第2話 ひょっとしなくても勘違いしているな?
「ワタツミ様の名で騙そうったってそうはいかないから!」
男がひっくり返ったのをいいことに、少女は何度も男の顔面に札を叩きつける。そのたびに泡がたつが、興奮しきった様子の少女は気づかない。
名はフキといった。フキの葉の下に捨てられていたからと、由来をそう聞いている。
少年のように短く切った黒髪に、勝ち気な性格を表すような、吊り上がった黒目。爪は欠け指先は黒ずんでいるせいか、やけにきれいな白の着物が浮いて見える。
しかし、つづらから飛び出したフキの快進撃もそこまでであった。
「んっ? あれ、なんで?」
いくら叩きつけても札は説明された通りの効果を発せず、べちべちと男の顔を打つばかり。最初こそ気づいていなかったフキも、状況のおかしさにようやく疑問を浮かべ始めた。
受け取ったとき、確かにつけるだけで大丈夫だと神主に言われていたのにと、フキが首を傾げて札を男の顔からとった瞬間、ぎろりとこちらを睨みつけてくる金眼と目が合い、フキは「ぎゃあ」と叫びながら後ろにひっくり返る。
男が吠えた。
「お、ま、え、なぁ――! 神に対してなんだその態度!」
「わ、悪いのはあんたでしょ。あやかしのくせに、神様のフリなんかしちゃって」
「俺は正真正銘海の神、お前たちが崇め奉るワタツミ様だっ!」
「ワタツミ様は龍の姿をしてるって聞いてるわ!」
「お前らが怯えるから人間の姿をまねてやってるだけだっ!」
ひっくり返ってもなお、札を仕舞う様子のないフキに男が手を振り上げる。今にも振り下ろされそうなそれにフキは咄嗟に頭を庇うが衝撃はなく、恐る恐る目を開けば大量の魚に周囲をぐるっと取り囲まれており、別の衝撃でフキは再び悲鳴を上げた。
「どーだ、わかったか。海の神ならこれくらいできて当然だ!」
表情の読めない魚たちの奥には、腕を組んで自慢げな顔でこちらを見下ろす自称、神の男。確かに海の魚を意のままに操る姿はひょっとして本当に神なのではないかと思わせるのに十分な材料であったが、馬鹿正直に認めてしまうのも
フキは眉間に皺を寄せて男を睨みつけ、力強く言い切る。
「ワタツミ様が生贄なんて求めるわけないじゃない! あんたなんて偽物よ!」
「ああ? 海でこのワタツミに喧嘩売る気か小娘!」
そのときだった。ごうっと強い風のようなものが御殿を揺らし、フキは前のめりに畳へと突っ込んでしまう。
「黙っていれば偽物だのあやかしだの、人間の分際で好き勝手言いおって!」
御殿自体が悲鳴を上げる。それほどまでの大きな揺れだった。御殿が軋むたびにフキはあっちへ転がりこっちへ転がり、ようやく起き上がれたころには頬に畳のあとがついてしまっていた。
集まっていた魚たちは散り散りになり、揺れる御殿に動揺するように逃げ惑っている。
「っ、やめて!」
「は? 嫌だが? 俺をあやかし扱いする人間のいうことなんて誰が従うものか」
フキは慌てて怒り狂う男へと飛びつく。それは海面で荒れ狂う波の音が聞こえたからこその行動だった。
海が荒れれば舟は出せない。舟が出せなければ皆が飢えてしまう。
「ごめんなさい、信じる、信じるから! 海を荒らすのはもうやめて!」
「――ふん。ようやくわかったか」
途端、揺れはぴたりとおさまって、本当に海はこの男の機嫌次第なのかとフキは額の汗をぬぐう。
男はまだ憮然とした表情ではあったが、一応の謝罪に最低限機嫌はなおったらしく、それ以上御殿がゆれることはなかった。魚たちは怯え切った様子で部屋の隅にいたが、それもしばらくたつとそれぞれの住処へ戻って行く。
嫌な沈黙だった。隠そうともしない不機嫌な空気感はじりじりとフキを追い詰め、男から遠ざけていく。
その上、男はわざとらしい口調で「ああ傷ついた」だの、「誰のおかげで海中でも息ができてると思うんだろうなあ」だの言うものだから、フキはなおさら縮こまった。
こんなにも大きいのに、自分よりも子供みたいだ。
内心そう思ったことを飲み込んで、フキは脳裏に村の皆の顔を思い浮かべながら畳に手をつく。
「申し訳ございません、ワタツミ様。無礼な真似をお許しください」
「うるさい。というかお前、もう帰れ」
しかし何度も練習した挨拶を披露する前に、どっかりと畳の上に座った男はビッと上を指差す。失礼なことをした自覚のあるフキはぐっと言葉に詰まったが、それでも男の言う通りにするわけにはいかない。
「俺が欲しかったのは大人しい人間だ。お前みたいなはねっ返りじゃない」
「で、ですが、人間をよこさないと海には入れないと」
「別の奴寄越せばいいだろう。いいから、お前は帰れ」
しっしと動物でもはらうかのような手つきにフキは手を握る。男の言う別の人間、という言葉が頭の中で反響した。
もし、自分が帰ったら?
もし、村の誰かが自分の代わりになることになったら?
「嫌です」
「あ?」
「私の役目はワタツミ様に海の荒れを止めてもらうことですので。それが約束されない限り、帰ることはできません!」
落胆する村人の顔が浮かんだ。自分の代わりにつづらへと詰められる、別の子供の姿が浮かんだ。
金色の目が高圧的に見下ろしてくるが、引き下がってはいけない、とフキは思う。ここで戻ってもまた別の人間が差し出されるだけだからだ。
信じて、大役を任されたのだ。全うしなければならない。
「お前がいたら逆に海が荒れると言ってもか?」
「……私がいなくても荒れていたじゃないですか」
今度は男が言葉に詰まる番だった。そして人間離れした美しさの顔を面倒くさそうに歪めると、絡まることにも構わないといった様子で長髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜる。
「お役目を精一杯務めさせていただきたいと考えています。それで海が静まるのであれば、この身を煮ようが焼こうが好きに扱って結構です」
「煮ようが……って、おい」
「それとも、ワタツミ様はたかが小娘の願いさえ受け入れられないほどの狭量なお方だったのでしょうか」
さすがに最後のひと言は言葉尻が震えた。子供っぽいとはいえど神は神。恐れを抱くのも当然で、現にフキの身体は目の前の男から逃げ出したいとずっと震えている。
それでもフキは顔を上げることだけはやめなかった。こちらを見透かしてくるような金の瞳を、あえて真正面から見据える。それが今のフキにできる唯一の「逃げない」という意志表示であったからだ。
男は、ワタツミはそんなフキを前に深くため息をついた。
あぐらをかいた腿に肘を置き、手で顔を支えながら何か考えるような顔を見せた後、海の神はフキに問いかける。
「…………お前、名前は」
「フキと申します」
「歳は」
「今年で十六に」
「……ああくそっ。本当にまだほんの赤ん坊みたいなものじゃないか」
さすがに赤ん坊は言い過ぎでは、と口を挟もうとして止める。
神の目からすれば、人間の一生などほんの瞬きの間くらいのことなのかもしれない。
ワタツミは再びがしがしと頭を掻くと、フキに頭のてっぺんからつま先まで無遠慮にジロジロと視線を送って、立ち上がる。
「その覚悟だけは買ってやろう。だがな、ちょっとでも俺が気にくわなかったらすぐに叩きだしてやる」
「――ありがとうございます。ワタツミ様」
そして与えられた新たな機会に、フキはにっこりと笑ってもう一度深々と頭を下げる。これでようやく皆の役に立てると、そう思いながら。
「この命、ワタツミ様の好きなようにお使いください」
「……やっぱお前なんか勘違いしてないか?」
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