第9話 なぜか四夫人に大出世してしまう指名手配中の元公主

 朱亞は池の水面に浮かびながら、逃げていく宦官を見送る。


 あれから朱亞は先祖返りの力を使って、襲撃者である宦官を追い払った。

 龍の末裔まつえいである銀龍国の王族、その先祖返りをしている朱亞には、特別な力が宿っている。


 伝説の龍のように、水を操ることができるのだ。


 その力を活用して、川で魚を獲ったり、洗濯では自動洗浄を実現したり、雨の日は傘なしで外を出歩くことすらできるようになった。

 その代償は、なぜか無償に魚が食べたくなるだけ。

 

 龍の本能はなまで食らいつきたいようだが、なにせ朱亞は人間である。

 生魚は食べられない。

 それで色々と試した結果、焼き魚へと辿り着いたのだった。


 だけど残念なことに、龍の力を忌み嫌われて、祖国では人間扱いしてもらえなかった。

 

(でも、そのおかげで今があるのよね)


 王族の公主であるのに下女として扱われたおかげで、生き延びることができたんだから。



 池の水を龍のように操って宦官を撃退すると、悲鳴をあげながら逃げていく宦官を見送る。

 あとは池の底から引き揚げた憂炎を、陸にげた。


 問題はそれから。

 このまま池の近くに憂炎を放置したらどうなるだろうか。


 万が一、先ほど宦官が戻ってきたりでもしたら、憂炎は殺されてしまう。

 それにこれだけ濡れていれば、風邪を引いてしまうかもしれない。

 

「いや、それよりも、憂炎が息をしていないんだけど!?」


 憂炎は呼吸をしていなかった。

 どうやら気絶する前に、水を飲んでしまっていたらしい。


 このまま放っておけば、憂炎は死ぬ。

 そうなれば、故郷のみんなのかたきてる。

 だけど、たとえこの男が祖国を滅ぼした仇敵きゅうてきだとしても、このまま死なすつもりは一切いっさいなかった。

 

 朱亞は憂炎の胸に、両手を置く。

 体内の水分を、龍の力で操作しようとしたのだ。


「ダメ……さすがの私でも、他人の体の中までは操れない」


 それができれば、朱亞は無敵だっただろう。

 水を操る術を持っていても、相手の体内の水分を操って害するような手段は持ち合わせてはいない。


「でも、一つだけ方法があるのよね……」


 祖国である銀龍国で読んだ書物に、それは書かれていた。

 その本には、朱亞のように先祖返りした人間たちのことが、詳しく載っていた。

 そこに、溺れた人間に対する対処方法が書かれていたのだ。


「やっぱり、やらないといけないのよね?」


 他人の体内の水分を操る唯一の方法。

 それは、相手の体内に気を送ることだ。


 それには自分の体内の気を、相手に吐き出して与える必要がある。


 つまり、口づけであった。


「……………………」


 朱亞は公主だ。

 いくら下女の真似をしていたとはいえ、銀公主として王族の威厳を保ってきた。


 だからこれまで異性と親しくなったことは一度もなければ、手を繋いだことすらほとんどない。

 もちろん恋人だっていない。

 もう十五歳になるのに、一度もだ。

 

 それなのに、人助けのために大切な初めてを捧げるのは、いいのだろうか。


(いや、これは人命救助。けっして口づけではないわ)


 大きく深呼吸してから、朱亞は憂炎の口元へと顔を近づける。


 美丈夫である憂炎の顔を、これだけまじまじと見つめるのは初めてのこと。

 もしも闇夜のせいで顔がよく見えていたら、きっと朱亞の心は大変なことになってたいだろう。

 暗くてよく見えないことに、感謝をする。

 

(温かい……)


 初めての人命救助の感触は、意外と温かかった。


 溺れていたのだから、てっきり冷たくなっていると思っていた。

 だけど、ほんのりと温かくて、そして何やら柔らかい。 

 これまで味わったことのない、不思議が感触だった。


「…………いけない。こんなことしてる場合じゃないんだった!」



 まだ命の危機は脱してはいない。

 あの宦官がこの池に戻ってきたら、今度は追い払うことはできないだろう。



 朱亞は憂炎を水で創った龍に運ばせ、適当な母屋にぶち込んだ。

 ついでに、憂炎の全身と服に染みこんでいた水分をすべて吸収して、乾かしてあげる。

 これだけしたのだから、もう充分ではないだろうか。


 今日は力を使いすぎた。

 これだけ乱用したのは、逃亡中に金鸞国の軍隊に追い詰められたとき以来。


 ゆらりと体が傾いたことで、朱亞は自分の髪の変化に気が付く。


「髪が元の色に戻ってる!?」


 黒に染めていたのが落ちてしまったらしい。

 銀公主の代名詞でもある、銀色の髪に戻ってしまっていた。


(いつからこうなってたんだろう)


 池の中に身を沈めたときだろうか。

 水を弾くことができる朱亞とはいえ、万能ではない。

 それか、力を使いすぎて染めものすらをも弾いてしまったという線もある。


(誰にも見られなくて良かった。これからは用心しないと)

 

 憂炎はぐっすりと眠っている

 ついさっき、池に沈められて殺されかけたのなんて嘘のよう。

 それでも、あの宦官に殴打された跡は、紫色に腫れあがったままだった。


「痛いだろうけど、我慢してくださいね」


 そう最後に告げ、朱亞は母屋を後にする。



 そうして朱亞の忙しい一夜は終わった。



 寝所に戻ってきたときは、すでに日が昇っていた。

 朝帰りなんて初めて。



「朱亞、昨日はどこに行ってたのよ! まさか、どこかの宦官と逢引きでもしてたんじゃないでしょうね?」



 明明の勘違いを解消するのに、かなりの時間が経ってしまった。

 

 そのころには、完全に朝になっていた。

 休む間もなく仕事にかかり、やっと昼休憩になった。



「聞いてよ朱亞シュア。凄い情報を仕入れてきたんだから!」


「……もう少し寝させてくれないかしら、明明メイメイ


 朱亞はお疲れだった。


 早々に自分の分の洗濯を終わらせて、こっそりズル休みをしているのである。

 なにせ寝不足だ。

 だって昨夜は本当に大変だったのだ。


「聞いて驚かないでよね。なんと昨晩、後宮に女の幽鬼が出たらしいの!」


 明明メイメイの幽鬼話の内容は、こうだ。

 昨夜、瓢箪池ひょうたんいけで銀髪の女の幽鬼と、龍が出たという。


 それ、多分私のこと………と朱亞はガクンと頭を下ろす。


「ねえ明明、瓢箪池ってどこでしたっけ?」


「あそこだよ。前に朱亞と一緒に後宮を散策した時に、後宮の外れの竹林のそのまた奥で見つけた瓢箪型の池!」


 どうやら毎晩のように魚を密漁して焼き魚にしていたあの池の名前は、瓢箪池というらしい。


「やっぱり幽鬼の噂は本当だったんだ! 私も一度でいいから見て見たいな!」


「多分、そんなに面白いものではないと思うけど?」


「いや、面白いに決まっているよ! それに龍なんて本当にいるのかな。だから私さ、思うの。きっとそれは大蛇だって! もしくは大蛇の幽鬼!」


「そんなことより、皇帝陛下の噂話は聞かなかった?」


「陛下の? いや、全然」


 ということは、憂炎は無事に皇帝の宮に帰れたということだろう。

 あの宦官の皇帝暗殺計画は、未遂に終わったのだ。


 それからもずっと明明の無駄話を聞きながら、午後を迎える。

 今日は、先日行われた秀女選抜試験の結果が発表される日でもあった。


 試験に参加した宮女や下女たちが、一同に集められた。

 この中から、残りの妃嬪ひひんが選ばれるのだ。


(もしも昨日、皇帝が暗殺されていたら、この試験は無意味に終わっていたのでしょうね)


 そうならずに済んで良かったと思うのと同時に、それを成し遂げたのが自分であるのが誇らしかった。

 


 しばらくすると、今回の試験を運営している女官長が前へと出てくる。

 他にも女官たちに混じって、妃たちの姿も目に入った。


 さすがに後宮の女王である董太妃の姿はなかったが、その姪っ子である司馬貴妃は参列しているようである。


「それでは、名前を読み上げる」と、女官長が声を張り上げた。


 おそらく、上位の妃に選ばれた者から名前が呼ばれる。

 つまり、この場で後宮のトップ4である四夫人が全員揃うことになるのだ。


「徳妃──」


 四夫人の一人である徳妃。

 それは最後の四夫人の席でもある。

 

 後宮の最上位に君臨する四夫人には、上位の貴族が選ばれることが多い。

 司馬貴妃のように、親族が国の要職についているようなお嬢様ばかり。

 けっして、平民が選ばれるようなことはない。


 だは、例外もある。

 平民でもなくその国の貴族でもないのに、四夫人に選ばれるパターンが。

 

 それは、その妃が──隣国の公主である場合だ。



「徳妃──朱朱亞!」


(そう、私のように…………て、嘘でしょう?)



「私が徳妃!?!?」


 

 つまるところ、大出世だ。



 その日、一人の元下女の悲鳴が後宮中に響き渡った。


 そう、朱亞のものである。

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