第2話 美味しいパン屋

 家の隣にパン屋が出来た。


 ずっと空き家だった家屋を改装して店舗にしたようだ。


 経営しているのは見知らぬ家族。

 どこから来たのかは知らないが、結構な大家族のようだという噂を聞いた。


 オープンしてすぐに噂が噂を呼び、あっという間に人気店となったその店は、連日行列が私の家の前まで並ぶほどの盛況だった。


 正直私はそれが不愉快だった。

 家の前に並んだ人の中には、暇つぶしに家の中を覗くような視線を向けてくるものもいた。

 待っている間に吸ったのだろう煙草の吸殻が家の前に無数に散らかっていることもしばしばあった。


 そもそも私は米派なのでパンは食べない。

 いや、嫌いだと言っても過言ではない。

 どうしてもあの口の中がパサパサとする感覚が我慢ならない。


 なので、隣がパン屋になったことに対して怒りこそあれ、興味本位にでも買いに行こうなどと思うことはなかった。



 ある日の夜。

 隣のパン屋の店主が家を訪ねて来た。


 引っ越してきた当日に挨拶に来て以来に見る顔だったが、笑顔で挨拶に来たその時とは違って、今日は暗い表情をしていた。


「いつもご迷惑をお掛けしているようで申し訳ありません」


 店主はそう言うと深々と頭を下げた。

 どうやら私が迷惑していた事に気付いていたようだ。


「お詫びというには失礼かもしれませんが、私の店で作った物を持ってきましたので、よろしければお納めください」


 そう言って紙袋を差し出してきた店主の指には無数の包帯が巻かれていた。

 調理中に怪我でもしたのだろうか?


 受け取らないのも大人げないと思った私は、その紙袋を受け取る。

 中身は間違いなく私の嫌いなパンだろう。


 その後、店主は何度も謝罪の言葉を繰り返したのちに帰っていった。


「もう少しですので……」


 最後に出ていく時に言った、その言葉の意味は分からなかった。



 翌日、私はパン屋の行列に並んでいた。

 どうしてもあのパンがもう一度食べたい。

 捨てるのももったいないと思って嫌々食べた貰ったパン。

 それは今まで食べたパンの常識を覆すような旨さだった。

 あの旨さ言葉で形容するのが難しい。

 一言で言うなら中毒性のある旨さとでも言おうか。

 あの食感も、あの味も、その全てを全身が求めて止まないのだ。


 その日から私の主食はパンになった。

 今更米など食う気にもならない。

 あのパンがあればそれで良い。


 一週間ほどそんな日が続いた。

 その日も私は仕事などほったらかして帰宅し、着替えもそぞろに隣のパン屋へと向かった。

 しかし、そこに行列はなかった。

 帰って来た時は急ぎ過ぎて気付かなかったが、入り口の前に何人かの人がいて、何かを見ては帰っていく。


『閉店のおしらせ

 私たちの都合により閉店させていただきます

 短い間でしたがありがとうございました』



 夜になっても住居兼店舗の中に明かりは点かなかった。

 閉店と共に引っ越してしまったのだろうか?

 もう、あのパンは食べられないんだろうか?

 ああ、食べたい。

 あのパンが食べたい。


 気づけば私は店の裏口に来ていた。

 ノブを回すと扉は簡単に開いた。

 誰もいないからといって入っていいわけじゃないのは分かっている。

 でも、もしかしたら残っているパンがあるかもしれない。

 ちょっと覗くだけ。無ければすぐに帰る。

 あってくれ。パン。パン。パン。


 真っ暗な店の中を、小さな懐中電灯の灯りだけを頼りに進む。

 静まり返った家の中にはやはり誰もいないようだ。

 あのパンの香ばしい匂いが残っていて、私の心は弾みだす。

 これなら残っているかもしれない。

 どこだ?パン。パン。パン。


 何やら大きな機械がある。

 ここがパンを作っていた場所だろうか?

 他よりもはっきりとパンの匂いを感じる。


『美味しいパン製造機』


 機械にはそんなラベルが貼られていた。

 これがあれば美味しいパンが簡単に出来ます?

 材料は、小麦粉と水と――


 ああ、そうか。これがあのパンの秘密だったのか。

 それであと少しだと店主は言ったのか。


 いろいろと合点がいった。

 パン屋を続けるには、例え大家族でも限界があったのだ。

 でも、これがあれば私はあのパンを作って食べることが出来る。

 棚に残っていた小麦粉を入れる。

 ああ、パンが食べたい。

 水道から水を汲んできて加える。

 あと少しでパンがパンがパンが――


 そして最後に――『美味しいパン製造機』の上部にあった穴の中に左手の小指を差し込む。


 この機械があれば、あと10回はあの美味しいパンが食べられる。


 なんて幸せなことなんだろう。


 私は幸福感に包まれたまま、血痕のこびりついているスタートボタンを押した。



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