ダメなダメ兄による優秀妹のための絶対妹防衛戦

岩井喬

第1話【第一章】

【第一章】


 ある夏の日の話。

 その日の天気は雨だった。

 大きな水滴が、容赦なく地上に打ちつけられる。屋根に、地面に、家屋の窓に。

 道行く人は皆、傘や雨合羽から身体がはみ出さないように、忙しなく大股で歩いていく。


 こんな日に外出するなど、当時の俺はどうかしていたらしい。だが、その日は日曜日。朝から夜まで学校に行かなくていいのだから、こんな日に遊ばなくてどうするのだ。本気でそう思っていた。


 傘を放り出し、雨合羽を脱ぎ捨てて、俺――風見柊翔は、公園のグラウンドを駆け回っていた。足元ではびちゃびちゃと泥水が跳ね、拭いきれない雨の粒が、髪から額、頬へと流れ去っていく。


 俺はグラウンドを、両手を掲げながら縦横無尽に駆け回った。

 シャツに雨水が染みてしまうのは仕方がない。だが、前が見づらくなるのは厄介だ。

 何度も何度も、ぐいぐいと腕で顔を拭う。


 そうこうしているうちに、目の前に壁ができた。平屋の家屋の外壁だ。

 そしてここには、公園と住宅街を結ぶ短い横断歩道と交番がある。

 交番前に半袖の制服を着込んだ警官が立っていた。彼に見つからないように、そうっと横断歩道を渡る。結構幅があるのに、信号機が設置されていない。闇雲に駆けていっては、警官に怒られるかもしれない。


 無事渡り切り、ようやく俺は振り返った。

 グラウンド側には、僕にそっくりな、小さな女の子がいる。俺はその子に向かって、何某かの言葉を投げかけた。ぶんぶんと両手を振ってみせる。


 それに応じるように、彼女は横断歩道に足を踏み入れた。その華奢な身体が突き飛ばされ、宙を舞って落下する。ぐしゃり、と生々しい音がする。


 次の瞬間には、俺の身体は脱力しきって、視界が真っ黒に染め上げられた。


         ※


「うわああああああっ!!」


 俺は慌てて起き上がった。必死で雨粒を拭おうとする。が、雨脚が弱まることはなく、俺はどんどん濡れそぼっていく。

 いいや、違うな。これは雨じゃない。俺自身の汗だ。


「はあっ! はあ、はあ、はあ……」


 右手を額に当てながら、荒い呼吸を整える。


「薬……、水……」


 俺は窓際のベッドから下り、机のわきに置かれた精神安定剤、それと水の入ったペットボトルの方へと向かおうとした。しかし、全身が震えて言うことを聞いてくれない。

 やむを得ず、四つん這いになって机に向かい、椅子で身体を支えながら薬と水を飲もうと考えた。


 が、それさえ上手くいかなかった。椅子もまたバランスを崩し、俺と一緒に、がたんといって倒れ込んだ。


 動けない。息がしにくい。全身びしょ濡れ。俺は薬を飲むのを諦め、そのまま頬をカーペットにつけた。


 一度にいろんなことが起こったせいで、ひどく長い時間が経過したように思われる。だが、助っ人というか保護者というか、とにかく俺以外の人物が廊下を駆けてくるのは聞こえた。


「坊ちゃま!」

「……弦さん」

「どうなさいましたか、坊ちゃま。お怪我はありませんか?」


 勢いよく入って来て、俺の下にひざまずく人物。

 彼の名前は、上村弦次郎。俺に仕えてくれている執事だ。僕は彼を、弦さん、と呼んでいる。

 冷静な口調で負傷の有無を尋ねられた俺は、軽く右肘に目を遣った。擦りむいたらしい。


「何も危険はありません。ゆっくりと深呼吸なさってください。わたくしが非常用のお薬を――」


 そう言う弦さんの腕を、俺はそっと掴んだ。七十代とは思えない、屈強な腕。

 弦さんは元々、親父専属の執事の一人だったらしい。俺の両親が離婚すると、執事に限らず、他の人間たちは風見家に見切りをつけて去っていった。が、彼だけは親父の、というより俺の下に残ってくれた。

 契約上の金銭的な問題はないそうだが、そのあたりのことはよく分からない。


 ようやっと俺は立ち上がり、錠剤の入った袋に手を突っ込んだ。弦さんが電気を点けてくれたお陰でよく見える。それだけでほっとした。


 どの薬を、どのタイミングで、どのように飲むのか。

 最早暗記してしまっている俺は、頭では別なこと、たった一つの『許しがたい現実』について考えていた。


 それは、俺が両親に捨てられたこと。

 両親が別れる際に議論される親権について、お袋は早々に放棄した。取り敢えず俺は親父の庇護下に入ったものの、親子関係は冷え込むばかり。風見家は両親の職業柄、他の親戚とはあまり交流がなかったので、俺に行く宛はなかった。


 それを見かねて、現在の俺の生活を形成してくれたのが弦さんだ。

 彼は、彼だけは、俺を本当の家族、強いて言えば孫のように扱ってくれた。まあ、祖父と呼ぶにはあまりにも屈強なわけだが。


「お飲みになられましたか、坊ちゃま」

「……はい。もう大丈夫です。あとは自分で眠れます」

「左様ですか。では、どうぞご無理なさらず、何かあったらすぐにベッドわきの非常ボタンを」

「ええ、そのつもりです。どうもすみません」


 無言で、僅かに笑みを浮かべながらかぶりを振る弦さん。

 月明りが差してきて、弦さんの豊かな頭髪と口髭が露わになる。俺同様にパジャマを着ているが、その立ち振る舞いは執事以外の何物でもない。


「それでは、明日からの夏期講習、最善を尽くされますよう」

「はい。ありがとうございます」


 弦さんは立ち上がり、優雅に一礼してから俺の部屋を辞した。

 それから朝になって、携帯のアラームで起こされるまでの間、俺はずっと意識と無意識の境目を漂っていた。


         ※


 翌日。

 意外なほどあっさりと、俺は目を覚ました。悪夢の余韻は残っていない。近代薬学も甘く見てはいけないな。


 俺は現在時刻を確認し、携帯のアラームを止めた。

 夜中にはあれほど苦しんだのが嘘みたいだ。俺はふっと息をついて、ベッドから足を下ろした。腕を伸ばしながら欠伸を一つ。


「さて、と」


 顔を洗うべく洗面所へ。それからようやく馴染んできた(ような気がする)制服に腕を通す。それから階段を下りて一階のキッチンへ。

 足を運ぶ間に、コーンポタージュの優しい香りが漂ってきた。


 ゆっくりと朝食を味わってから、俺は鞄を持ってエントランスホールへ出た。

 弦さんは昨夜と違い、きっちりと黒い燕尾服を纏っていた。


 いってらっしゃいませ、とお辞儀をする弦さんに応じながら、俺は自分の住む家をゆっくりと眺めた。


 家というより、邸宅とでも言えばいいのだろうか。

 だだっ広い敷地に、二階建ての洋館がその威容を見せつけている。黒い外壁はそれだけで影になっているかのようだし、正体不明の植物の蔓が高くまで這い上ってきており、どう見ても不吉である。


 ……こんなでかい家に住んでいたって、精神的に脆い人間はいるんだけどな。俺とか。

 これは物質的な事柄ではなく、精神的な問題なのだろう。だが、それは目に見える負傷ではないからなあ。


「弦さんほど見てくれる人が、もうちょっといてくれてもいいんだけどな」


 俺はポケットに両手を突っ込み、ふっと息をついた。

 再度、弦さんに手を振ってから、俺は黙々と歩き出した。


 十分ほど歩くと、大きな交差点に出る。そこを左折し、緩やかな坂を上っていくと、五分ほどで到着だ。

 俺が信号待ちをしていると、とん、と肩に手を載せられた。


「何だよ、寛」

「おや? ちっと愛想がねえな。どうかしたのか、柊翔?」


 そう言ってへらへらとしてみせるのは、河東寛だ。いわゆる腐れ縁というやつで、小学校、中学校、高校と、ずっと同じ学校で過ごしてきた。


 俺は寛の腕から逃れながら、仏頂面をしてみせる。


「用がないなら話しかけないでくれ。こちとらまともに寝てないんだ」

「やれやれ、難儀な性格してるよな、お前も」

「だっ、誰が難儀な性格――」


 反論しようとする俺の前で、寛は、うひょっ! と声を上げた。


「そんなに考えすぎるんじゃねえよ、柊翔! これじゃあ、お前の隣を歩いてる俺まで陰キャだと思われちまう」


 勝手にしてろ、馬鹿野郎。

 確かに、寛がモテようと努力しているのは知っている。でも、俺が髪を金髪に染めたり、グラサンをかけたり、銀色のネックレスを着けたりしたところで、どうにもならないだろう。

 それは俺自身が、一番よく分かっているはずだ。それから、こんな俺の心境を寛が拾ってはくれまい、ということも。


 俺は立ち止まり、ふっと上を見上げた。昨日見た夢の光景とは正反対で、さんさんと太陽光が降り注いでくる。そこに影を投げかけているのが、葉桜だ。

開花中の桜も綺麗だが、個人的には今の、エネルギーを充填している時の桜の方が好き。なんとなく、こちらが励まされる気分になれるから。


 そうだな、俺も頑張って生きなければ。でなければ、事故死したあいつに申し訳が立たない。頑張って勉強にも部活にも打ち込めるようにしなければ。


         ※


「何だこりゃ?」


 そんな珍妙な声を上げたのは寛だった。昇降口でシューズに履き替え、俺も何が起きているのかを確かめなければ。

 あたりは人混みができていて、彼らが見上げる先には、大きな白い用紙が貼られている。

 用紙曰く、『転校生のお知らせ』だそうだ。


 この教育機関、国立みらい坂上高校は、基本的に転校生の受付を行っていない。少数精鋭のエリートを養成するためだ。

 それなのに、この時期に転校してくるとは何者だろうか? まあ、俺には関係あるまい。

 今となってはどうでもいいことだ。


 そう考え込んでしまったからか、俺は寛が興奮して声をかけてくるのに全く反応できなかった。

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