6. 沼津

6.1


 夏の裏山は蝉の大合唱だ。暑さと騒がしさで、耳が焼け落ちそうだった。そこかしこから腐った葉の匂いがする。俺は虫を払いながら、いつもの給水塔に足を踏み入れた。


 夏休みに入って一週間が過ぎた頃、突然炉火から連絡があった。朝七時に、いつもの山に来いとのことだった。それで今朝、俺は母の出勤についていく形で家を出たのだ。彼と山で落ち合うのは、実に二ヶ月ぶりだった。


 炉火はフェンスにもたれながら待っていたが、なぜか荷物は簡素だった。朝から何を燃やすのだろう、そう思ったとき、

「なぁ、拓海。少し遠出しないか?」

 思いもよらない提案を受けた。とっさに戸惑いが顔に出る。炉火はバツが悪そうに下を向き、「いやならいい。」と小さく言った。

「……別にいいよ。どこに、」

「とりあえず、金山まで行こう」


 それから俺たちは山を出て、麓のバス停から駅に向かった。

 暮明駅は小さいが、そこからこの地方の中心街へは乗換なしでいける。電車に揺られて二十分、地下鉄と私鉄の乗り入れる大きな駅で降りた。

 昨日遅くに雨が降ったせいで、ビル街は濡れたコンクリートの匂いがした。朝日はビルに遮られ、街全体が暗い。会社員と思しき大人たちが、その中を無秩序に行ったり来たりしている。


 炉火は今日の計画を立てたいと言い、駅近くのファーストフード店に入った。窓際のカウンター席をとり、ふたり並んでハッシュドポテトをかじった。

 彼と食事をとるのは初めてだった。不慣れな状況に、時間の流れがくすぐったく感じる。

 氷で薄くなったコーラを吸いこみながら、その顔をちらりと窺う。

「……炉火、何かあったのか、」

「べつに。予備校をサボりたいだけ、」

 彼はそれ以上のことを言わなかった。以前瑞希から、美大受験は他の大学とはまた違う受験戦争があるらしいと聞いたことがある。想像はできないが、おそらく苦しいのだろう。炉火は黙ってガラスの向こうの人の往来を見ていた。


「白川じゃなくていいのか、」

 こんな風に探りを入れた自分のことが、気持ち悪かった。炉火が俺との関係に悩んでいたのは過去の話だ。俺を誘い出したのは、俺がなんでも言うことを聞くから。それだけだ。そう考えながら返事を待つ。

 だが炉火は俺の問いかけに答えなかった。俺は居心地の悪さを感じながら、ストローの空袋を結んだり、丸めたりした。炉火はずっと、無表情で外を見ている。それから不意に、

「海がいい」

 と言った。すねた子供のような口ぶりだった。


「どこでもいい。ここから海に向かって電車に乗る。鈍行で行けるところまで行って、あとはその時考える。」


 ひどく不機嫌そうな言い方だった。だが、提案そのものは案外魅力的にも思えた。海なんて、中学の修学旅行で乗ったフェリーから見たのが最後だ。俺は財布の中に今いくら入っていたか考えた。普段電車に乗らないので、八千円でどこまで行けるのか、検討もつかない。


 店を出て、駅の切符売り場に足を運んだ。頭上に掲げられた路線図を見る。図は複雑に枝を伸ばしていたが、一番端の駅でも千円ちょっとだ。

「これじゃ、豊橋までしかわからないな。もっと遠くがいい」

 炉火がそう言うので、俺は携帯で、知っている海の町の名前を当てずっぽうに検索した。箱根は予算オーバーだった。浜松ではまだ余裕がある。所持金でギリギリ往復できそうな場所がいい。


「……四時間で沼津まで行ける。乗り換えは三回だ。炉火、これが面白そうだ。どうだ、」

「沼津か。行ったことがない。いいな、そこにしよう。」


 そうと決まれば早いほうがいい。駅員に相談すると、今の時期は特別な切符があるとかで、炉火と割り勘でそれを購入することにした。それは鈍行なら自由にどこにでも行ける切符だった。その切符で改札をくぐった瞬間、知らない世界に飛び込んだ気分になった。

 キオスクで適当に飲み物と菓子を買い、鞄に詰め込む。通勤ラッシュは一段落していて、空いている席に二人で並んで座った。発車ベルがなり、車両がゆっくりと動き出す。



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