3.2


 ゆっくりと瞼を開く。


 そこには金色の海が広がっていた。


 菜の花が、見下ろす斜面いっぱいに咲き乱れている。陽の光がそれを金に染め上げる。花は少し盛りを過ぎたらしく、時折吹く強い風に、ざぁっと音を立てながら、花弁が紙吹雪のように舞った。

 輝くばかりの景色を前に、炉火は黙ったまま目を輝かせていた。それから深く息を吸い込み、菜の花の匂いを楽しんでいる。


「〈いちめんのなのはな〉だ。」


 彼は少し興奮しているようだった。いつものあの冷徹な表情がない。炉火は空を見上げた。


「月はどこだ、」

「月?」

「〈やめるはひるのつき〉の意味を考えるんだろ。」

「それなら……今日はたぶん、こっちの方だ。……あった、」

 俺は南の空を指した。霞んだ空の中で、半分に欠けた月が淡く滲んでいた。

「よく位置がわかったな。」

「別に、普通に中学の時に習ったろ。地球と太陽と月の関係。」

 炉火は怪訝そうな顔でこちらを見た。


「覚えてないのか。月が昇る時間は、月の公転の関係で周期的に変わるんだ。月齢を覚えていれば、その日その時間、どこに月があるのか、だいたい予想がつくんだよ。ただ、太陽の明るさ、雲、それに空のかすみ具合によって見えたり見えなかったりして、それから……、」


 彼はぽかんとしている。


「何、」

「お前、そんなに喋るんだな」

「……月、好きだから。」

 彼とはそういう話をしたことがなかった。したら馬鹿にされると思ったからだ。彼はいつも、俺を馬鹿にしては楽しんでいる。

「……変か、」

 天体が好きだ、ということが。


「別に。何が好きだって変ってことはないだろ。それより今の説明は長すぎだ。もっと簡単に言えよ、」

 俺はほんの一瞬だけ言葉を失った。意外だった。気を取り直して、手短に説明してやる。やや気持ちが浮ついている。

「……つまり、月は昼でもちゃんと出ていて、条件が揃えば見つけられるってことだ。ただ、目立たないだけで」

「へぇ。じゃ、俺は気づいてなかっただけってことか。昼の月なんて、たまにしか見えないと思ってた、」

 彼は感慨深げにその月を眺めた。

「夜よりずっと淡いな。同じ月なのに、昼ってだけでなんでこんなに分かりづらいんだろうな」

「太陽のせいだ。でも、場所が分かればすぐ見つけられるだろ、」

 どうだか、と言いながら、炉火はそのまま西日の方を向き、鞄を置いて菜の花畑に足を踏み入れた。


 腰ほどまでに伸びた花を掻き分けながら、炉火は好きにその中を泳いでいく。無造作に歩いているように見えたが、その足は慎重に、つま先で菜の花の根を避けていた。俺も炉火の足跡をなぞるようにしてその後ろについて行った。体に花が触れるたび、蜂蜜のような匂いがふわりと漂う。炉火は振り返らずに言った。


「白川と付き合うことになった」



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