タウ・デプス 黄獄の女王

伏潮朱遺

第1話 火之迦具土(ホノカグツチ)を産み

     0


 欲しいものはすべてこの手にあった。

 むしろこの手にないものなんかなかった。

 でもたった一つ。

 僕に手に入れてもらいたくないと拒絶した者がいた。

 岐蘇キソ源永もとえ

 彼女は弟と婚約した。

 何も持っていない弟と。

 何も持っていないところが珍しかったんだろう。

 よほど物好きな人だ。

 だってそうでなければ。

 どうして僕を選ばない?

 彼女に言った。

 弟なんかより僕のほうが君を幸せにできると。

 彼女はこう答えた。

 あなたに興味なんかない。

 僕は気が動転した。

 おかしい。

 おかしいのは僕じゃない。

 彼女は、

 僕の子を身籠った。

 弟は、

 どこぞに身を投げた。

 僕は、

 彼女にも息子にも父とは認められていない。

 どうすればよかったんだろう。

 教えてくれ。

 誰か、






  タウ・デプス

  黄獄キゴクの女王






 第1章 火之迦具土ホノカグツチを産み




     1


 8月のお盆前。

 暑い熱い夏の日に、姉さんは死んだ。

 8年経った。

 法要がない年も墓参りは欠かさない。

 正午過ぎ。

 秘書が車で横付けしてくれた。やけに手の平をこちらに向ける。手を振って送り出してくれたんじゃなくて私に残された時間を表していたんだと思う。

 たったの5分。

 遅きに失して誰もいない。

 仕事の合間で時間が読めないのでいつも一人。

 またしても線香を忘れたけど、すでに供えられた跡がある。

 父さんは午前中に来たらしい。

 手を合わせて簡単に近況報告する。

 元気でやってます。

 だから姉さんも心配しないでね、と。

 暑い。

 首の汗を拭う。

 仕事に戻らないと。

「おや、源永ちゃん」経慶寺の住職だった。「忙しい中来てくれたんだね」

「住職こそ。ありがとうございます。姉さんを忘れないでいて頂いて」

 住職が眼線を遣った先を振り返ると、秘書が腕時計を指差して手を振っていた。

 時間切れ。

「そろそろ行きます。じゃあね、姉さん。また来るから」

「法要というわけではないが」住職が呼び止める。「夕方にモリくんの家でちょっとした集まりがあるのは知っているね。源永ちゃんは参加するのかね?」

「そうなんですか?」

 いま初めて知った。

「やっぱり都合が付かなさそうだね。いいんだ。わかっていて聞いたから」

「すみません。機会があれば次はぜひ」

 急いで車に戻った。秘書がなんやかや言っているけど聞き流した。

 父さんの現住居は、私の生家ではない。

 生家は父さんが住居を移すに当たってあっけなく手放してしまった。

 父さんは、とある曰くつきの山を買った。

 ノウ家という代々呪いを祓う一族が住んでいた山だ。

 なので、私は父さんの現住居に対して縁もゆかりもない。

 他人の山に、なぜか父さんが住んでいる。そうゆう状態だ。

 近寄りがたいわけじゃないが、行く必要性を感じられない。

 父さんに会いたくないわけでもないが、それなら父さんが本社に来てくれればいいのにと思う。そんな何の関係もない山ではなくて。

 納家のことだってよく知らない。

 そっちは姉さんが担当していたから。

 姉さんの死と同時に納家とのつながりは切れたと思っていたのだが、それがそうでもないらしい。

 詳しくはよく知らない。知ろうとしなくてもいいと父さんは言っていた。

 私から意図的に遠ざけられている事柄のように思えてならない。

 でも別に、好奇心も疎外感もない。

 私は私でやることがあるから、それどころではないというのが事実。

 父さんが早くに私に事業を任せて引退してしまったから、私がぜんぶやらないと。

 私が自分の秘書にと狙いを付けていた伊舞イマイは、父さんのほうに付いてしまっていまはシステム周りのほうをやっている。何度声をかけても戻ってきてはくれないので諦めた。

 母さんは私が生まれてすぐに亡くなったらしい。私は顔を見た覚えがない。姉さんは憶えてたらしいけど。

 父さんのところには住み込みの家政婦さんがいる。私たちが小さい頃からずっと一緒にいてくれてる。私や姉さんを育ててくれたのは家政婦さんらしい。家政婦さんには感謝してる。家事がまるで駄目な父さんをずっと支えていてくれて。

 姉さんも、私が物心つく前から納家との関わりがあって、納家の巫女の世話も買って出ていた。もともと姉さんはお節介で世話好きなところがあるから放っておけなかったんだろうとは思う。呪いを祓う仕事で家を空けがちな巫女の両親に代わって、まるで本当の妹のように可愛がっていた。

 でもその代わりに、本当の妹の私が放っておかれた。

 それについて恨み事は特にない。元来私は一人でいるのが好きだった。姉妹と言っても得意分野が真逆だった。

 姉さんはアウトドア派で、身体を動かしたり人と関わったりするのが得意だったし、反対に私はインドア派で、本を読んだり考え事をしたり、机に座って頭に知識を詰め込むほうが得意だった。

 お陰で学校の成績も真逆。圧倒的に私のほうが学校の評価は良かった。高校も大学も、私のほうがランクの高い所に入ることができた。

 人と関わることが少ない私は友人がほとんどいなかった。

 一人いたけど、いまは絶交してもうしばらく会ってない。

 大学のときに、初めて好きな人ができた。

 すでにうちの会社から内定が出ていた伊舞が紹介してくれた人の弟だった。

 伊舞は、私の高校のときの家庭教師だった。とにかく頭がいい人で、私が唯一尊敬する他人だった。1を言うと100までわかる人で、かと言って驕ることなく、誰にでもわかるように1から説明してくれる思いやりのある人だった。

 そんな伊舞が紹介してくれたんだから、いい人に決まっている。

 駄目だった。

 伊舞の唯一の欠点は、男を見る目がないことだった。女心がわからないことだった。

 こいつは、女の敵だ。

 確かに数値上はほぼパーフェクト。顔も外見もステータスも。

 ただ一つ、性格を除いて。

 中身が終わっていた。

 この男は、女を自分を飾る綺麗な花くらいにしか思っていない。結婚を、自分をまともだと印象付ける便利なハンコくらいにしか思っていない。

 駄目だ。

 どうにかして断らないと。でも他ならぬ伊舞が紹介してくれたんだから。

 そんなときに、出会った。

 名を、

 浅樋アサヒ律鶴雅りつるが

 伊舞が紹介してくれたクズ男の弟だった。

 彼らは本当に兄弟かと思うくらい似ておらず、いいや、違う。ニンゲンの悪いところを兄が請け負って、弟が善いところを受け持ったのだ。そのくらい対比がひどかった。

 でも違う。悪いところを兄が一身に請け負ってくれてるから弟がいい人なのではなく、兄はそもそも手のつけられないクズだったのだ。そこを勘違いしてはいけない。

 私は、

 ツルを好きになった。

 一緒にいてこんなに心が穏やかでいられる人は初めてだった。

 優しくて、静かで、なにより欲がなかった。

 欲しいものは?と訊くといつも彼はこう答えた。

「モトエさんが僕なんかのそばにいてくれることです」と。

 私は彼を父さんのところに連れていった。

 私たちは結婚を前提に付き合うのだと宣言しに。

 彼はビックリしていた。

 それはそうか。

 私はそこで初めて彼に想いを告げたんだから。

 焦りすぎて順番を間違えたが、父も彼も大笑いしてその場は円満に収まった。

 私はすぐにでも結婚したかった。彼と永久に一緒にいられる大義名分がほしかった。

 でも、

 その幸せは一夜にして崩れ去った。

 あの日の出来事は、なかった。













     2


 仕事が案外早く上がったので、父さん主催の集まりとやらに顔を出してみた。

 18時。

 すでに宴もたけなわで、酒に弱い父さんが真っ赤な顔をして床に転がっていた。

 参加者は、住職さんと、家政婦さんと、伊舞イマイと、久慈原クジハラ先生(姉さんの旦那)と、甥の翔幸かけゆきと。

 あれ?

 他に誰かいる?

 その誰かは私を見るなり部屋を出て行ってしまった。

 失礼な子だ。

「ちょっと、父さん。あの子」

「おお、源永か。遅かったな」父さんが赤ら顔で上体を起こす。「というか、ん?呼んだか?」

「ああ、私だよ。声をかけさせてもらった」住職さんが言う。

 伊舞がさっき立ち去った子を追いかけていった。

「え、ちょっと、私に声掛けるの忘れてたわけ? ひどい」

「いや、そういうわけじゃないんだが」父さんが明らかに眼を逸らす。「ふうむ、弱ったな」

「何に弱るわけ? 私に黙ってこんな楽しい集まりを開いてたこと?」

「すまない。住職、先生、ちょっと席を外してくれるか」父さんが言う。「翔幸も。少し源永と二人っきりにしとくれ」

「わかった」住職が部屋を出ていく。

「わかりました。行こう、翔幸」半歩遅れて久慈原先生が立ち上がる。

「おばちゃん、俺、なんもしてねえからね?信じて?」翔幸が怯えたような顔をして手を合わせる。

「何を勘違いしとるんだ。それとも余罪に心当たりがあるのか?」父さんが鋭い眼つきで射抜く。

「違う。違うから。ね? もう俺心入れ換えてるし。ひぃ」

「いいから行くよ、翔幸」久慈原先生が申し訳なさそうな顔で翔幸の腕を抱える。

 襖が閉まった。

 父さんと二人きり。酒の匂いが立ちこめる。

「ごめん、ちょっと窓開けていい?」

「開けてからでいいからそこに座りなさい」父さんが真面目な顔で言う。

 正面に座布団を置かれた。

「なによ、私が何をしたのよ」

 夏の夕方の空気が部屋に流れ込む。

「説教じゃない。いい機会だ。話しておこうと思ってな」父さんが静かな声音で言う。「実敦さねあつのことだ」

 そう言っている自分が分離しているのを感じた。

 知っている?

 わかっている?

 でも像が結ばない。

 激しいノイズの走る、濃い霧のかかった首から下。

「そろそろ眼を背けるのをやめたらどうだ。あいつに罪はない。そんなこと、とっくにわかっとるだろう? 悪いのはあの男だけだ。実敦はいまもお前に認めてほしくて頑張っている。お願いだ。実敦を見てやってくれ」

 なんで。

 ナンデソンナコトヲイウ?

「源永」

「だから、って言ってるの」

「源永」

「知らない人の名前出されて、見てくれって言われてもわかんないわよ。ちゃんと説明してよ」

 父さんが大きな手で自分の顔を覆ってしまった。

「父さんこそ、私に隠してること沢山あるでしょ? この山のこととか。ノウ家の巫女のこととか。姉さんが死んで8年よ。そろそろ私にだって話してくれたって」

「それはできん」

「なんで?」

「呪いに関わった者は消えてしまう。時寧ときねはそれが原因で」

「ほら、やっぱりそうじゃない。そのことだって、いま初めて知ったわ。誰も教えてくれなかった。姉さんはよくわかんない事情で死んだって。いまのいままでそう思ってたわよ。他ならぬ父さんがそう言ってたんだから」

「頼む。時寧と同じ理由でお前まで喪ってしまったら儂は。だから関わらんでくれ、お願いだ」

「関わらなかったら死なないってこと? じゃあなんで父さんは生きてんのよ。なんか手立てがあるんでしょ? 知らされるべきことを黙っていられて。もう沢山なの。私だけ、私にだけ何も教えてくれない」

「失礼するよ」住職さんが入ってきた。「モリくん、そろそろ限界だろう。お互いに。吐き出すべきことを吐き出すべきときじゃないかね」

「悪いが黙っていてくれ」父さんが強い声で言い放った。「他人の家の問題に口を出さんでくれるか」

「他人の家には違いないが、殊、呪いに関しては当事者なんだがな」住職が顎に手を当てる。

「うるさい。出て行ってくれ」父さんが座布団を投げた。

 絶妙なタイミングで襖が閉まったので命中はしなかった。

「姉さんは呪いのせいで死んだってこと?」

「呪いに関わると呪いに呑み込まれて死ぬ。今日まで儂が生きていられたのは、運が良かっただけなんだ。それ以外に説明が付かん。呪いは、本当に存在するんだから」

 わけがわからない。

 ワケガワカラナイ。

「巫女って、あの子でしょう? 一回忌のときに会った、あの小さな。あの子はいま」

「死んだよ」父さんが言う。「亡くなった。3年前にな。いまは巫女がいない。驚かすわけじゃないが、お前の母は納家の巫女だった。つまり、お前にも納家の血が流れていることになる」

「だから、どうしてそうゆうことをもっと早くに」

「関わらせたくなかった。お前を喪いたくなかった。それ以外に理由が必要か?」

 全然わからない。

 なんで急にそんなこと言うの?

「お前が巫女を継ぐ必要なんかない。その点は安心してくれていい」

「何を根拠に言ってるの? 他に候補がいるの? その人に押し付ければ私が無事ってこと? 冗談じゃないわ。なんで他人を犠牲にしてまで」

「他人を犠牲にしてまで、お前に生きてほしい。親というのは子どものためには鬼にも修羅にもなる。他に候補がいないわけじゃない。任せてくれていい。だからお前はいままでどおり呪いとは無関係のまま」

「そんなことできるわけないじゃない。もう聞いちゃったのよ? その人って誰よ。言いなさいよ。私の知り合いだったら」

小張オワリ有珠穂うすほだ」

 なんで?

 あの子の名前が。

「これも言っていなかったことだが、小張家も納家の血を引いとるんだ。エイスの娘なら資格は充分だ」

「だから、冗談じゃないって言ってるの。話聞いてよ。なんで私の代わりに有珠穂が」

 嫌だ。

 なんでケンカ別れしたままで。

 有珠穂が消える?

 私のせいで?

 私の代わりに?

「絶対に駄目。許さない。やめて。ねえ、それって本当に有珠穂がやらなきゃいけないの?」

「お前が決めることじゃない」父さんが私の肩に手を置く。「お前は何も気にしなくていい。それに昔から言っとっただろ? 小張の家とは関わるなと。儂の言いつけを守ってあの娘と絶交してくれとるんだろ? ちょうどいいじゃないか」

「それとこれとは別でしょ? いまはそんな話してないじゃない」

 有珠穂と仲違いしてるのはちょっとすれ違ってるだけで。

 落ち着いて考えたら私が悪いだけだった。でも滅多に会えないからっていうつまらない理由で後回しにしてた。

「巫女の件はこれで終わりだ。金輪際話題に出すでない」父さんが言う。「そんなことよりも、サネだ。お前を呼ばんかったのは時期を見計らっとったんだ。悪かったな。伊舞、おるか。実敦を呼んできてくれ」

「すみません、会長」久慈原先生が静かに襖を開けた。「止めたんですが、あっくんを追って」

「まさか山に? 先生、どうして止めてくれんかったんだ」

「責任の所在は後でいくらでも問うてください」久慈原先生の眼鏡の奥の眼は真剣だった。「いまはあっくんを探すのが先決です。この山の地図はないと思いますので、行きそうな所、行けそうな所を図に書いてください。早く!」

 父さんが書いた山の地図を持って大捜索会となった。

 でも、あっくんて誰のこと?

 19時。

 結局その子が見つかったかどうかはわからない。

 見つかる前に私は山を降りた。

 そんなことさせない。

 だいじな友人を犠牲にだなんて。










     3


 20時。

 私が自由に活動できるのは夜だけ。

 夏休みもお盆休みも私にはない。

 勢いで白竜胆会の門の前まで来たはいいけど、先に連絡しておくべきだった。対応してくれた信者の方にとても迷惑をかけている。しかも会いたい相手が、幹部と来たら。

「源永さん?」有珠穂が奥から出てきた。白いフリルのワンピースがよく似合う。「まあ、どうしましょう。どうされたの?こんな時間に。皆さま、こんな時間ですけれど、精一杯のおもてなしを」

「気なんか遣わなくていいって。て、ごめん。こんな時間にアポなしで来ておいてそれはないわよね」

 有珠穂に手を引かれて施設の奥へ。ゲスト用の宿泊施設の一室に入った。

 ビジネスホテルを期待していたから吃驚した。

 ロイヤルスイートだ。

 座り心地の良いソファと、落ち着いたデザインの内装。バーカウンタもあった。

「ご用はわたくしではないんでしょう?」有珠穂がにっこりと微笑む。「いま呼びますわね」

「違うの。あ、ううん、違わないんだけど。先に、あなたに、有珠穂に」

「二度と名前を呼んでもらえないものと思ってましたわ」

 言わなきゃ。

 それを言いに来たんだから。

「あの、あのね、有珠穂」

「なんですの?」

 どうしてこんなに優しいのだ。

 あんなに手ひどく突き放したというのに。

「ごめんね。ごめんなさい。私、あなたにひどいことを」

「まさかそんなことを言いにいらしたの?」有珠穂は心の底から吃驚したような顔をした。「源永さんらしい。思い切った行動に眼が眩みそうですわ」

「ごめんなさい。私のためにしてくれたことなのに。私が喜ばないわけないじゃない」

「まあ、喜んでいらしてたのね。それが聞けただけでも今日まで生き延びていた甲斐があるというものですわ」

 生き延びる?

 まさか、知ってるの?

「どうされたの? わたくしは怒ってなんかいませんし、源永さんに嫌われたとしても、確かに悲しいですけれど、草葉の陰から源永さんの幸せを願っていただけですわ」

「なんでそんなこと言うのよ」腹が立って、有珠穂の手の甲をつねった。「草葉の陰からって何? なんでそんな陰に隠れてるわけ? 私の見えるところに出て来なさいよ。私の友だちでしょう?」

「まだ、お友だちと言っていただけるのですね。嬉しい」有珠穂はつねられた手の甲を愛おしげに撫でる。「ええ、源永さんが望むのなら、見えるところに出ていきますわ。それでよろしいかしら?」

「いいわ。許す」

「そう。ありがとうございますわね」

 もっと話していたい気持ちもあったが、もう一人会いたい人がいたのでお願いした。

「そんな、遠慮なさらずに。もっと堂々とお会いになったらよろしいのに。では、わたくしはこれで。お帰りの際もどうぞわたくしに構わず」有珠穂が満足そうに微笑みながら部屋を出ていった。

 5分経過。

 ノックが聞こえて走って行った。

「社長。忙しい中、来て下さったと聞いて」彼は、すべてを差し置いて全速力で走ってきてくれたようだった。息が上がっている。「飲み物は? すぐに作ろう」

「いいの。今日は話しに来ただけなんだから」彼を私の隣に座らせる。「あなたの昔の話」

 思い出してくれない。

 ぜんぶ忘れていることなんか知っている。

 でも、それでも何かのきっかけで思い出してくれないわけじゃない。

 久慈原先生はその手の専門家なのでそれとなく聞いたこともある。

 望みがないわけじゃないが、無理に思い出させないほうがいい場合もあると言われた。

「ねえ、ツルって呼んでいい? 前みたいに。二人っきりのときだけ。お願い」

「構わないよ」彼が言う。「この名前も、教祖様が付けてくれたものだ。名がないと呼ぶときに困るから。呼んで私とわかるのであれば、なんだって」

「ツル」

「なんだろう」

「私のことは、源永って呼んで?」

「いいのかい? 社長に対してそんな気易い」

「いいの。私がいいって言ってるんだから」

 これも前から言ってるのに。

 話している間だけ。

 話が終わればまた元通り。再度話をするときにやり直さないといけない。

 毎回リセットされるこちらの気持ちにもなって?

「源永さん」彼が遠慮がちに言う。

「さんも要らない」

「さすがにそれは」

「じゃあそれでいいわ。話のほうが優先だもの」身を乗り出して顔をよく見た。「私とあなたは恋人同士だったのよ? ずっとずっと前だけど。でもね、いろいろあって。私とあなたは距離ができちゃって。わたしずっとあなたを探していた。でも亡くなったって聞いて。すごく悲しくて。でも、生きてたのね。会いたかった。会いたかったわ、ツル」

 この話を毎回毎回している。

 反応は毎回ゼロ。

 そろそろ収穫があったっていいのに。

「どうにもね、信じられない」彼が言う。

 これも毎回同じ。

「私のような者が源永さんのような人と果たしてそんな関係だったのか。実感が持てないんだ」

「実感なんかなくていいの。私がそう言ってるんだから、それが事実なの。ねえ、ちょっとは何か思い出して来ない?」

 無意味だ。

 何をやっても意味がない。

 どこかで私が叫んでいる。

 あなたがやっているのは、カラカラの砂漠に一滴の水を垂らすような途方もない徒労。

 諦めなさい。

 新しい関係を構築しなさい。

 彼は、私の恋人だった浅樋律鶴雅ではなく。

 白竜胆会総裁・朝頼ガルツなのだと。

「少し距離が近いようだ」彼が顔を背ける。「さすがにここでそのようなことは」

 昔はこんなこともしてたのに。

「私の記憶を呼び覚まそうとしてくれているのは有難いことなのだが、ただ源永さんの手を煩わせているだけのように感じる。期待に答えられないのが申し訳なくて仕方がない」

 なんでそんなに謝るの?

「そちらのお抱えの医師を紹介してくれるとも言ってくれたが、私は治療が必要なのか? どこか治したほうがいいところがあるのだろうか。これに関してもただ医者の先生の貴重な時間を消費してしまうようにしか思えない」

 どうしてそんなに卑屈に考える?

「源永さんは、昔の私に戻ってほしいのか?」

「当然じゃない。だって、私はあなたのことが」

「それも、ここでは」彼が私の口を優しく塞ぐ。手首から知らない匂いが香った。

 それは誰が選んだ香水?

「すまない。至らない私で」

「そう思うんなら、一日でも早く思い出して? 私のこと、何とも思ってないだなんて」

 耐えられない。

 耐えられないから、有珠穂に八つ当たりした。

 私から奪う気だろう。

 私の命よりも大切なあの人を。

 そうなじって突き放した。

「そろそろ帰った方がいい」彼が私をソファに下ろして立ち上がる。「来てくれたことには感謝するよ」

「嫌。帰らない」

「明日の仕事に障る」

「仕事なんかどうだっていい。あなたのほうが大切。ねえ、朝までずっと一緒にいて?」

「それはできない」

「どうして?」

「どうしてか、敢えて説明するまでもないはずだよ。、また今度」

 駄目だ。

 わかっている。

 でも、止められない。

 彼の正面に縋りついて抱き締めた。

「離れてほしい」彼は私を見ずに言う。

「抱いて」

「できない」

「お願い。そうしたら帰るから」

「できない理由を説明したほうがいいのかな」

「説明して。でも聞かない。お願い、ねえ、私は」

「すまない。人を呼ばないといけなくなる」

「呼びなさいよ。離れてやらないから」

「社長」

「なんで源永って呼んでくれないの」

 私は泣いているらしかった。

 前がよく見えない。

 あなたの顔が見えない。

 死んだって聞いたときは絶望した。

 生きてたって聞いたときは期待した。

 でもその期待は見事に裏切られる。

 再会したあなたは、

 私のことなんか一ミリも憶えていない。

 ただの他人。

 でもそれでも生きててくれたなら。そう思って我慢してきたのに。

 あなたはずっと他人のまま。

 永遠にこれを繰り返さないといけないのなら、いっそ。

「源永さん」有珠穂の声が後ろから聞こえたような気がして。

 視界が真っ黒になった。
















     4


 眼が覚めたら、白竜胆会のゲストルームだった。

 ベッドの上にいる。

 8時。

 まずい。仕事が。

「おはようございます、源永さん」有珠穂がベッドサイドに座っていた。「随分とお疲れだったのね。ケータイはそちらに」

 急いで秘書に連絡した。懇意にしている相手だったので時間変更の申し入れができた。

「戻るわ。いろいろ迷惑かけたわね」

「またいつでもいらしてね」有珠穂が少し寂しそうに見えた。

「あいつ、なんか言ってた?」

「まだ心の底には響いていないようでしたけれど、諦める必要はありませんわ。わたくしも引き続き協力いたします」

「ありがとう」

 信者の方に挨拶して本社に戻る。秘書は電話口と同じく冷静に対処してくれてあった。

 姉さんの命日付近はいつも体調が崩れる。

 わかっていて、彼のところに会いに行ってしまった。

 有珠穂と仲直りできたのは、収穫だったと思う。

 言えなかった。

 巫女のこと。

 私にもよくわかっていない。

 父さん以外、誰に聞いたらわかる?

 住職さん?

 久慈原クジハラ先生?

 久慈原先生は父さんから聞いているとして。

 どうして住職さんが知っている?

 こっちも父さんから? 

 二人は昔からの付き合いがあると言っていた。

 久慈原先生に聞いても教えてくれない可能性が高い。

 とするなら選択肢は一つ。

 12時。

 お昼時間に申し訳ないが連絡した。住職さんの個人的な連絡先がわからなかったので、おおごとにはしたくなかったが仕方なくお寺のほうにかけた。住職さんはのっぴきならない雰囲気を察してケータイの番号を教えてくれた。

 すぐにかけ直した。

「聞きたいことがあるんだね?」住職さんが言う。「聞いたら戻れないが、その覚悟はあるのかい?」

「これ以上除け者になるのは嫌なんです。お願いします。教えてください」

 秘書は退室させた。

 この部屋には私しかいない。本社の社長室。

「何から話したものか」そう言いながらも、住職さんは私の知りたいことを教えてくれた。

 納家とは何か。

 呪いとは何か。

 呪いは黒と呼ばれている。

 黒祓いの巫女は呪いを祓っているのではなく溜め込んでいるだけ。

「寺と学校の間に平屋があるのを知っているかね」住職さんが言う。「あの家はもともと納家の山にあったんだ。それを私が移動させてあそこに建てた。あの家は呪いを溜めている家なんだ。無闇に取り壊してはいけない」

「いまは誰か住んでいるんですか?」

「君のところで管理しているだろう? お嬢さんがなくなってしまったから」

 知らない。調べていないだけか。

「お嬢さんというのが、先代ですか? 3年前に亡くなったという」

「私の孫だよ。長男の娘だった。長男の嫁さんがその先代だ。そのさらに先代が君の母親ということになっている女性だね」

 なっている?

「君は自分の本当の母親について、知らないことがある」

 夏真っ盛りでよく冷房の利いた部屋にいるせいだろう。

 全身がとても冷えた。

「私の口から聞きたいかね?」住職さんが言う。

「それは、知ったほうがいいことなのでしょうか」

「どういう意味だね?」

「知らないほうがいいことってあると思うんです。もしかして、これはそっちなんじゃないかって」

「そんなのは聞いてから考えればいい。わかった。父親から聞けばいいさ」

 なんだろう。

 歯の根が合わない。

 冷房を弱めても駄目だった。

「大丈夫かね?」住職さんが言う。

「ありがとうございます。概ね、私の知りたいことは知れました。あとは」

 父さんに直接。

 聞ける勇気があればだが。

「こんなことならいくらでも。昔馴染みの娘さんの役に立てるならこちらも嬉しいさ。長男も孫もとっくにいなくなってしまったからね」

「すみません。つらいことを思い出させてしまって」

「構わんさ。二人とも呪いに呑まれて消えた。何も残っとらんのだ。墓もない」

「呪いに呑み込まれた場合、遺体は残らないんですか?」

 おかしい。

 姉さんは遺体があった。

「そこらへんの詳しい事情は私ではわからんよ。それこそモリくんに聞いとくれ」

 再度お礼を言って電話を切った。

 午後の仕事を済ませて、父さんの家に向かった。

 18時。

「どうした。忘れ物か」父さんは吃驚していた。

 それはそうか。

 過去何度呼んでも寄りつこうとしなかった山に二日連続で来ている。

「聞きたいことがあるの」

 家政婦さんが夕食の準備をしたからと声をかけてくれたが、話を先にしたいと断った。

「今日の夕飯はなんだったかな」父さんが暢気に言う。

「私の本当の母親って誰?」

「みつさん、運んできとくれ。腹が減って敵わん」

「話を聞いて」自分の太ももを叩いた。テーブルを叩くのは憚られたから。「ねえ、私の母親って本当に巫女だったの? それなら姉さんだって巫女の適正?があったってことじゃない。でも姉さんからそんな話聞いたことない。納家の女の子がいたからなんだと思うけど、どこか他人事みたいだった。それっておかしいでしょ?」

「みつさん、聞こえとるかな」

「父さん! いい加減にして!」立ち上がって制止した。「父さんて昔からそう。私が知りたいことは何も教えてくれないのに、知りたくないことは無理矢理。どうしてそういうことしかできないの?」

 父さんは黙った。

 自覚があるのだろう。

「父さん」

「座りなさい。みつさん」父さんが襖を開けて家政婦さんに呼び掛ける。「悪いが、こちらに来てくれるかな」

 家政婦さんがエプロンを外して部屋に入ってきた。末席に座布団もなしで座ろうとするので、父さんが手招きして自分の隣に座らせた。

 ああ、やっぱり。て納得する自分と。

 まさか、なんで。て拒絶する自分が分離した。

「みつさんの本当の名は光有みつあという」父さんが隣に座る女性を紹介する。「もともと手束姓だったが、一時的に岐蘇光有と名乗っていた時期がある。時寧を産んで、お前を、源永を産んだ直後までだ。それからはずっと家政婦としてそばにいてくれている。これは儂が望んだことだ。みつさんは悪くない。それだけはわかってくれ」

 だから、

 なんで。

「そういうだいじなことを、いまのいままで黙ってたのよ!!」

 涙も出ない。

 悲しいのか苦しいのかあきれたのか。

 いろんな感情が一気に押し寄せてきて。

「私は本当の母さんを家政婦さんだと思っていままで暮らしてきたの?」

「悪いのは儂だ」

「誰が悪いとかなんてどうでもいいのよ」俯く母さんの手を取った。「ごめんなさい。ごめんなさい、母さん。こんな窮屈な思いをさせて。私、私もう何て言っていいのか」

「いいの」母さんが首を振る。「源永さんが元気に今日まで生きていてくれたことが、私にとってはなによりの幸せだったから。それにね、旦那様――モリくんはそう言ってくれたけど、家政婦としてそばに置いてほしいってのは私の望みなの。だって、どんな立場だろうと自分の娘の成長は見守りたいじゃない?」

 やっと涙が出てきた。

 私は母さんに縋りついて泣いた。

 姉さんにも教えてあげたかったけど、いまはちょっと言葉が出そうにない。

 3人で夕飯を食べた。

 いっぱいいっぱい話を聞きたかったけど、父さんは何も教えてくれなかった。父さんの許可がないから母さんも何も話してくれなかった。

 どうして二人は別れなきゃいけなかったのか。

 どうして父さんは。

 どうして母さんは。

 いますぐにでも籍を戻してほしかった。

 何があったの?

 だって父さんは再婚していない。

 他に好きな人がいたの?

 だってそれしか考えられない。

 再婚できないような人?

 すでにいなくなってる人か、結婚が許されないような人。

 誰だろう。

 誰だったら許せる?

 誰であっても許せない。

 だって母さんをあんなに不幸にして。

 私も姉さんも何も知らなかった。

 父さんはいつも何も言ってくれない。

 帰宅は次の日の朝にした。

 今日は泊まって行こう。

 父さんのいないところでだったらこっそり母さんも教えてくれるかもしれないし。

 駄目だった。

 父さんの許しがなければ何も喋れないの一点張り。

 しかも以前の通り家政婦として接してほしいだなんてそんな。

「お願いします。それを条件にここに置いてもらっているんです」母さんが言う。

「敬語なんか使わなくていいの。母さんなんだから」

「お願いします。この約束は違えるわけにいかないんです」

「破ったら追い出されるってこと?」

 母さんは何も言わない。

 沈黙は肯定の合図。

「そんなの、私が言って」

「いいんです。旦那様と一緒にいられるだけで」

 父さんに抗議したかったけど、やめてほしいと母さんに懇願された。すでに父さんは自室で休んでいるからと。

 どうして。

 どうして?

 もやもやしながらお風呂に入った。

 20時半。

「はじめまして。モリの次女」

 湯船に入ってぼんやりしていたら男の声がした。父さんが起きて何か喋っているのかと思ったけど違う。

「のぞきみたいになるから姿は見せないけど、浴室内にはいるよ」

 吃驚して肩まで湯船に浸かった。前を隠しながら。

「場所が悪かったね。謝るよ。でもここでしか君と一対一で話せなかったから」

「誰なんですか」

 きょろきょろしても誰もいない。でも声ははっきりと聞こえる。

「一般向けに説明するなら幽霊かな。でもここいら界隈向けに説明するなら」

 呪い。

「もともとは人間だったんだけど、自分の意志で呪いになった。いまはモリ――君の父親と一緒にいる」

 まさか。

 なんで、でも。

「さすが察しがいいね。私が、モリとミツ姉――家政婦サンが別れた原因」

 立ち上がりそうになった。

 でも、やっぱり誰もいないし気配もない。

 喋ったときだけ確かに声がするだけ。

「どなたですか?」

「名前を聞いてるんなら、群慧グンケイ島縞しまじ。君が真昼間に電話した住職の身体の部分」

「どういうことですか?」

 群慧というのは確かに経慶けいけい寺の一族の名字だが。

「言ったでしょ。呪いになったって。身体をに譲って、いまこんな感じ」

「父さんには、その、見えてるんですか」

「そうだね。見えないといろいろ困るだろうしね」

 信じられないけど、信じるしかなさそうだった。

「モリが何も言わないのは君を巻き込みたくないからなんだ。だから恨んだりとか怒鳴ったりとか今後控えてくれると有難いかな。聞いてる私も気分がよくないしね。この状態に落ち着いてるってことは、現在のこの状態が最良最善だったって思えない? モリと私とミツ姉がお互い平和にずっと一緒にいる方法はこれしかなかった。部外者は黙っててほしい」

「私は部外者じゃ」

「部外者だよ。私たちがこの結論に至ったとき君はいなかった。生まれてなかった。部外者でしかない」

 そうきっぱり言われると。

「過去を掘り起こしたところで誰も得をしない。だったら部外者は当事者に任せて黙ってて。君だって触れたくない過去の一つや二つあるんじゃない?」

 それは、そうだが。

 それでも。

「私は、母さんは母さんとしていてほしいんです」

「わがままな娘だね。誰に似たんだか」あきれたような溜息が聞こえた。「何度言えばわかるのか。何度言ってもわからないのか。平行線ぽいからこれ以上はやめようか。君と言い争いしても疲れるだけだ」

「もう行くんですか」

「話は終わりだよ。それとも言い残したことがある?」

「あなたは、父さんのことが好きなんですか」

「偏見に満ち満ちた君向けの返答と、私の偽りない心からの本音とどっちを聞きたい?」

「本音のほうを」

「よく考えたほうがいいよ。父親に失望するだけだよ」

「家政婦の正体が実母だったこと以上のショックがあるんですか」

「あるよ。やめたほうがいい」

 怖いもの見たさというよりは、ただ本当のことを知りたいだけ。

 私はこれ以上絶望しない。

 これ以上の絶望がないくらいに落ちて落ちて落ちきっている。

「ああ、そうか。そうだったね。君は、そうだった」やけに納得したような声音だった。「わかった。じゃあ私の本心を伝えるよ。愛している。誰にも渡したくない。フリだけど、結婚式もした。嬉しかった。あの瞬間だけ、私はモリのパートナになれたんだって。でもね、モリはそうゆうとこ優柔不断でね。一人には決められないんだ。たった一人を幸せに出来ないって意味だよ? 私とミツ姉の両方を幸せにしたくて、それでこの方法を選んだ。結果は見ての通り。私はいまとても幸せだよ」

「あなたが幸せでも」

 母さんは。

「話をまったく聞いていないね。三人とも幸せだよ。そう言ってなかった? 君は自分の物差しで他人を図りたがるね。君に納得してもらう義務も義理もない。親切心で話してあげるんじゃなかったかな。じゃあ、君とはこれきりにするよ」

「待って!」

 消えた。何度呼んでも、声はもう聞こえない。

 浴槽から上がって部屋に戻った。

 21時半。

 父さんも母さんも眠っただろう。

 私も眠ろう。

 いい夢が見れますように。

















     01


 あいつの家から出てくるのを待っていた。

 19時。

 外はまだ明るい。

 源永さんは足早に帰路を辿る。

 追いかけた。

 追跡が気取られないように。

 何度か危ない場面もあったが、不思議と源永さんは心ここにあらずで。

 なにか、

 いいことがあったに違いない。

 なんだろう。

 婚約はもう済ませているから。

 まさか。

 いや、でもそれしかない。

 同棲の算段だろう。

 尚のことこちらも急がなければいけない理由ができた。

 あいつと一緒に暮らしてしまえば二人きりで会うチャンスもぐっと減る。

 源永さんの家まで付いてこれた。

 鍵を取り出して、室内に姿が見えなくなる瞬間に。

 ドアを止めた。

「え」源永さんが振り返る。「あんた」

「話があるんだ」

「私にはないわ。離して」源永さんはぐっと強くドアを引っ張った。

「5分でいい。話を」

「だから、ないって言ってるでしょ!」

 ドアの主導権はこちらにある。僕が力を弱めれば、源永さんの力だけが残って。

 ドアは閉まる。

「痛ッ」

 よろけた源永さんを支える。「大丈夫?」

「放して!!」

 突き飛ばされた。

 相変わらずの馬鹿力で。

 僕はドアに背を向ける形となる。最悪の悪手だったと、源永さんはまだ気づかない。

「出てってよ!! 警察」源永さんが電話に向かって走る。

 先回りして電話機をはたき落とす。

 ついでに電話線も抜いて、電源ごと廊下に放った。

「なにすんのよ!!」源永さんが金切り声で叫ぶ。

「あいつなんかやめて僕にしてほしい」

 源永さんが部屋を出ていこうとしたので、先回りしてドアの前に立った。

「どいて!!」

「僕の何がいけない?」

「全部に決まってるでしょ!! あんたの顔見てるだけで苛々してくる」

「顔を変えれば付き合ってくれる?」

「中身取り替えたってお断りよ!! もう、さっさと死んでよ!!!」

「じゃあ死ぬよ」

「は? 何言ってるの?」源永さんが見たこともない表情を浮かべた。

 ああ、こんな顔。

 僕は見たことがない。

「死ぬよ。君が望むなら、僕は死ぬ。だから、お願いだから、今日だけ。今日だけでいい」

 源永さんの顔が、

 得も言われぬ表情に変わる。

 何だろう、それは。

 怒り?

 あきれ?

 驚き?

 戸惑い?

「今日だけ、僕の物になってくれる?」

 源永さんが放心している隙に床に押し倒せた。

 あとは、

 僕の記憶にしか残っていない。

 でもこのときの鮮烈な記憶のお陰で僕は死ねなくなってしまった。

 だって、

 生きてたらまた。

 見れるかもしれないから。

 そう期待してしまった。

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