青龍陛下の恋の精霊

ちぐ・日室千種

第1話



 美洲稚(みずち)は泉の底で両膝を抱えて座り込み、ぷくぷくと自分の口から昇っていく泡をぼんやりと見上げていた。


 美洲稚は泉の精霊だ。清涼な水を保つためにそこに棲む、他愛ない力しか持たない普通の精霊の女の子。

 泉のように透ける白い髪と、水面に咲く蓮のように淡い赤味のさした瞳を持つ。

 別に人の心を操ったりできるわけではないし、恋のまじないもできないし、未来がわかるわけでもない。

 なのに、たまたま恋の泉と名の付いた由緒ある泉を引き継いだせいで、まるで恋の願いを何でも叶えてくれる神様みたいに期待されるようになってしまった。

 そして勝手に落胆されるのだ。


「恋の精霊なんていっても、役に立たないわね」

 と暴言を吐かれることが増えた。

 美洲稚は何もしていない。ただ泉を綺麗にしているだけなのに。


 そもそも、いもしない恋の神様に期待してやってくる彼女たちは、なぜ泉の中に貨幣や貴金属を投げ込むのだろう。金属は水を嫌な匂いにするからダメなのに。

 それをされると美洲稚は水の浄化にかかりきりになるし、投げ込んだ娘を恨みすらする。恋の成就? 祈るはずがない!


「相手が望むことをしているかどうか考えようともしてないってことでしょう? なのに、誰かと両思いになりたいとか、結婚できますようにとか、どの口が言うのかってのよ。まずその心根を治して出直してこいっていうの! それに、まずは相手と知り合ったり語り合ったりして相互理解を深めていくのが手順よね? 勝手に忖度して身を引きたい相手の幸せを祈りたいなんて心にもないことを頼む前に、まず玉砕してから来なさいよお!」


 普段は人と顔を合わせるのも苦手で、誰か来ると泉の底で息を潜めている美洲稚は、そんなこと、誰にも言ったことはない。せいぜいこうして、あぶくに閉じ込めて愚痴を吐き出すのがせいぜいだ。


 あぶくは泉の表に出ると弾けて靄となり、寄り集まって雲を成し、泉一帯に霧のような雨を降らせた。

 山や森に降った雨は土に染み、やがて土中を通って泉に湧き出してくる。

 泉底の中央から噴き出す透明な湧水が、細かな砂を巻き上げて螺旋を描く。

 美洲稚が触れている水が、ほんのりと白金に光りを宿し、水の中へと遊離していく。


 ゆうるりと巡る白金の帯が、ちらりちらりと泉の底の真白の砂や、ところどころに転がる岩、その影に張り付くような濃い色の水草や、あたりをかすめるように素早く泳ぐ銀の魚たちの間をたゆたう。

 透明な水に差し込む日の光が縦糸、細くたなびく白金の帯が横糸となり、静謐な泉の底の安寧を織り上げていくのを、美洲稚はずっと眺めていた。





 睡花と呼ばれるこの世は、要玉の上に乗る不安定な盆。

 盆の上には水があり土があり、天蓋を規則正しく動く太陽の恩恵で火があり風があり木があり、多種多様な精霊と人間が混じり合って生きている。

 盆の四方に聳える高山に朝廷を築き、地方の行政を取り仕切るのは最も神に近いと言われる最強の精霊、龍だ。かれらは概ね生真面目で、丁寧な目配りをする理想的な君主で、彼らが忠義を誓う女真皇は盆の中央、いにしえの地において、半ば神界へと存在を移しているという。


 そんな睡花の世が、今危機に瀕しているという。





 神と精霊と人は、隔絶した力の差がありながら、その境界は曖昧で、神より強い精霊もいれば、精霊のごとき技をあやつる人間もいる。


 美洲稚はかなり人に近い精霊で、そんな世の情勢など知らず、泉に潜っていないときには食事も睡眠も必要で、泉のほとりに小さな小屋を持ち、そこで暮らしていた。必要な食料や日用品などは、決まった日付に決まった量が小屋に送られてくる。

 この東の地を治める青龍陛下のおわす蒼宮からだ。贈り物ではない。

 土地を任される精霊は皆、青龍を頂点とする東の蒼宮に地方官吏として仕えているから、これは俸給である。


 美洲稚をこの泉の後継に選んでくれた先代は、しばらくは精霊としての余生を楽しみたいと、各地を旅して回ると言い残していなくなってしまった。

 それから、美洲稚はずっとひとりで、時に迷惑な客に頭を痛め、ほんの稀に小さな恋を応援しながら、静かに平穏に暮らしている。





 そんな美洲稚を、ある日立派な輿が迎えに来た。

 キラキラした鎧の大きな男と、ひらひらした衣を幾重にも重ねた女たちが、美洲稚を泉そばの小屋から引っ張り出し、輿の上に押し上げると、そのまま、走るような速度で泉を後にした。


「え、え、なに?」


 仮にも精霊を、その定着している場所から無理矢理引き離すとは、鬼畜の所業だ。官吏としてのお勤めとは別に、任された土地とは分かちがたく結びついているのが精霊である。

 輿から転がるように降りようとすると、美洲稚は柔らかく弾かれた。輿の四方にまるで飾りのような顔をして取り付けられている細く繊細な金の鎖に何か力を感じる。これが、結界を張っているらしい。

 美洲稚程度の精霊では、取り除くことなどできそうもない。

 

「どうしてなんなの! だれか! だれかー! 人さらいですよぉ」


 輿が街道に出るや見かける人や精霊に助けを求めて大騒ぎをすると、辟易した様子の鎧の男が簡単に事情を説明すると言ってきた。説明する気があるなら、初めにしてほしい。


 輿を下ろし、それぞれが散らばって茶を用意する者、輿を担いでいた肩をほぐす者、あたりに咲く花の精に挨拶する者とそれぞれが動く。もとより、ここで小休憩を取る予定だったのかもしれない。

 美洲稚は輿から降りることは許されず、しかたなくそこで凝った肩と腰を地味に動かしてみた。


「さる予言をよくする高名な精霊が、青龍陛下が恋に目覚めることが世界を救うために必要だ、とおっしゃったのです」

「へあ? コイ? あ、あちっ」


 驚きすぎて、素の反応が出てしまった。

 男の切れ長の目が冷たく見てくるのをさっと俯いて避けたが、美洲稚の手から茶碗を取り上げて赤くなったところを癒してくれたので、少なくとも塵か虫のように蔑まれたわけではなさそうだ。


 しかし、青龍陛下!

 官吏としての美洲稚にとっては最上位の上司だ。女真皇から預かっている形とはいえ、王と呼んでもよい存在である。数多の官吏が詰める蒼宮の、物理的に一番高いところに住まわれ、美洲稚などお顔を拝したことすらない遠いお方だが。


 けれど同時に、美洲稚も一応龍の端くれだ。いや本物の龍から見れば、トカゲだろ、と鼻で笑われるかもしれないが、一応眷属なのだ。そういう意味で、親愛や敬愛といった情はある。親もなく生まれ出でる精霊にとって、心の親のようなものだ。


 ただ。

 青龍陛下は、その気性、冷であり烈。

 登極以来、どれほどの美男美女に恋い慕われようと心動かさず、閨に迎え入れた者でも意に沿わねば燃やし尽くす。

 青龍陛下の朝廷は他の三龍のそれより清廉かつ公正な政を敷き、爛れたところも歪んだところもない、と。


 つまり青龍陛下は間違いなく名君ではあるが、官吏にも龍の眷属にも、つまりは美洲稚にとっても、近寄りがたいお方だ。

 その青龍陛下が……なんだって?


「陛下に恋をしていただかなくてはなりませんので、朝廷を上げてあらゆる手段を講じているのです。東国で名高い美男美女……には見向きもなされませんので、それはもう、醜女から老女まで拝謁させてみたものの、芳しくなく」


「そ、その流れでなぜ私が……」


「恋の精霊のお力に頼るためですよ、もちろん」


 男がかすかに笑いを含んだのは、それ以外に美洲稚に何の価値があるのかと言いたかったのかもしれない。余計なお世話と怒ってもよいことだが、それどころではない。


 言葉を交わす時によく顔を見れば、男は理知的で品のいい顔立ちをしている。鎧も美しく磨かれているところを見れば、やはりならず者では有り得ない。同行の女性たちも、皆目の覚める美しさ。そして皆が、力ある精霊だ。美しくも優しい淡色の霊力に満ちている。


 霊力の質が近いと親しみやすいというのは、精霊たちの持つ暗黙の了解だ。

 彼らの優しい色合いは苛烈な感情が薄く、穏やかな質だと言うこと。

 しがない精霊の美洲稚を慮ってのわけではないだろうが、やはりぎらぎらした色の皆さんでなくて良かったと思う。こんな信じがたい話を聞くには特に。


 彼らは、確かに蒼宮から来たのだろう。おそらくは一地方官吏の美洲稚が会う機会などない、武将や女官といった高位の立場の者たちだ。

 目の前の鎧の彼の話にも、おそらく嘘はない。


 美洲稚の手がガタガタと震え出して、男が再び茶碗を取り上げてくれた。

 恋の精霊だという噂を信じて頼られたものの、その実は人にすら役に立たないと唾棄される木っ端精霊であるとばれたら。

 青龍陛下に一睨みされて、存在が消し飛ぶ未来がありありと見えた。

 

 だめだ、無理、おしまいだ。


「誰よ、そんな迷惑な予言をした精霊はぁ」


 輿の上で叫んだ美洲稚に、男が穏やかそうな声で教えてくれた。


「霊亀様ですね」


 霊亀。その知性と霊力で龍をも凌ぐと言われる、大精霊だ。

 その名を聞いた途端、頭の中でガーンと大きな音がした気がする。

 美洲稚は両手で頭を抱えて、輿に敷かれた柔らかな絹に突っ伏した。


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