9.3


「ははぁ、〈TYPHOON lab.〉っていったら、最近コアなところで話題になってるやつじゃない。吹上くん、やるぅ」


 クリエイティブはこういうところに詳しかった。俺は聞いたこともない社名に首を傾げていた。

「あれ、春岡くん知らない?メディアアートのイベントとかやってる集団だよ。代表のって、よくテレビにも出てるでしょ。ほら、金属のオブジェがくるくる回ってるアートで有名な……」


 四谷いなさ。

 俺ははっとして顔を上げた。その会社やアートに心当たりがあったからではない。代表の名前に聞き覚えがあったからだ。

「お、ピンときた顔してるね。去年にバンドのMV作って賞取ってさ、結構騒ぎになったよね。あれはすごかったわ」

「ねー!すごかったっすよね!僕、あれ見てからずーっと、この会社のイベント狙ってたんす。で、今回の依頼は、次のスライドに……、」

 吹上がテンション高めに話し出す。要するに彼の趣味で取った案件なのだが、俺はその説明が一つも頭に入ってこなかった。


 中学の美術室に貼ってあった、あの自画像。作者は、〈四谷いなさ〉。

 それは間違いなく、炉火の兄のことだった。

 俺は突然現れた炉火との接点に、全身の血が沸き立つのを感じた。


「……ってことでー、次の打ち合わせの日はマーケティングとクリエイティブからも一人ずつ連れてきたいと思ってまーす。部長、現場志向だかんねー。マーケは誰がいく?」

 わけもわからないまま、俺はとっさに手を上げた。横にいる同部署の先輩と相談すらしていない。先輩は怪訝そうに俺を見た。〈お前今までそんなやる気見せたことないだろ〉と言っているような顔だった。

「おっ、いいねー春岡、やる気じゃん。じゃマーケは春岡で、クリエイティブの方は……」

 そういうわけで、俺はやや強引に、暮明市にある四谷いなさの事務所に向かうことになった。



 〈TYPHOON lab.〉の事務所は、暮明駅前の商店街にあった廃ビルを再生したものだった。コンクリート打ちっぱなしの内装は西洋の古城のような趣があったが、隅々に置かれた金属のオブジェが、ここがアートを生業にする人間の集まりであることを静かに物語っていた。


 事務所の入口で出迎えてくれたのは、四谷いなさ本人だった。細かくパーマのかかった長い黒髪が、いかにもアーティスト然としている。俺はその顔に、瞬時に炉火の面影を見つけた。

 いなさは事務所の紹介を交えながら、俺たちを会議室に案内してくれた。オフィスは三階まで吹き抜けになっていて、窓がいくつも連なる壁のおかげで案外明るい印象だ。「昼間は自然光で十分仕事ができるんだ」と言っていなさが笑う。気持ちの良いオフィスだと思った。


 螺旋階段を登り、二階に足を踏み入れる。吹き抜けに面した廊下には、トロフィーや記念写真が多く貼られたコーナーがあった。その写真の一つに、吹上が足を止める。

「あ、これ、kiddie!」

 それを聞いたいなさが目を輝かせた。

「そう!吹上さんkiddie好き?これ、受賞記念に一緒に撮ったんだよ、」


 写真に写っているのは、いなさと四人の男たちだ。トロフィーを抱えるいなさを男たちが親しげに囲み、歯を見せて笑っている。いい写真だった。


「僕めちゃ好きなんす!これ、去年のアワードのときの写真っすよね。四谷さんのMV見たときは凄く感動したんすよ。kiddieの世界観とメチャマッチしてて……じゅんじゅんのギターの音がそのまんまムービーになってる!って思って泣いちゃった。賞取ったやつもカッコいいけど、その一個前の曲も四谷さんのMVっすよね。あれも好きだな〜」

「うわ〜そう言ってくれると嬉しいね〜。俺も正直一個目のほうが気に入ってるんだよね。覚えてる?イントロの、フィードバックがキィーンっていうシーンの……」


 二人は興奮気味にそのバンドのMVについて話し始めた。盛り上がる彼らの横で、俺とクリエイティブから寄越された同期の若い女子社員は蚊帳の外だった。早く会議室に入れてほしい。

「……吹上さん、相当入れ込んでるね、」

 ひそひそと同期の彼女に耳打ちされたとき、事務所の奥の扉が開き、そこから書類を抱えた男が出てくるのを見た。廊下に足音が響く。

 その瞬間、時間の流れが急に緩慢になった気がした。

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