第2話 もう一つの名前
質問に答えずに話を続ける女。私は【もう一つの名前】と言われ驚きを隠すことができない。なぜ、女にもう一つの名前があるのが分かったのだろうか? 確かに私にはもう一つの名前がある。以前の名前は佐伯寅之助という名前であった。
ある日を境に肉体、国、年齢、家族構成、仕事、全てが変わってしまった佐伯寅之助。何の前触れもなく姿かたちが変わったことを受け入れられず、いっそ死んでしまおうかとも考えた。しかし、死ぬほどの殊勝な気持ちは持ち合わせておらず、極悪な環境で奴隷のような生活を強いられることとなる。
(奴隷のような生活をなんとか続け、二年が経った……以前の佐伯寅之助の生活に何度戻りたいと考えたことか)
何とか劣悪な環境にも慣れ、割り切るという能力が唯一の特技の私は、この経典を支えにアルフレド=シュミットという青年として新たな人生を歩むことにしたのだ。
「お前、何者だ……?」
今までの血のにじむような生活を送ってきたのは今日の為だ。この得体のしれない女にかき乱されたくはない。今日を逃せばグルを抹殺する準備が消えってしまうのだ。女がここから大人しく去れば良し。もし、私の計画の邪魔になるなら覚悟を決めなくてはならない。
「私はマリアナ・ディ・レテル。ここに探している人がいるんじゃないかと走ってきたの。でも、疲れて眠ちゃったみたい。起こしてくれてありがとうね!」
「そ、そうか」
正気でないのは間違いないようだ。あるいはとんでもない化け物の可能性もある。一つだけ分かるのは関わってはいけない人間であるという事だけだ。
「じゃあ、私は水汲みがあるからここで。ちなみに、この先にはお前が探している人はいないし、よそ者を受け入れてくれるような者もいない。ここを引き返し、街道を南下することをおすすめする」
私は桶に水を入れるとマリアナに踵を返し、フヨッドに戻ろうとする。しかし、女は私の前に割って入ると進行を妨げる。
「ちょっと待って! 話がしたいの」
女はニヘラッと顔のパーツを全て崩すと、満面の笑みを浮かべ、私を覗き込んでくる。女の見た目は悪くない。平時であれば笑いながら話くらいはしたであろう。しかし、このタイミングで、この登場の仕方はあまり良い出会いとは言えない。私は少し恐ろしくなりながらマリアナの肩を掴み、押しのけようとする。
「えっ!?」
押しのけようとした手を何者かに掴まれている。私の腕を掴んでいるのは冷たくゴムのような感触の掌。掌の先には二メートルはあろう巨大な男が立っていた。
男は上半身と下半身に光沢のあるレザーの服を着ており、上着は丈が極端に短かく、男の肉体がよく見える。しかし、その見えている部分には一片の素肌も見えない。隙間なく包帯が巻き付けられているのだ。
「なっ!」
男の身長は二メートルと通常の人族に比べればかなり大きい。しかし、私の腕を掴んでいる手は極端に細く、栄養失調の私よりも細い。まるでマネキンに包帯を巻いているかのようないで立ちだ。私はその異常な力にさらに恐れを感じ、腕を引き放そうと顔を上げる。
「あっ」
あまりの驚きに間抜けな声が漏れる。腕を掴んでいる男の顔には面。面全体に渦が巻いており、渦の中心は口元に集まっている。右目部分には材質の違う硝子のような石がはめ込まれているが、透明度は低く、こちらから素顔を覗き見る事はできない。
面を着けた顔は徐々に私に近づいており、その口元部分からはヒューヒューと奇妙な音を奏でている。
「ファー、大丈夫よ。私に危害を加えようとしているわけではないわ」
ファーと呼ばれた巨大な人間はスっと腕を離すとマリアナの隣へと並び立つ。
(なるほど。マリアナと呼ばれた女の仲間……あるいは従者か)
ここまで女一人で来るのは難しいと考えたが、仲間がいるならフヨッドまでこられたのも頷ける。しかし困った。マリアナとこのファーと呼ばれた人物をまいて、ここから立ち去るのは難しそうだ。私は桶を地面に降ろすと渋々マリアナと話をすることにした。
「話って何だよ。私は水汲みで忙しい。さっきも言ったけどこの先に人はいないし、街道にも戻らないと、どこにも向かうことができないぞ」
「違うの。私はアルフレドに興味があるの」
「わ、私に?」
マリアナは両手を組み、足をわざとらしくあげ、私の回りを歩き始める。意中の異性がこのような仕草をすれば心も踊るのだろう。しかし、狂人と巨人が相手では私の心は凍り付くばかりである。ちなみにファーは私の事を凝視してピクリとも動かない。
「私ね、神様に会ったの。そして、神様は言った。求める人物がここにいるって……。それが、アルフレド、そう、確信した。私はアルフレドのお手伝いをしに来たんだよ!」
再び満面の笑みを浮かべると白い歯をニカっと輝かせる。
(お、おい。本格的にやばい奴に付きまとわれてしまったようだ。っというか私の事をどこで調べてきたのだろうか? くそっ。時間がないというのに)
私はただでさえ細い体をぎゅっと縮こませると、血の気の引いた白い顔をマリアナに向ける。マリアナはおびえた私を見て不思議な表情を浮かべている。
「どうしたの? ファーが掴んだ手が痛かったかな? アルフレド、私はデモゴルゴ様に言われてここまで来たんだよ」
「デモゴルゴ!」
予想外の言葉を聞き、思わず声を上げてしまう。なぜ、よその人間がその名前を知っているのだろうか?
「マリアナと言ったか? どうしてその名前を知ってるんだ? 場合によってはお前自身が危険に巻き込まれるかもしれない名前だぞ! わかっているのか?」
「そうなんだ。でも、そんな事はどうでもいいわ。私は自分がやりたいことをしたいようにするだけ。だからアルフレド、貴方が何をしようとしているのか私に教えて」
愛くるしい笑顔を向けるマリアナ。どう答えるべきか悩んでいると、目の前のファーが顔を近づけ無言の圧力をかけてくる。私は否応なしに話すか話さないか決断を迫られることとなってしまう。
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