(6)取材と葡萄と、編集者の岡村

 取材の当日が近くなると、柳生はいつも憂鬱になる。


 まず、普段から口の端にクリームをつけているような編集者の岡村と、しょっちゅう連絡を取らなければならない。彼が勝手に連絡を入れてくるのだ。そして何より、普段から時間の大半を自由に使っている生活もあってか、一日中予定でがんじがらめにされているのは窮屈だ。


 取材先の詳細について聞いたのも、当日の五日前という、彼の憂鬱がピークに達する頃であった。どうやら、またしても岡村の下準備があまりにも悠長で雑すぎたために、詳細が決定するまでに遅れが出たらしい。

 

 電話を受け取った柳生は、呆れて物も言いたくなかったが「で、どうなんだ」と、嫌々ながら受話器越しに岡村に尋ねた。聞いたおいた方が心構えは出来るし、何より岡村の先導で取材に行くとなると、全く安心など出来ないからだ。


 しかし当の岡村は、心配事などないという明るい口調で、まずは「東北で果物食べましょうね」と言ってきた。仕事の件をまずは言えと思ったし、柳生はそれを聞いて途端に行きたくなくなってしまった。


 やりとりを聞いていたらしい曽部野編集長の「なんて電話の対応をしているのよ、あたしに代わんなさいッ」という声が受話器越しに聞こえた直後、連絡が遅くなってしまった事と、メインとなる取材先は山形県のT葡萄農園で、他の場所にも果樹生産の盛んな産地として話が聞けるよう話をしてある事を説明した。


 山形県にあるその地名には、聞き覚えがあった。記憶を辿るよりも早く、娘から届く手紙の住所に書かれていたと柳生は思い出した。そこは果物の栽培が盛んであるし、彼女からの便りの中で「葡萄」という単語を見た覚えもあった。



 取材当日、柳生はビジネスバッグに必要なものを入れて家を出た。待ち合わせの駅は家の近くにあったので、移動に困る事はなかった。



 岡村とは駅前で合流したのだが、彼はいつもの大きなボストンバックを抱えて柳生を待っていた。しかも、近づきがたい状況で待ち構えていたので、他人の振りをしたくなった。

 岡村は、早朝一番からアイスのソフトクリームを食べていた。早朝一番に駅を利用しなくてはならない会社員達が、なんだこいつは、という目でその存在を確認しつつ、関わり合いを避けるように足早に通り過ぎて行く。


 首からデジタルカメラを下げ、半袖の薄緑のパーカーと、幅のあるジーンズを着用している岡村が、膨らんだ自身の腹をぽんと叩いてこう言った。


「やっぱり、夏はソフトクリームですよね、先生!」


 人の流れがある駅前で同意を求められても、非常に困る。確かに七月も下旬となり、日中の日差しはかなり強くなっているし夜中の風も生温く、朝はしっとりとしている。

 けれど日中に比べると、比較的過ごし易いだろうこの時間帯に、汗の玉を額に浮かべて、それを何度も拭いながらソフトクリームを幸せそうな顔で食べるやや小太りの男を、サラリーマン達は自分達と同じ大人とは認めたくないだろう。


 取材先の山形県は、いわずとも知れた果物の名産地である。日本国内で出荷されている果物のうち、出荷数は上位をキープしている。七月下旬からは葡萄狩りが行われることもあり、柳生達も今日の取材で、その様子を見せてもらうことになっていた。

 柳生は己の心の中で今の状況を受け流すことにして、岡村には適当な相槌を打ちつつ新幹線の到着を待った。予定時間ぴったりに、二人でそれに乗り込んだ。


「もう小説は、お書きにならないのですか?」


 新幹線に乗り込んでしばらく経った頃、二個目の駅弁を食べていた、岡村が不意にそう言った。

 上目こちらを見てくる顔はきょとんとしていて、観察眼を持っている柳生にも思惑や意図が全く読み取れなかった。何か考えがあっての質問なのだろうかと一瞬身構えたものの、普段の岡村を思い返して、その可能性はないだろうとも思った。


「緊張感のない男だな」


 柳生は話をそらすように、呆れ顔で弁当を指して、それから窓の向こうへ視線を投げた。過ぎ去る東京の風景を、持ち前の顰め面でぼんやり眺める。


 岡村が口をもぐもぐとさせながら、米粒のついた箸を柳生に向けた。


「僕、先生の書く話が好きなんですよ。先生をすごく尊敬していて、ちょっとしたページを任されただけでも、先生の担当になれて良かったなあって感じますもん」

「なら箸を向けるな」


 こいつ、尊敬という言葉の意味を分かっているのか?


 柳生が訝って視線を返す向かい側で、岡村が箸先についていた米粒に気付いて、それを口で拭った。


「先生の書く小説ってなんだか暖かくて、読んでいると胸にじんわりと響いてくる言葉がたくさんあるんです。今回は気分転換がてら、いい取材ができると思うんですけどねぇ」


 岡村はそう言って、ちょっと残念そうに笑った。柳生が『砂漠の花』を発表した後に書いた小説の舞台が、東北であったことを思い出して話しているようにも取れるような発言だった。

 これまで読んだ本の内容もろくに覚えていない天然編集者にしては、案外まともな発言にも感じて、柳生は意外に思った。けれど応えることが出来ないとは、自分がよく知っているからこそ沈黙した。


 しばらくすると、彼らを乗せた新幹線は東京を抜けた。デザートまでしっかり平らげた岡村が、満足げな欠伸を一つして眠った。


 悩みのなさそうな岡村の寝顔を見ていた柳生は、次第に腹が立ってきた。岡村が「先生が食べなかったら間食用にします~」と買っていた焼き肉弁当を食べ、持って来た文庫本を開いた。


             ※※※


 山形県は果物の栽培が盛んで、日本国内でもその出荷数は上位だ。四季が豊富な土地には緑が多くあり、気候も穏やかで人柄も暖かい。

 レンタカーを借りて農村地帯に入るまでに、何度か運転手の岡村が道を間違え、そのたび地元の人間に道を尋ねることになってしまったのだが、皆親切に教えてくれた。農村地域に入ると、清浄な空気の匂いが鼻腔に心地良かった。


 風は少し吹いており、天気はすこぶる良い。日差しは暑過ぎるくらいだったので、車内にはずっと冷房がかけられていた。


 しかし、そんな中、助手席で窓を開ける柳生に向かって、岡村が「先生、冷気が逃げちゃいますよぉ」と情けない声を出した。柳生はそんな彼をじろりと睨みつけた。


「冷房が強すぎると、一体何度言えば分かるんだ」

「え~、そんなことないですよ~。これくらいじゃないと、汗がもう止まんなくって大変」

「せっかくここまで来たのだから、美味い空気を吸おうとは思わんのか? 風はまだ涼しい方だ。ほら、あの鳥だって、いかにも涼しげに空を飛んでいるじゃないか」

「ちっとも思いませんね、空気を吸っても腹は膨れませんもの」


 岡村は口を尖らせた。ケーキやアイスクリームでも腹は膨れんと思うぞ、という返しの指摘については、これまでに何十回と繰り返されていたやりとりだったので、柳生はなんだか馬鹿らしくなって「もういい」と自ら会話を打ち切った。


 二人が向かっている大きな葡萄農園は、南西方向にあった。途中、近くのコンビニでトイレ休憩をすませ、柳生は珈琲と煙草、岡村は炭酸ジュースとアイスクリームで移動の疲れを癒した。


 長谷堂城跡を横目に目的地へと辿り着いた頃には、太陽は頭上に高く昇っていた。農園の主人を含む従業員五人が快く迎え、冷たい水をもらった後、広大な敷地にある葡萄園と加工品を販売している別館を紹介された。


 葡萄の栽培にも、他の農作物同様に苦労が多々あるようで、柳生は出来る限り多く聞けるよう心掛けた。葡萄園の主人の話は、時には歴史を交えつつ専門的で、メモよりもテープレコーダーが役に立った。

 下がっている房から一粒だけを取ってしまうと、そこから傷みが出てしまうので、葡萄狩りの際は一房ずつ取って食べてもらうのだそうだ。


 取材を終えると農園の主人は、柳生と岡村に、それぞれ二房分の葡萄をプレゼントした。シャインマスカットと呼ばれる緑の葡萄は、皮ごと美味しく食べられるタイプで、日差し越しに覗くと、精霊の眼のような色合いが美しい。


 葡萄をかざし見た時、柳生はその葡萄の鮮やかさに、不意に娘からの手紙が脳裏を過ぎった。岡村が雑誌に掲載する写真を撮っている間に、葡萄園の主人にそれとなく尋ねてみた。


「う~む。この辺にも農家は結構ありますから、一概に葡萄と言われましてもねぇ……」


 葡萄園の主人は、実に困ったような顔をした。他に何か情報はないのかと尋ね返してくる。

 娘からの手紙は旧姓で名前が書かれていて、柳生は彼女の新しい名字は知らないでいた。短い手紙の内容から、娘には子供が生まれていて、面倒を見ながら農作業を楽しんでいるという情報しか持っていない。


 思い返せば、手紙には『いらっしゃってください』だとか『機会があれば訪ねてください』というようなキーワードは一度も記されておらず、農園が特定されるような情報も盛り込んではいなくて――。


 そこまで考えた柳生は、恐らく娘だって、きっと離婚した父親に会いたいとは思っていないのだろうと思った。


 手紙の受理印で土地は分かっているから、暮らしているのは確かなのだろう。妻の方は住所さえ記していないが、おかげでこの隣の県であるというおおまかな情報は知っている。

 自分は一体何を考えていたのか。もう一度会おうだとか、手紙の返事だってするつもりもないくせに、この期に及んで孫の顔でも拝むつもりでいるのか?


 ただ娘が、この土地のどこかに住んでいるというだけのことである。そして、元妻の現在の夫の故郷でもあるらしい。――娘からの便りに、一度そんなことが記載されていたような気がする。


 詳細はまるで分からないが、まあ別に気にしちゃいないさと、柳生はそう考え直した。自分達の人生は、同じ空の下で、それぞれ交わる事なく続いていくのだろう。 

 最後の撮影を終えた岡村が、歳に似合わぬ無垢な笑顔を浮かべて「先生ぇ」と手を振って駆け寄ってくるのが見えた。何故だか無性に張り倒したくなったが、柳生はそこをぐっとこらえて彼からの報告を待った。


「なんだ、騒々しい」

「うっふっふ、美人な店員さんにお菓子をもらっちゃいました! これ超美味しい!」

「これだから、お前は結婚出来んのだ」

「えぇ~……突然シビアな指摘をされたら戸惑いますよ~、傷つくなぁ」


 岡村はそう答えながら、菓子らしきものをもぐもぐと口にした。腕に提げている葡萄が二房入った袋に加えて、会社の経費で落とそうと企んで購入された沢山の菓子の入った袋まで追加されていた。


 この葡萄園での取材はもう終わっていた。しかし、ここで岡村はようやく、世話になった葡萄農園の主人が「う~ん」と首を捻っている様子に気付いた。


「どうしたんですか?」


 岡村が緊張とはほど遠い表情で、美味しいと絶賛の菓子を引き続き口に放り込んでもぐもぐとさせながら、そう尋ねた。


「……ふうむ、若い連中は、ほとんど都会に出ちまっているからなぁ……。残って手伝っている子もいるが、若い夫婦なんていただろうか…………?」


 どうやら、人の良い彼まだ考えてくれていたらしい。岡村も戻ってきてしまっていることだし、柳生は苦笑して「もう大丈夫です」といってそれを断った。すると、葡萄園の主人は、困惑したように彼を見つめ返した。


「私達は同業者同士の付き合いも深いのです。私はここが地元ですし、同じ葡萄園農家だと、いろいろと面倒をみてきた若い農家も多々ありますが、都会から娘っ子が嫁いできたなんて話は、ここ十年は聞いたことがないのも不思議でして」


 あ、お力になれなくて申し訳ない、ちょっとした独り言みたいなものですので……そう言って彼は心配そうに柳生を見た。岡村が「なんの話ですか?」ときょとんとした顔で小首を傾げて、二人の顔を見比べる。


 柳生は小さな違和感を覚えた。一瞬何も言葉が浮かばなかったが、胸に覚えたそれは気味の悪い感触だけを残してするりと離れてしまい、やや遅れて「そうですか」と答えた。

 細かい町村を含めると、土地はかなり広いだろう。娘は、長谷堂城跡のあるこの地区以外にいる可能性だってある。細かい町村名や番地までは、手紙に記載されていなかったのだから。


 そう思案しながら、柳生は自分がどこか落胆するのも感じた。まあいいさとふんぞり返れば、心は少し楽になったものの、それは喉元に小さな骨が刺さったような違和感から、少しの間だけ開放してくれるような気休め程度だった。


 葡萄園の主人に別れを告げ、二人は車に乗り込んで、次に予定している場所へと向かった。途中、この土地でよく食べられているという定番メニューを食べ、ちょっとした観光地を回りながら取材を進めた。

 強い日差しが照りつけているため、二人はすっかり汗だくになった。店内や車内の冷房が唯一の救いで、何度も休憩を取らねばならなかったが、柳生は若い岡村に付き合って積極的に取材した。


 それでも頭は一向に冴えるばかりで、葡萄園の主人から聞いた話や、娘から送られてきた手紙の内容ばかりが嫌でも次々に頭に浮かんで、消えてくれなかった。



――果物を育てるというのは大変なのよ。傷んでしまったり、形の悪い果物は出荷出来ないけど、それを食べられるのも私は幸せで。

――ウチの葡萄だけじゃなくて、同業者からのおすそわけもあるの。先日は、お隣さんから林檎を頂いてね…………



――お父さん、元気にしていますか? 長谷堂城跡にも、雪が積もっています。



 娘の手紙の中に『長谷堂城跡』という単語があったことを思い出したのは、すべての日程をすませた後だった。日帰りがきついスケジュールだったので、岡村と一拍する旅館の湯で汗を流し、食事をとっている時だ。


 娘は農園から見えると言っていた。そうすると、彼女は間違いなくこの県の、確実にここから比較的離れていない場所にいることにならないだろうか……?


「おい、岡村。お前、住所をぼかして手紙を出したことはあるか?」

「突然なんですか、先生? 住所をぼかしちゃったら、返事がもらえないじゃないですか」


 岡村は、まともな意見を言った。経費で飲み食い出来るうえに一泊出来るとあって、既に二本目のビール瓶に手を伸ばしている。彼はそれを不器用な手で力任せに開けて、自分と柳生のコップに継ぎ足しながらこう続けた。


「でもまあ、それに近い手紙なら、もらったことがありますよ」


 神妙な面持ちでうんうんと頷き、岡村は遠い過去を思い出す風な、しみじみとした口調で言った。


「送り主の住所欄には『琉球以下略』と書かれていて、送り人名が『(笑)』でした」


 それはそれで興味深い。

 柳生はコップに注がれたビールを飲み、話の先を促した。


「ふむ、それで?」

「内容はすごくシンブルなもので、僕が数年前に借りた金を返せというものでした」

「送り主が誰だか分からんと、特定も難しいだろうに」


 柳生が眉を潜めると、途端に岡村が「いいえ」と頭を振った。


「送り主は弟だったんです。お菓子を買うために僕がくすねた、まだあいつが小学生時分だった頃のことを、大学生になってまで覚えていたんですよ」


 人間って、結構細かいことにこだわるんですねぇ、と岡村は悟ったような顔で言った。あいつ、海洋学を学ぶために沖縄の大学に進学したんですけどね、僕と違って妙に遊び心の足りない、つまらない変人でして……


 柳生は、続く彼の言葉を、己の中で『以下略』と評して食事を再開した。岡村が自分のことを棚に上げたその話は、四十分にもわたって続いた。

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