドは経典の光る文字を手元にメモすると、恐る恐る経典に触れてみる。経典はとくにアルフレドに危害を加えることはない、熱くなったりはじかれたりすることはなさそうだ。手で恐る恐る触れると、光る経典はゆっくりと元の紙へと戻る。


 そのまま経典を振ってみたり、軽く叩いてみたりするが、変化が起きることはない。


(この経典は一体? ただの経典ではないのか?)


 アルフレドは両手を組みながら、しばらく経典の様子を眺めていたが、それ以上は特に変化もおこりそうもない。卓上ランプに火を灯すと再びペンを手に取り走らせ始めた。


 ~~~


 深夜。アルフレドと別れた蛍は久方ぶりに上機嫌であった。コテツはすでに寝室で眠りについているが蛍は月の明かりを頼りに町中を歩いている。月明かりといっても先日新月を超えたばかりで、通常の者であれば一メートル先も把握できない暗闇である。しかし、日中の町中を歩くように蛍の歩みに迷いはない。


「アルフレドさん良いですよ! フフフッ。お兄ちゃんが……元気に。元気になるかもしれない。お兄ちゃんの回りに余計な羽虫がいなくなったのは嬉しいけど、今のお兄ちゃんを見ているのは嬉しくない。お兄ちゃんは強い。精神、肉体共に理想の男性だ。早く私のお兄ちゃんに戻って欲しい」


 蛍はとある家の目の前まで歩くと唐突に宙に飛び跳ねる。屋根の上に重力を感じない着地を見せると、暗闇と同化し、目星を付けた場所に移動する。気配を殺し、天井に耳を当て、いつものように対象から情報を得ようとする。といっても今回は依頼ではなく自発的に動いている。


(!? 私の動きに気付いてる者がいる。もしかして、アルフレド……さん? いや、違うわね。あの奇妙な仮面を被った男か。気付いても……何もしてこないようね。私に害意がないのがわかっているのかしら? それともアルフレドさんの指示? それにしても――)


 蛍が思惑を巡らせていると、今まで家の中に存在しなかった新たな気配が現れる。声の主は地獄の底から響くような声であり、数秒の間ではあるが蛍はとてつもない危険を感じていた。


(……何を言っているかは分からなかった。でも、確かに何かが存在した)


 蛍は音を立てずに屋根の上を離れると、そのまま闇の中へと溶け込んでゆく。


(大丈夫……よね?)


 暗闇に消える蛍が消える。その心の中には得も言われぬ不安が入り混じっていた。

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