5


 深夜だった。

 山の底を満たす闇の中、「洸太、」と呼ぶ声で目を覚ました。


 洸太の横で静が体を起こし、いつもの透明な笑顔でこちらを見下ろしていた。

 闇にあってなお静は美しく、その眼に光すら見いだせそうだ。

 彼の右手が洸太の髪をなでる。


「……悪いな、声」


 洸太は横になったまま静を見上げ、ゆっくりと頷いてみせた。

 多分、これが最後の会話になる。


「俺に失望したか」


 洸太は少し考えて、結局何も返さなかった。

 強引で残酷な静の姿に怒りを覚えたのは確かだった。

 前と同じように愛しているかと言われれば、おそらくそうではない。

 だが洸太に粥を作り、山から守り、おそらく祖父の家にがけ崩れの予告をしに行った彼のことを、嫌いにはなれない。


 返事をしない洸太に、静は悲しげに微笑む。


「……こっちにおいで。」


 洸太は身を起こし、言われるがまま静の側に寄る。静はそのまま洸太の身体に腕を回し、淡く抱擁した。

 二人はしばらくそうして闇の中で抱き合っていた。

 あらゆる謝罪の言葉も、あらゆる別れの言葉も内包した抱擁だった。


 静が沈黙を破る。


「おまえは俺の帰る場所だった」


 洸太はその言葉が彼の口から発せられた瞬間、心の奥底でそよぐような光を感じた。

 光は心臓から熱い血潮となって身体中を駆け巡り、頭から爪先まで余すことなく満たしていく。

 恐らく静が消えてもずっと、その光だけは残り続ける。


 一筋の涙が洸太の頬をつたい落ちた。


「お前がいたから、俺はどこにでもいけた。自由に、遠く、どこへでも。あの日だって、」

 ボロボロとこぼれていく洸太の涙を、静は丁寧に拭ってくれた。


「あの日だって、俺はお前のところにまた戻るつもりで出たんだ。だからほら、ちゃんと戻ってきたろう。こんな形になるとは思わなかったけど、」


 涙で視界が霞んでいく。静の顔が見えなくなる。

 洸太はしきりに自分の涙を瞬きで押し流し、静の顔の輪郭をはっきりと目に焼き付けようとした。だが、次から次へとあふれる涙は、静の存在をぼんやりと曖昧なものに変えていく。


 せめて、言葉だけでも、伝えたかった。霞んでいく姿かたちのかわりに、はっきりと形の残るものとして。


「……、」


 喉から出るのは、乾いた空気の音ばかりだ。

 何も伝えられない歯がゆさを、涙と抱擁の強さで伝えるしかなかった。


「これが最後だ、洸太。最後のお別れだ。もう二度と、お前には会えない。俺は帰ってこない。――わかったか。」


 洸太は泣きながら頷いた。

 帰ってこない。

 二度と会えない。

 静の言葉を反芻し、身体に刻み込む。



 月もない闇の中、二人は言葉もなくただ抱き合った。

 それから口づけを交わし、ゆっくりと横になる。

 互いの頬にふれあい、またキスをする。

 どちらかが眠るまで、ずっとこうしていようと思った。

 

 やがて窓の外に朝の光がにじみ始める。

 二人の体を、別れの光が包んでいく。


 冷たく、美しい光だった。


 洸太は静の胸の中で、その光を受け入れた。


 さよなら。


 さよなら、先輩。

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