3


 車を家の駐車場にとめる。ドアを開けた瞬間、雨の怒号が耳をつんざいた。

 その奥、はるか遠くから、雨の音に混じって『ゴォン』という低い地響きのような音が聞こえた。雷鳴とは違う、寺の半鐘にも似た金属的な低音だった。


――あれはお山の泣き声ねぇ。隣町でお葬式があったからね、


 時折響くこの音を、祖母は生前、そう表現した。


 兎和山は、他の山と違って、泣く。


 幼い頃――まだ両親と都市部に住んでいたとき、洸太は夏休みのたびに帰省した祖父母の家の寝室で、祖母から繰り返し山の話を聞かされていた。


――兎和山さんはね、大昔はもっと低いお山だったの。

 それが少しずつ、少しずつ、大きくなっていった。

 どうしてかわかる?

 死んだ人間が、お山の中で折り重なって眠るからよ。


 ここで誰かが死ぬたびに、身体をお山に埋める。それを永い、永い時間繰り返して、今のお山になったのよ。

 お山さんは、昔、この山に生きていた人たち。そして、山で死んだ人たち。

 だから、ちゃんと敬って、大事にするのよ。


 ちゃんとしていれば、お山は優しい。

 楽しいことがあれば、一緒になって喜んでくれる。悲しいことがあれば、一緒になって悲しんでくれる。

 そのかわり、無下にしたり、礼を欠いたりすれば、お山が怒ってしまうからね。お山は怒ると怖いのよ。ずっとずっと泣いて、泣きながらこの山の人を連れて行ってしまうのよ。

 わかった?洸太ちゃん、――


 優しかった祖母は洸太が幼いうちに山中で死んだ。

 詳しいことは知らない。だが兎和山の人間は口々に、山に引きずり込まれたと噂しているのを、洸太は幾度となく聞いた。


 山が死人で成り立っているのなら、祖母はそこにいる。

 そして、静も。

 それならこの泣き声は、二人の声なのだろうか。



 玄関の鍵をポケットから取り出そうとすると、ふと、背後で妙に太いエンジン音が聞こえた。


 バイク?


 そう思った次の瞬間、家の前がライトで照らされ、水色の車が停車した。今日び見ない、旧車のトヨペットクラウンだ。昭和を思わせるカラーリングが闇夜に鮮やかだった。

 ルーフに灯る行灯に、見たことのない紋が入っている。紫陽花の意匠、だろうか。行灯があるあたりタクシーのようだが、このあたりのどのタクシー会社とも違う紋だ。

 もちろんタクシーを呼んだ覚えはない。

 訝しんだままじっとその車を見つめていると、運転席から一人の男が出てくる。


 洸太はとっさに、祖母の言っていた〈幽霊〉だと思った。


 そう思うほどに、男の出で立ちは異様だった。

 こんな梅雨時に濃紺のロングコートをきっちりと着込み、同じ色の帽子を目深に被っている。白手袋をはめた手は腹の前で丁寧に組まれ、コートのダブルボタンが怪しく光を反射した。あまりにも慇懃なその格好は、どこぞのホテルのドアマンを思わせた。あるいは、地獄の案内人。


 しわの深まりつつある中年の男は、親切そうな、それでいて薄気味悪い笑みを浮かべながら、口を開いた。


「どうもぉ、今晩は。」


 妙に高く細い、猫なで声。洸太の背筋が冷えていく。


大高おおだか洸太こうたさんのお宅で合ってます?」

「……、」


 その問いに、はい、とも、いいえ、とも返せない。これはきっと、見てはいけないものだ。

 声の出ない洸太に、男は「アァすみません」と言って口角を一層不気味に上げた。


「申し遅れました。わたくし四片よひらタクシーの東片ひがしかたはじめ。はじっこと書いて、はじめです。あちらのお客さんにね、大高さんのお宅へ向かうよう仰せつかっておりまして、」


 あちらの?

 後部座席へと目線を動かした瞬間、洸太の胸は大きく瞬いた。若い男がシートに座っていた。雨と車の影になって、その顔は半分も見えなかった。だが少しだけ見えた口元に、言いしれぬ懐かしさを感じた。


「――で、もういっぺんお伺いしますけど、ここ大高さんのお宅ですよねぇ?」

 男の細い目が、獲物を捉えた蛇のようにギラリと光る。

「……あ……はい、その、……大高ですが……、」

「アァよかった!」

 たちまち東片は晴れやかに破顔した。

「たまーにあるんですよ、お客さんの記憶違いで、ぜんっぜん違うお宅に辿り着いちゃうことが。今日のお客さんはまだからねぇ、ちゃーんと覚えててくれましたよ。ヨカッタヨカッタ」


 彼は笑いながら、車に向かって「おーいお客さーん、もう降りてきていいですよぉー」と叫んだ。それから「あっ、まだうまく動けんのでしたっけ」と言って慌てて雨の中をヒョコヒョコと駆けていく。豪雨だというのに、東片のコートも帽子も、濡れた様子は一切なかった。

 白い手袋でドアハンドルを掴む。

 ガチャリ、という音とともに、窮屈そうに身をかがめながら出てきたのは、

 あの日、土砂に飲まれたあのときの格好のままの、


「……先輩……?」


 星崎ほしざきしずか、その人だった。


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