(2)先生と呼ばれている小説家と、その三十代の編集者

 彼は現在、多くの人間に『柳生(やぎゅう)』と呼ばれていた。


 それは本名でもあったし、筆名としても使用している名字でもあった。数少ない友人達は彼を『柳生』の呼び名で親しみ、出版関係者の多くは『柳生先生』と呼んだ。両者共に下の名前の『静(しずか)』は呼ばないし、そもそも友人達の中には、それを知らないか忘れている者もあった。


 柳生静(やぎゅうしずか)――筆名を『柳生林山(やぎゅうりんざん)』とする彼は、小説家である。現在は雑誌のコラムやエッセイをいくつかと、選考委員の仕事を主にやっている。


 他の雑誌や新聞社の執筆については不定期であったが、付き合いの長い例のW出版社だけが、連載という形でコラムや特集記事など執筆企画が続いていた。


 その小説誌が誕生する過程から、すっかり有名になる現在までを間近で見てきたせいか、頼まれると断ることができなかった。ようやく作家として名を売り出した頃から通っていたこともあり、理由を見つけては足を運ぶ自分がいることも否定できない。


 ここ十年ほど、柳生は毎日の食事を外での軽食で済ませることが多かった。向かう先の途中で喫茶店に入って珈琲とサンドイッチを頼み、打ち合わせとして寄った先でも似たような物を口にし、茶菓子で満足して一食を抜くこともすっかり定着していた。

 仕事で用がない時は漫画喫茶などに行き、雑誌などを読みつつ、やはり軽く胃を満たして帰宅する。若い頃と違って時間に余裕を持っているせいで、仕事がてら外を歩いている中で、食事処を目にするとふらりと立ち寄ることも珍しくなかった。


 最近一番よく利用するのは、W出版社と彼の自宅との間に新しくできた、駅近くにある大きな二階立ての漫画喫茶である。パック料金はないものの、二階建ての建物は清潔感溢れるガラス張りで見晴らしが良く、漫画だけでなく雑誌や小説もいくつか揃えられていた。

 一階、二階にドリンクバーが設置され、それぞれの階にオープン席や個室席、そしてコインロッカーも完備されている。少しの待ち時間に立ち寄る客も多かったし、二十四時間営業ということもあって、終電に乗り遅れた人の利用も多くあった。


 K出版社を出た柳生は、次の予定の時間まで少し暇を潰すべく、その漫画喫茶に立ち寄った。一階にある窓際のオープン席に腰かけて、ガラス張りの店内から大通りを眺めた。


 様々な心境や境遇に置かれた人間が、それぞれの方向へ歩き過ぎる姿にはドラマがある――と彼は思っている。昔は通りのカフェテラスに腰かけては、彼らの中にある物語を想像して、短編小説を書いたものだった。


 細い腕時計に厳しい目を走らせ、堂々と人波をぬい歩くスーツの女性。カジュアルなジャケットに身を包み、蒸し暑さも気にしないような穏やかな顔を空に向けて、ゆったりと歩き去る若い男。

 己の人生すべてに納得がいかないという怪訝な面持をした中肉中背の男が、携帯電話を耳に押し当てた際、擦れ違う彼を一瞬だけチラリと見やって足早に過ぎ去った。


 柳生は珈琲を一杯やりながら、しばらく時が流れるままに身を任せた。たいして時間もかからずに迎えが来ることは分かっていたので、食事はとらなかった。


 どのくらいそうしていただろうか。


 柳生は不意に、今朝に新聞を取る際またしても郵便受けに入っていた、今度は官製ハガキだった『便り』のことを思い出した。時々思い出したように送られて来るそれについて考えてしまい、彼の眉間の皺が深まった。


 この三日間で、二つの土地から二通の手紙が届いていた。その送り主は、彼の元妻と娘である。柳生は十年前に離婚したのだが、しばらく経った頃、彼女達から不定期に手紙が届くようになった。

 保身の為か嫌がらせか、元妻からの手紙には住所の記載がなかった。初めて届いたのは官製ハガキで、新しい生活を手に入れた彼女の名字は早々に変わっていて、再婚したこと、彼がきちんと払っていた娘の養育費の断りも書かれていた。


 その一通で終わると思っていたのだが、彼がその手紙を棚の奥にしまって返事も書かずに過ごしていると、短い文章の手紙が『暑中見舞い』や『残暑見舞い』のように、一ヶ月から数ヵ月の間隔で送られてきて、それは現在まで続いている。


 元妻から届けられる手紙には、自分達は元気に暮らしているというようなことが、素っ気なく短かく書かれているだけだった。わざわざ手紙を送るような用件でもないし、つまりは離婚して幸せになったと言いたいのだろうか、と嫌がらせの可能性を少し考えた。

 ならば気が済めばやめるのだろう。そもそも、別に手紙を送り返す必要もないとそのまま放っておいていたら、その数年後、娘本人から早々に結婚したという手紙が届いた。今は大きな葡萄園を持った跡取り息子の嫁なのだという。


 柳生は、妻や娘と過ごす時間をあまり多く持たなかった。とはいえ、娘から結婚の知らせを受けた時、そういえば彼女が昔、テレビを眺めながら「いつか農家のお嫁さんになるんだ」と言っていたことを思い出してもいた。


 そんなの苦労するだけだ、大学に行って公務員になれ――そう忠告したら、聞こえない振りをされてしまった。その時に見た、まだ中学生だったあどけない娘の、どこか大人び始めた穏やかな横顔が、何故か今でも頭を離れないでいる。


 娘を見たのは、妻の車に乗り込んだ姿が最後だった。当時は中学二年生であったが、現在は二十四歳で、手紙によれば第一子にも恵まれたらしい。


 いつも娘は手紙の中で、田舎の空気はいいものだと書いていた。多くの自然に触れて、毎日多くの人と関わり生きているという。


 その生活ぶりが書き連ねられた文章は、堅苦しくなく自然体で、嫁いだ女性にしては純粋な子供心のままに書いたようで少し楽しくも読めた。離れて暮らしてようやく、なんだか彼女らしい一面に気付けたような気もした。


 妻よりもやや長い文を書く娘の手紙には、細かい番地までは書かれていなかったものの、住所は町村名までは記されていた。その住所に送れば、恐らく田舎であるし手紙は届くだろうと思われたが、やはり彼は返事を書かなかった。


 そもそも娘の手紙にも、元妻同様に、返事を期待するような文章はなかったからだ。相変わらず二人の手紙は、返事を待っていないと伝えるように、最後はいつも「元気でお過ごしください」と締められていた。



 漫画喫茶のオープン席に人が増え始めた頃、柳生は眺めていた通りから、一人の男がガラス越しに店内を覗き込んだことに気付いた。なんとも頼りのないへらりとした表情で手を振っているその男は、仕事の件で待ち合わせをしていた相手だった。

 その男は通りを歩く人々の視線も気にせず、三十代も後半の中肉中背にパーカー姿で、ガラス窓に張り付いて店内を大袈裟に覗きこみ、寝ぐせが立ったままの頭を時折左右に揺らしながら、ぱくぱくと口を開閉してこちらに合図を送ってきた。



 オープン席についていた客達が、不審な男に気づいて柳生へそろりと視線を向けた。柳生は答えないまま素早く席を立つと、返却口に珈琲カップを戻して会計を済ませ、足早に店内を出た。


 すると先程の男が、大型犬種の仔犬のように、身体を重そうにして走り寄ってきて「お待たせしてすみません、先生」と全く反省のない顔をにやにやとさせた。


「次の企画の件で、ちょっと話していたというか」

「口の横にチョコがついているぞ」

「え、マジっすか」


 だからみんな僕を見ていたのかなぁ、と編集者の岡村(おかむら)が呟いて、パーカーの袖で口許をごしごしと拭い始めた。


 初めからチョコなんてついていなかったのだが、普段から三度の食事にケーキやチョコ菓子を食うところから推測して、ちょっとかまをかけてみただけだった柳生は眉間の皺を深めた。

 この中肉の男は、またしてもケーキバイキングにでも立ち寄っていたのだろう。食べ始めると時間を忘れるか、故意に時間を無視するという、清々しいくらい自分の欲望に忠実な阿呆(おとこ)である。


「おかしいなあ。いきつけの店なのに、あの可愛い店員ちゃんは、また僕の口許のチョコを放っておいたんですかね。前もそのせいで、打ち合わせで大変気まずいことになったのに」


 ふっくらとした身体を、ゆとりあるパーカーとスエットズボンで包み、頭の寝癖もそのまま堂々と外回りに出て、原稿を取りに向かったりする彼の神経を考えると、口許のチョコ一つで、大変気まずい思いをしたというのも甚(はなは)だ信じられない。


 とはいえ、ここ最近、岡村は口許にチョコやらクリームやらを付けたままであると、いつもその同じ台詞を口にした。


 実は三カ月前ある女性随筆家との打ち合わせをした際、口許のチョコを指摘され「あなたって、可愛いのね」という一言と、母性を感じさせた彼女の笑顔が忘れられなくなっただけの話なのだ。

 その女性随筆家というのが、新田(にった)ノノハ、六十五歳。体系はふくよかで薄い唇に真っ赤な口紅を塗り、ボブカットにパーマをあて、ワンピースドレスと真珠のネックレスが印象的で、的確で厳しい評論家としても有名である。


 W出版社の編集者一の自由奔放な男、岡村(おかむら)、三十八歳独身。未だ彼女もない彼は、少し変わっている。

 叱ると気持ち悪いくらい懐いてくるし、飲み会で泥酔した女編集長の曽野部に睨みつけられ、全員が凍りつくほどの衝撃的な女帝発言を受けた時、彼は「靴を舐めてついていきます!」と間髪入れず答えた、ある意味誰よりもタフな男だった。


「…………お前、今度もまたケーキバイキングなのか?」

「夏に販売される新作ケーキが決定するイベントと重なっていたので、ついでに投票もしておこうかと思いまして」


 そう答えながら、岡村がもう一度パーカーの腕袖で唇を拭った。そんな彼のパーカーの肘袖あたりに残るクリームの残骸らしき影を、柳生は己の記憶の中から故意に抹消することにした。

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