第29話 差し伸べられた手

この世の地獄とはあの事だ。

 

体重にしたら約三キロはやせてそうな精神的疲労感を抱え、草野はふらふらと夜の街を歩きだす。


一瞬でも早く帰りたいと急いでメイクを取ったからか、唇のあたりが気持ち悪い。なんでリップってあんなベタベタしてんだろう。


足早に駅へと続く道を歩いていたら、ぽんと背中を叩かれ、後ろからハルに話しかけられた。


「なあアンタ、駅どっちや。地下鉄とJR」

 

さっきまで、ロケバスの中のモニターで草野のダンスを見て爆笑していたハルは、機嫌良さそうである。


「……JR。山手線内回り」


「あっそ。ウチは外回りや。途中まで一緒やな」

 

というと、当たり前のように横に並び連れ立って歩きだす。


草野はちらりとハルの横顔を覗き見る。


「借りてる家が高田馬場やねんけど、なんで東京はこんな家賃高いねん」


ハルはぶつぶつ文句を言っている。

 

なんでこいつと仲良く一緒に帰らなきゃいけないんだ。

 

俺がこんな悲惨な目に会う責任は、この能天気ハリセン女にもあるじゃないか、と、ポケットに手を突っ込んで俯く。

 

話す事も無いので黙って歩く。猫背にして自分のスニーカーのつま先を見ながら、不幸オーラを纏い日の暮れた街の肌寒い風を受ける。

 

ゴンッ。

 

脳天に衝撃が来て、思わずひっくり返った。冷たいアスファルトの手をつく。

前を見ると、絶対に動かないという確固たる意志を持った電信柱が立っている。

 

ちょっと出っ張った場所に立っているその電信柱に、無様にもぶつかってしまったのだろう。

 

慌ててハルを見るが、目を丸くしてこっちを見ていた。


「ウソやろ。そんなん今時コントでも無いわ」

 

ハルは腹を抱えて笑っている。なんやその天然キャラ、と目に涙をためて。



「下ばっか向いてるから、そんなことになるんや」

 


そう言うと、すっと細い腕を差しだした。

その手のひらは、未だ尻もちをついている草野に真っ直ぐ向けられている。

 


草野は一瞬で色々な事を考えた。


この手を握り返すべきか、否か。



差しのべられた手を振り払うほど斜に構えてはいないが、握り返したら返したで、気持ち悪いとか思われないだろうか。


でも、こんな風に電柱に激突したのが、知り合いと一緒のときで良かった。

一人の時に転んだりすると恥ずかしいし周りの目が痛いからな。


ああ、こうやって優しく手を伸ばされたのはいつ以来だろう。

何か裏があるのかな。

俺に優しくして、対価に何を奪おうとしてるのだろう。


そうじゃなくて、ただ転んだ人がいたから、自然に手を差し出したのなら、コイツは俺が思ってるほど、嫌な奴じゃないのかもしれない。



この間、0.5秒。



そうして、そっと手を握り返した。


ハルに引っ張り上げられ、草野は立ち上がる。


「あーもー、泥だらけやないかい」

 

けらけらと笑いながら、汚れたジーパンを見て笑うハルを、直視できなかった。

 

尻の埃を払って、並んで歩きだす。

 

柄の悪い男が街頭でティッシュを配って来る。それをうまくかわしながら、二人肩を並べて赤信号を眺める。


「……夏木さんとは仲が良いみたいだけど、同級生だったりするのか?」

 

気まずい時は、他人の話をしてしまうに限る。

この前の放送以降、良く控室に来ては放送中のハルの姿を見学していることの増えたミカの事を尋ねた。

休みの日にわざわざ来るなんて、随分仲が良くなければできない芸当だ。


「せや。実はここだけの話、あの子は前、他の子とコンビを組んどったんやで」


「え、じゃあそっちは解散したってこと?」


「うん。しかも元々はあの子がツッコミやったんや。でも、そのボケの子は高校卒業したら実家を継ぐって決まってたんや。だからうちがミカを口説き落とした。うちとなら、N―1でも一位取れるって」

 


信号が青になった。人が一斉に歩き出す。

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