2.4


 山道の途中で乗り捨てられた自転車が見えた。炉火の自転車だ。

 俺はそのそばに自分の自転車を置くと、そこから横に伸びる丸太階段を登った。古い給水塔が見えてくる。登りきった場所に、黒い学生服を着た炉火がひとりで立っていた。冷たい塔の影の中、錆びた防護フェンスに背を預けながら携帯をいじっている。その光が彼の顔を青く照らす。


 炉火は足音で俺に気づくとすぐ、黙って焼却の準備を始めた。

 今日は木枠に張られた油絵だった。キャンバスいっぱいに、白い沈丁花の小花が描いてある。その中で、緑色をした細い蛇が、花に溺れるように描かれていた。


「……炉火、」

 ズボンのポケットから、安いグリーンのライターを出す。彼は目線だけで返事をした。


「白川から聞いた。お前、告ったんだって、」

「……そうだよ、」

「なんで俺に言わなかったんだ、」

「拓海には関係のない話だろ」

 苛々とした口調で返される。思った通りの返答だった。

「いいから火、つけろよ、」


 俺は言われた通り、彼の絵に火をつけた。描かれた沈丁花が煙を吐いていく。あまりに精緻に描かれているので、煙にその花の香気が含まれているような心地さえした。だが、いくら鼻を利かせても焦げたにおいの他に何もなかった。

 絵は小さく爆ぜながら、ゆっくりと焼かれていく。あたりがぼおっと温かくなった。俺たちはそのそばで腰を下ろし、炎のゆらめきを無言で見つめていた。


「拓海、」


 不機嫌そうな声で呼ばれて、俺はその顔を見返した。彼の表情には、あの絵と同じ、秘められた美しさがあった。目元のホクロが炎の加減で見え隠れする。


「詮索するなよ、」

「何が、」

「俺のこと。まぁ、もともと微塵も興味ないだろうけど、」


 その呟きにはほんの少し非難の色が滲んでいた。さっきの俺の発言が、彼の機嫌を損ねたのだ。


「なんとか言えよ、」

 炉火は吐き捨てるようにそう言うと、急に覆いかぶさって、俺の唇を奪った。頭がフェンスに押し付けられる。ガシャン、と大きな音がした。逃げ場のないまま、強引に舌をさしこまれる。彼の舌が俺の口を泳ぐ。

 こういうことは初めてではない。時折――炉火の機嫌によって行われたり行われなかったりする遊びの一つだった。彼は俺の態度が気に入らないと、こうして鎖をつなぎ直す。そして俺は、従順に受け入れることによって、彼への服従を示すのだ。


 最初にこうなったのはいつなのか、覚えていない。だが彼が確信を持った目で『試したい、』と言ったのは覚えている。

 炉火はおそらく、俺が男のほうが好きだということを知っている。

 知っていて、こうするのだ。逃げ惑う俺を嘲笑するように。


 初めて唇を重ねたとき、俺の身体が反応するのを見て、彼は『気持ち悪い、』と言った。はっきりと。

 炉火は俺を――俺の心を踏みにじることで、ようやく自尊心を回復しているのだろう、そんなことをぼんやりと考えながら、薄く目を開けた。

 炉火と目が合う。彼はいつも、口づけの間ずっと射るような眼差しでこちらを見ている。俺が彼に逆らわないか、俺がどれだけ彼に服従しているのか、確かめるようにして。

 それはつまり、彼にとってこの口づけが、俺を支配下に置くためだけに行われていることを意味している。それ以上の意味はない。きっと、彼が瑞希に抱くような感情は、ここにはない。


 やがて彼は口づけにんで、離れていく。もう用は済んだと言わんばかりの顔だった。俺はその横で煙草に火をつけた。祖母の煙草はとっくに無くなっている。これは自分で買ったウィンストンだ。私服を着ていれば、ギリギリ怪しまれることなく煙草を買えるぐらいには、俺は成長していた。体だけは時間が進む。その体に包まれた俺自身はどこに行くのかわからない。


 煙草はすぐに燃え尽きた。その煙の味を確かめるようにして炉火が再び唇を重ねてきたので、しばらく彼の好きなようにさせた。



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