第8話 思い通りになってやるもんか




「ワタツミ様!」

「! フキ」


 御殿に戻ると、ワタツミが広間で項垂れているのが見えて、フキは急ぎ足で近づいた。

 呼びかけるとワタツミはパッと顔を上げるが、すぐに下を向いてしまう。そこにいつもの子供のようなはしゃぎっぷりはない。


「……悪い」


 俯いてぼそりとそう口にする海を統べる神に内心驚きを隠せない。海の荒れようから見て、それはもう怒っていると思っていたからだ。


「俺が言ったことで、お前は傷ついたんだろう」

「し、しかしワタツミ様はなにも間違ったことを言っていません。私が悪いのです、私が、勝手に不機嫌になっただけで……」


 けれどフキの言葉にワタツミは黙って首を振る。

 荒れていた波の音がなくなり、辺りを静けさが包み込んだ。


「間違ったことを言っていなくてもだ。俺はフキを傷つけた。お前が嫌がる、言い方をした」

「……ワタツミ様」

「悪かった、フキ。お前に戻ってほしくないと思っても、あんな言い方すべきじゃなかった」


 深々とワタツミが頭を下げた。

 言葉に詰まる。

 何を言うべきかわからなくなり、頭の中で言葉が絡まった。


 言われたとき、フキは確かに悲しかった。信じてきたこれまでを否定された気がして、息をすることも忘れた。

 だというのに、なんだこれは。


 単純な奴め、と頭の中でもうひとりのフキが自身をせせら笑う。

 あんなに村の人間を悪く言われて怒っていたはずのなのに、「戻ってほしくない」と言われただけでこれか。おめでたい頭だな。

 言われて、気付いてしまう。また別の意味で、呼吸を忘れた。


「……どうしても帰りたいというのなら、帰ったって、いい」


 しかし、その沈黙を目の前の神は悪い方へと受け取ったらしかった。

 ワタツミは眉根を寄せると、美しい金の目をフキから隠すように伏せながらそんなことを言うものだから、フキは慌てた。それこそ、手に握っていたことを忘れるくらいに。


「ち、違いますワタツミ様! 私は」


 嬉しかったと、そう言おうとした瞬間だった。緩んだフキの手元から、ごとり、と重い音がふたりの間に落ちる。


「? フキ、これはなんだ」

「あっ、これは、その、お土産、です」


 シオメからの言葉を思い出しながら、フキは屈んでサンゴを拾い上げる。

 すっかり忘れていたそのことに申し訳なさを覚えながら、フキはサンゴを軽くはらってから、不思議そうにのぞき込んでくるワタツミの手に置いた。


「ワタツミ様、すごく怒ってると思ったので、その」

「――そうか。気を遣わせたな」


 ワタツミが置かれたサンゴをもう片方の手で撫でた、そのとき。


「え?」

「っ、離れろ、フキ!」


 サンゴが黒く染まった。


 一瞬のうちに真珠色だったころの面影はなくなり、黒い塊がごろりと転がる。

 何が起きているのかわからず、その場で固まってしまったその瞬間、フキはワタツミから突き飛ばされた。


 わけのわからないままフキは尻もちをつき、反射的に上へと視線を向ける。

 叫び、もだえ苦しむ姿が、目に飛び込んできた。


「が、ああ、ああああああっ!」

「ワタツミ、様?」


 フキが呆然としている間にも時は過ぎ、見えない何かがワタツミを追い詰めていく。

 美しい長い髪を振り乱しながら、喉から血が出るのではと思ってしまうほどの叫び声を上げて、ワダツミはうずくまる。

 苦しんでいると、ようやく脳に情報が届いた。


「ワタツミさ――!」

「おっと、いけないよお嬢ちゃん」


 訳がわからないまま手を伸ばす。しかしそれは背後から迫って来た白い手に絡めとられてしまった。


「っ、何するの⁈」

「大人しく、ここで見ていれば悪いようにはしないさ」


 背後から耳に吹き込まれた声には聞き覚えがあった。ついさっき聞いたのだ、聞き間違えるはずがない。

 顔の近くで、シオメがにたりと笑ったのがわかった。


「放して! ワタツミ様を助けなきゃ!」

「助けるぅ? どうやって?」


 まるで人が変わったかのような話し方にぞくりと寒いものを覚え、フキは何とか手から逃れようと身体をよじる。しかし、いくらもがこうとシオメの手はまとわりついて離れない。

 あっという間に、フキは地面へと組み伏せられてしまった。


「――あなたなの? あなたが、ワタツミ様をこんな目に」

「あたしがやらなくても、いずれ誰かがやってたさ。遅いか早いかの違いだけ」


 フキの脳裏をよぎるのは、シオメに貰った今は黒いサンゴ。尖った声で追及すれば、からからと笑い声が返って来た。


「協力してくれてあれがとう。おかげでずいぶん早くあの坊やを封じ込められそうだよ」

「――ワタツミ様に何をしたの」

「そうだねぇ、あんたは可愛いし。特別に教えてあげるよ」


 そっとシオメの唇が、耳にくっつくかと思うほど近くに寄せられる。


「あたしはね、こいつに元通り、いなくなってほしいのさ」

「っ!」

「けどあたしみたいなただの人魚じゃ神に反抗するには力が足りない。だから賢いあたしは考えたのさ。神には神をもって、対抗すればいい」


 ワタツミの悲鳴を表すかのように、海が暴れる。波がうねり、高く持ち上がっては海面を叩きつける。

 フキはハッとなった。シオメはけらけらと笑う。


「その様子だと知ってるみたいだね。そうさ、そこの馬鹿はその昔、天上の神々に封じられていた。気分屋で暴れすぎ、って理由でね」

「あなた、まさか――!」

「なら、もう一度封じてもらえばいい。神の手でね」


 意図に気づき、フキは暴れた。これ以上、ワタツミに海を荒らさせるわけにはいかないと、力の限り手足をばたつかせる。しかし、それもただ水をかき混ぜるだけで終わる。

 それは必死なフキの顔をのぞき込むと、にたりと笑った。


「このまま放っておけば、陸のひとつやふたつ、簡単に飲み込んでくれるかもねえ」

「っ、放せ!」

「無駄だよ。あのサンゴには深い深い人魚の恨みがこもっている。いくら神でも無事ではすまないほどのね」

「――っぐ!」

「臓腑が溶けるように痛むだろうねえ、きっと」


 肉に人魚の爪が食い込んで、フキはうめき声を上げる。骨が軋む音が聞こえるほどの力強さに、恐怖がじわじわと身体を支配する。

 けれどワタツミの叫びを聞いて、フキは唇を噛み、ぐっと恐怖を飲み込んだ。

 恐ろしいのがなんだ。痛いのがなんだ。今もっと、苦しんでいる神がいるというのに。


「……どうして、こんなことするの。そこまで、ワタツミ様が憎かったの?」

「おや、意外と冷静だ。感心感心。あたしは泣きわめく人間は好きじゃなくってね。うるさくてさあ」

「答えて!」


 人魚の腕にさらに力がこもる。骨を締め付ける激痛にフキは声にならない悲鳴を上げた。


「……別にさあ、お嬢ちゃんに話した内容が嘘、ってわけじゃあないよ? あいつ気分屋だし、ちょっと気にくわないことがあるとすぐに海を荒らすんだから。迷惑してたさ」


 フキの腕を締め付けたまま、ぽつ、とこぼすように人魚が言う。


「けどね、そんなことよりも、あたしの海を我が物顔で操るあいつが気にくわなかった」

「っ、海は、あなたのものでも、ないじゃない!」

「……あたしたちのものだったさ。大昔、神々があの坊やをここに落としてくるまではね」


 いきなり乱暴に腕を上へと引っ張られ、肩に痛みが走る。気がつけばフキの身体は人魚によって腕一本で、海中に吊るされていた。

 荒れ狂う海の中、紫髪の人魚は勝ち誇った笑みを浮かべ、フキに耳打ちする。


「ねえ、教えてやろうか。人魚の呪いの治し方」

「……っ、な、に?」

「それはね、愛する者の心臓の血さ」


 瞬間、人魚の爪が鋭く尖り、光る。それこそ心臓を抉り出せると言われても、おかしくないほどに。


「確かめてやろうか。あんたが神から愛されているか、道具としか見られてないか」

「――――っ!」

「まあ? 人間どもに捨てられたあんたが、神の寵愛を受けれるなんぞ思ってないがね」


 けらけらと、人魚が笑う。フキの命を弄ぶように爪を胸の上へと置いたまま。


 悔しかった。何も出来ず、痛みにただ呻いているのが、そしてひと言だって言い返せないのが、人魚の言い分が間違っていないのが、涙があふれるほど悔しくてたまらなかった。


 勝手に癇癪かんしゃくを起してひとりになり、人魚の罠にまんまとはまって神を苦しめている。

 そんな女を誰が愛するというのだろうか。誰が求めるというのだろうか。


「おやあ? 泣いてるのかい? いいよいいよ、もっともっと盛り上げておくれ!」


 人間に捨てられ、神を窮地に晒し、本当にどうしようもないやつだと、そう思う。

 けど、けれど。それでも。


「――――か」

「あ? なんだって? 声が小さすぎて聞こえ―――」

「っ、ワタツミ様を苦しめるあんたの思う通りになんか、絶対なってやるもんですか!」


 口を大きく開ける。肘に力を入れ、ぐっと身体を持ち上げる。

 鋭くはない。人魚の凶悪なものに比べたら、かすり傷にもならないかもしれない。

 けれど、フキは実行した。

 思いっきり人魚の手首へと、噛みついた。

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