第12話【第三章】

【第三章】


 その日の晩、悪夢を見た。そしてやはり、弦さんに迷惑をかけた。

 不幸なことに、晩飯をガツガツ食ってしまったものだから、今度こそ反吐を堰き止めることができなかった。

 背中を擦ってくれている弦さんに対し、俺はひたすらに謝り続けた。弦さんは、大丈夫、落ち着いてと、何度も何度も繰り返し言ってくれた。


「……もう大丈夫だと思います」

「左様ですか?」


 俺の、恐らくは血の気のない顔を覗きこむ弦さん。今しかチャンスはないと思った俺は、思い切って尋ねることにした。


「弦さん、どうしてですか。皆でカラオケに行こうっていう、俺の無茶な提案を支持してくれたのは」

「ふむ」


 弦さんは一瞬、考え込むように眉間に皺を寄せた。


「そうですな……。では坊ちゃま、あなたはどうしてカラオケ作戦を強行しようと思われたのですか?」

「え? あーっと、セーフハウスっていっても、自分たちの身が必ずしも安全とは限らないんじゃないかと思ったから、ですかね」

「ほう」


 じっと俺の顔を覗きこむ弦さん。流石に無礼だっただろうか? いや、ここで言葉を躊躇うほど、俺たちは暇じゃない。安全でもない。


「どうしてわざわざ出かけるか、って話ですけど。セーフハウスで敵に急襲されたとして、もぬけの殻であれば安心でしょう? 俺たちや弦さんが出かけていれば。俺たちは五人で、あるいは二、三組に別れて日中を過ごします。そして、夜になったら、これまたばらばらになってセーフハウスに帰りつく。その間の移動中は、弦さんを通してボディガードの方々に守っていただく。どうでしょうか?」


 弦さんは、口を挟もうとはしなかった。きっと聡明な頭脳を駆使して、俺の計画を吟味しているのだろう。やがて、ふむふむと納得したように首を縦に振った。

 俺はもう少し、思うところを明らかにしてみる。


「偶然なんでしょうけど……。今このセーフハウスには、過去に何らかの心の傷を負った女子が集まっています。俺は男子ですけど。だから、これはチャンスだと思ったんです。彼女たちが、『心配』という気持ちを両親に抱かせることによって、きちんと見守ってもらえるようになる。そんなチャンスです。でも……」

「でも?」

「今さらですが、そんなことは俺が、俺一人で、俺だけのために行うべきことなんじゃないか、って後悔しています。第一、何らかの原因で悪い大人に追われている。捕まったら何をされるか分かったもんじゃない。こんな状態でカラオケに行こうだなんて、正気じゃないですよね……」


 俺はさっと手を掲げ、吐き気が収まったことを弦さんに示した。

 俺の吐瀉物をさっさと処理し、弦さんは再び俺の下で片膝をつく。

 次に声を上げたのは、弦さんの方だった。


「坊ちゃま、あなた様の仰る『後悔』とは?」

「俺が怒りに任せて、あの四人を危険な目に遭わせることになってしまうんじゃないか。そういうことです」

「確かに、可能性は捨てきれませんね」


 弦さんの言葉が胸に刺さる。もっともな話だ。

 

「明日は土曜日だから、カラオケ屋も繁盛することでしょうね。そこをピンポイントで狙われたら終わりです。こちらには国民的アイドル、夜桜希美がいますし。それに、摩耶の運動神経はすごいし、ルリアの頭脳は高校生のものとは思えないし……」


 俺はやれやれとかぶりを振った。


「いっぺんに俺もさらわれてしまうかもしれない。あるいは、口止めのためにその場で殺される、とか」

「それでも、坊ちゃまはカラオケに行きたいと仰られた。何故です?」

「そう、ですね」


 そう言いながら、俺は肩を竦め、視線をゆらゆらと彷徨わせた。

 すると、自然に見慣れた写真に目が吸い寄せられた。両親、俺、そして妹の四人で撮った、家族写真だ。

 毎朝、目に入れない日はなかった。邸宅からこのセーフハウスに移動する際にも、ちゃんと鞄に入れてきた。


「生前、春香が言ってたんです。歌手になりたいって。まあ、幼児の見る夢ですから、過剰な憧れがあったのは仕方ないことでしょうけど。でも、結局春香は一度もカラオケや音楽教室といったところに行くこともできず、その……えっと……」


 そこまで語ってから、俺の周囲ではいろいろなことが起こった。

 

 視界がじんわりとぼやけてくる。

 声が震えて言葉を発することができない。

 よちよち歩きをする春香の姿が瞼の裏に現れる。

 全身が痺れるような感覚に陥り、同時に脱力する。


 俺は今、一体何を考えている?


 自分の脳みそが締めつけられ、握り潰されそうだ。

 しかし、そんな感覚はすぐさま消え去った。温かくて大きな手が、俺の頭部に当てられたからだ。


「お気持ちはお察し致します、坊ちゃま」

「弦さん……」

「わたくしとて、かつては国防を担う組織の端くれでした。戦友の死を目の当たりにしたことも、一度や二度ではない。それらの情報は世間に公表されることもなく、遺族にさえ誤った情報が流された。まったく、人間の心のなんと狭いことか……。未だに夢に見ます」

「弦さんも悪夢を見るんですか」


 ふっと、弦さんが穏やかな溜息をついた。


「心外ですな。わたくしとて、武人である以前に人間です。ただの、一介の、少しばかり戦いに慣れているだけの、何の取柄もない老いぼれです」

「え……」


 俺は、弦さんが自嘲するのを初めて見た。


「ただ、こんな人間にでも、坊ちゃまに申し上げられることはございます」

「何です?」

「一つは、亡くなられた家族のことでご自分を責めるべきではない、ということ。もう一つは、亡くなられた方の代わりを務め得る人間など、この世に存在しないということです」


 俺は思いっきり顔を顰めた。弦さんに反抗するつもりはなかったが、彼の持論を素直に受け止めきれなかったのもまた事実だ。

 そして何より、弦さんが何を俺に諭すつもりなのか、よく分かっていなかった。


「よろしいですか、坊ちゃま」


 弦さんは立ち上がり、深々と頭を下げたままこう言った。


「春香様は――あなたの妹君は、とうに亡くなってしまわれたのです。そのことを、くれぐれもお忘れなきよう。そして自分がお客様方――摩耶様、美耶様、ルリア様、希美様の中で、春香様のお姿を探されることのないよう」


 以上、謹んでお願い申し上げます。そう言って、弦さんは顔を上げた。

 俺は涙を拭うのも忘れて、弦さんが踵を返し、退室していくのを見つめた。それしかできることがなかった。


「待って……。待ってくれよ、弦さん! 今の話、どういう意味なんだよ? どうして春香が出てくるんだ? 俺に何をどうしろって言うんだよ!!」


 俺はベッドから立ち上がり、ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てた。

 あっ、そうだ。ドアノブだ。邸宅の方がドアノブに不調があったのだから、頑張ればここのドアもこじ開けられるかもしれない。


「この野郎!」


 俺はすぐさまドアノブを掴み込み、全力で捻ろうと試みた。

 一度、二度、三度……。ええい、数えるのも馬鹿馬鹿しい。途中からは、腕を捻るのに加えて蹴りも混ざった。さらに頭突きやらタックルやら、いろんな攻撃を試したような気がする。

 

 しかし、ドアはびくともしなかった。木目の隙間から、光るものが見える。

 そうか、このドア、木製じゃなくて金属製だったのか。道理で破れないわけだ。


「だはっ!」


 俺は全身、擦り傷だらけになりながら、ほぼ見かけの変わらないドアを見つめた。

 そして、目を離せなくなってしまった。

 お前の力では、現実など変えられやしない――。ドアがそう語りかけてくるような気がした。


 俺は、汗と涙でぐしゃぐしゃになった顔に掌を当てた。その後、どうやって風呂に入り、精神安定剤を飲んでベッドに潜り込んだのか。記憶には残っていなかった。


         ※


「あっちぃな~、おい! 美耶、お前もそう思うだろ?」

「う、うん、そうだね、お姉ちゃん……」

「日本の夏はじめじめして居心地よくないでーすね!」

「我慢せえや、そんくらい! さて、今日は歌うでえ~!」


 摩耶、美耶、ルリア、希美の四人が、四者四様の感想を口にする。

 俺は四人を先導する形で、駅前の通りに入った。


 今朝になって弦さんと話し合ったところ、この時点で既にボディガードたちは警戒態勢に入っているらしい。

 俺はぐるり、と周囲を見回してみた。……いつも通りの街並みだな。人通りは決して多くはないが、こんなところに本当にボディガードはいるのだろうか?


「おーい、柊翔! 乗り遅れるぜ!」

「お、おう」


 俺は慌てて改札を抜け、在来線しか走っていない我が町の駅を後にした。

 車内はそこそこ混み合っていた。休日なのだから、このくらいの乗客に利用してもらわなければマズいだろうな。


 女性陣はというと、いつの間にやら仲よくなっていたらしい。積極的にお互いの自慢話をしている。

 皆、見るからに楽しそうだ。だが、嫌味とか優越感のようなものは感じられない。やはり、一定のポテンシャルを持っている人間は、心に余裕があるのだろう。一人を除いて。


 不安げな俺の態度に気づいたのか、美耶は一歩、俺に近づいた。そしてシャツの裾を掴んでぎゅっと握り締めた。


 視線を交わしたのは一瞬。だがその瞳からは、美耶に抱いている感情がひしひしと感じられた。

 ――自分もあれだけ積極的に話ができればよかったのに。

 そう聞こえた気がした。


「ん……」


 どう対応したらいいものか。

 無言のやつは嫌なやつ、とはならない。それは分かる。きっと美耶も、とっくにそんなことは分かっている気がする。それでも他人と仲良くしたいという気持ちが湧いてくる。


「春香と同じ、か……」


 弦さんの忠告を無視する形になるが、どうしても連想してしまった。

 なまじ春香が活発な子であったがゆえに。


 俺にできるのはこれくらいだけれど。

 そう胸中で呟きながら、俺は美耶の手をそっと握りしめた。この電車が、目的地店に着くまで。

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