第4章 無糖珈琲で一時休憩

第21話 遠距離恋愛はほろ苦い

 そんなわけで『長期戦』を覚悟した私たちの〈結婚申し込みのご挨拶〉は思わぬ形でほんとうに『長期戦』になってしまった。


 なぜなら彼は今、フランスにいるから。


「ごめん、明日から急遽フランスに発たないといけなくなった」


 いきなりそう告げられたのは二度目の挨拶に行った数日後。アブラゼミの声がツクツクボウシに変わってきた晩夏のことだった。


 どのくらい? と訊ねたあの時は、たしか「一週間くらいかな」との答えだったはず。


 それがどうしてかまもなく半年を過ぎようとしている。秋も冬もとっくに過ぎて、桜の木は蕾をこしらえてもう春を待っている。私もずっと、彼の帰りを待っている。……というのに。彼はこの半年、なんと一度も帰国していない。


 もちろんメッセージは毎日最低でも一通は来るし、できることなら一刻も早く帰国してお父さんと話がしたい、とは聞いている。「声が聞きたくて」と電話だってたまにかかってくるし、まったく放置されているというわけじゃない。


 にしてもこれ、いつまで続くの?


 彼が務める『オーナー』という仕事は言わばトップ。忙しくて当然。……なんだけどさ。


 ガトーさんは寂しいって思ってないのかな? 取材で忙しくしていた時は「会いたい」なんて恥ずかしげもなく言ってくれたのに今回はそんな様子もないし。


 それともそんなこと思う暇もないくらいに忙しいの?


 それとも……。いや。浮気なんて。彼に限っては有り得ない。だけど断れないたちではあるよね? え? たしかに向こうには素敵なパリジェンヌがたくさん…………うあ! やめよう! バカだ、私!


 詳しくは聞けていないけど、どうやらフランスでガトーさんのお父さんである巨匠が展開していたケーキ店が、巨匠が亡くなった関係でギクシャクして揉めてしまい、それをなんとかしている、とか。


 大変、なんだろうけどさ。


 こうなると、寂しがっているのは自分だけなのかも? なんて思えてしまって。


「ガトーさん……」


 ある日の電話で、禁忌と思っていたことを思い切って、いや、ついに耐えきれずに訊ねてみた。


「いつ帰ってこれますか?」



 後輩が先月のバレンタインの後でまたひとり結婚して退社した。これでこの半年の間に二人目。まあ二人とも可愛い子だったから。


 そういえばあの柚木崎ゆきざき先輩も最近結婚したとか。お相手はあの時のかわいい後輩ちゃん……ではないらしいっていうからもはや呆れるけど。


 焦っているわけじゃないんだよ。だけど。


 お付き合いしても、やっぱりガトーさんは遠い存在なんだって思い知らされた。


 ねえ、それは、結婚しても、ですか?

 私はこの先半永久的にこんな気持ちで日々を過ごすことになるの?



「うあ。ごめんなさい、困らせるつもりはなくて。えと、忙しい……ですよね。すみません、いいんです」


 すると彼は電話口で「いちごちゃん」と少し改まったように私を呼んだ。


 ほんとうは入籍してから言いたかったんだけど、と前置きして言うのはこんな話だった。


「こっちに、来ない? フランスに」


 即答すべきだったのかもしれない。だけどできなかった。


 わかっていたから。きっと同じだって。


「少し……考えさせてください」


 住まいを共にしても、彼の多忙は変わらない。私は、結局家にひとり置いてきぼりなんだ。向こうにいけば私は言葉もままならない。仕事はもちろん、日常生活すら今のようにはいかない。


 一緒にいられることは、もちろん嬉しい。例え少しの時間でも、共に過ごせるというのは、魅力。だけど────


 留学で行くのとは、わけが違う。彼以外のなにもかもを捨てて、見知らぬ土地で、私は私のままでいられるのか。


 こわい。



 ガトーさんは「わかった」と言ってくれた。また連絡するね、と。


 ああ、さみしい。なんなの。どうすればいいの。だめだ。涙が止められない。


 結局数日後に、「日本ここで待ちます」と返事をした。


 正しかったのか、間違ってしまったのかは、よくわからない。


 だけどそれからの私は仕事で有り得ないミスをしたり、せっかくの休みをただぼうっと過ごしたりと、らしくない行動をして周りに心配されてしまった。


「いちごさん、最近どうしたんですか?」

「元気ないよね」

「肌のツヤも……」「こら余計なこと!」

「体調わるいです?」


 ごめんね、大丈夫です。としか言えなかった。厨房スタッフの間で私たちの破局の噂が流れ始めた時はさすがに否定させてもらったけど。


 そう思われてしまうくらい、私はへんだった。


 ほどなくして桜の開花宣言があった。

 去年の桜も、たしか私はひとりで見たんだったな。


 彼のことが好きなほど、余計につらい。余計にさみしい。


 こんな気持ちに耐え続けるのは、もしかしたらもう無理かもしれない。


 別れたい、と思うほどではなかった。だって好きだから。だけど辛くて。向き合うことから逃げたくなった。


 今まで深夜にすぐ返信していた彼からのメッセージも、だんだんと翌朝返信することが多くなり、今朝はついに返さなかった。退勤後に返せばいいや、と。


 その日、お昼休憩には特になにもなかった。だけど夜、退勤後にスマホを確認すると……。


【どうかした?】

【大丈夫?】

【なにかあった?】

【連絡ください】

【心配だよ】


 え。なに、これ。

 着信も数件。それからなんと、お母さんからも連絡が来ていた。まさか。


【ガトーくんからなにかあったのかって連絡がきたけど。なんにもないよね?】


 いや……。一度返信しなかっただけでこんな騒ぎになります?


 するとスマホが鳴り出した。うわっと驚きつつも、すぐに出る。「も、もしもしっ」


「いちごちゃん……!」

「は、はい。いちごです」


 ど、どうしよう?


「大丈夫……なの?」

「大丈夫、ですよ」


 答えると「はああああ」と長いため息が聴こえた。えっと、ガトーさん?


「お昼まで待っても返信がなかったから、なにかあったのかって……心配して」


 そこで言葉が途切れて、はあ、とまた息の音がした。え、まさか泣いてはないですよね?


「無事で……よかった」

「ぶ、無事もなにも。普通にお仕事してただけですよ」


「ほんとうに?」

「ほんとうです」

「店の電話、繋がらなかったよ?」

「たまたま使用中だったとか……では」


 すると少し静かになって、そしてぽつりとこんな言葉が届いた。


「帰国する」


「……え」


「帰るよ。今すぐ」


「え!?」




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