第伍話

 担任教師と一緒に教室に向かいながら説明を受ける。が、全てを聞き流し適当に相槌を打つ転校生が一人。何せ彼は手の震えを隠すだけで精いっぱいで、他に構う余裕なんてなかったからだ。


 校舎に入ってからずっと耳元で纏わり付いていた卑しい笑い声達。生徒達の談笑にでも震え上がってしまう。冬でもないのに指先から温かみが勝手に逃げ出し、全身から冷や汗がダラダラと伝い落ちる。

 担任教師に心配されるも、彼は大丈夫だと振り払う。

 道中ずっと俯いて歩いたせいか、思ったよりも早くクラスに辿り着いてしまった。「じゃあ入りますね」と言う担任の表情には、やはり心配の色が色濃く残っている。


「はーい。皆さん、静かにしてくださいねー」


 担任の明快な声が響き、クラスメイト達がわらわらと各自の席に戻る。

 人々の視線が一斉に注がれる――肌でひしひしと感じながら、意識しまわないようになるべく目を合わさず、すすすっと壇上へ。


「こちらは今日転校してきた――え、ちょっと萱野君?」


 担任の戸惑いが瞬く間に広がり、教室内はざわつく。時間稼ぎのつもりが、却って担任を困らせてしまったのだ。焦らないわけがない。

 ふとした拍子でチョークが彼の手から滑り落ちそうになった。慌てて拾うにも些細なミスで波紋が広がる。陰口という波紋が。


「この転校生、皇国人サルの癖にビビってるじゃねえか。ウケるー」


「同じ皇国人なのになんかパッとしないね。それになんか軟弱そうだし」


 ひそひそ声が鼓膜に突き刺さる。書き終えた彼はチョークを置くと同時に唇を引き結び、深呼吸一つ。負けじと振り返ったその瞬間――、


(あ、ダメだ)

 

 悪足掻きは無意味だったと思い知らされた。

 期待に満ちた視線。高圧的な視線。どこか軽蔑を含んだ視線。全てがこちらに向ける凶器のように映る。

 悪い事何もしていないのに責められるような感覚が彼の古傷を無理矢理抉じ開け。テレビの砂嵐が脳内で響き。身がすくみ、膝がガクガクと笑い出し、背中から冷や汗がドッと噴き出す。無防備状態の彼を襲う記憶の断片が短編映画のように流れる。


『■■だけは止めてください。■■■■■■潰す気ですか』


『■■■■の■■は絶対に■■■■■■■。もし■■■■がまだ続きたいのならな』


『ねえ、どんな気持ち? ■■■■■■■■■』


 フラッシュバックに翻弄され、身動きが取れない。些細な雑音ですら今、彼の首を絞める透明な縄と化す。じわじわと着実に、でも確実に絞め殺そうとしている。

 クソ。クソ。クソッ。

 どこか逃げ道を――と、視線を彷徨わせるその時だ。


「……」


 ふと、真ん中の席の夏目と視線が合った。何かを伝えようとして彼女は口をパクパクさせている。読み取るように、目を凝らす。

 『が』『ん』『ば』。

 脳内で並べ立てた文字に驚く暇すら与えてくれず、彼女は胸元で拳を上下させてみせた。聖母のような優しい微笑みを湛えて。


 え、と黒い眼が見開く。

 避けていた相手がこちらの心配をしてくれるとは。申し訳なさが込み上げてくると同時に透明な縄が解かれた気がして、幾分呼吸がしやすくなった。


 後でちゃんと謝ろう、ともう一度深呼吸して顔を上げる。

 クラスメイト達の不思議そうな様子がおかしくて思わず失笑しそうになるが、まずはやるべきことをやらないと。


「初めまして。ええと、家庭の事情で引っ越してきた、萱野駿之介です。よろしくお願いします」


 何の変哲もない自己紹介。しかしそれは己の過去に向き合うための第一歩をも意味するものである。

 更なる困惑に首の角度を深めるクラスメイトが大勢いる中、夏目だけが無言の拍手を送ってくれた。目礼を送り返し担任の指示に従い、窓際の一番後ろの席に向かう。


 すれ違いざまによっと声を掛けられ、視線を持ち上げると光風の顔が入ってきた。目礼と共に彼に倣って返事し、後ろにある自分の席に着席。

 前の席にいるのが光風、真ん中の席にいるのが夏目。

 それが分かってから、深い安堵が胸の底から湧き上がってくる。つい先程まで怯えていたのに、もう遠い昔のことのように思えるのは実に不思議なものだ。

 ふと、ベールの掛かった空を仰ぐ。


(ああ、仲間っていいな)


 軽やかに舞い上がる三片の花弁が遠く彼方へと旅立っていく様は、実に美しかった。








※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※








 この国は怪しい。そのことを駿之介は薄々勘付いていたとは言え、まだ半信半疑の状態だった。しかし決定打となった出来事が起こったのだ。

 昼休みの五分前。やっと退屈な授業からおさらばできると思っていたところで、ピンポンピンポーンという電子音に不意打ちを食らった。


『皆様、ご機嫌麗しゅうございます。本日もお昼の礼拝らいはいのお時間にやって参りました。オスズヒメ様のご加護を賜りますよう、共に祈りを捧げましょう』


 なんて癒される声なんだ、と駿之介は瞑目し己の中に潜む声ソムリエを呼び覚まそうとしたその時。味わうことすらままならず、ゴーンという鏧子けいすの音に驚かされた。後に続くお経にいよいよ戸惑いを隠せなかった彼は、周囲の様子を窺う。

 諳んじる者もいれば、ただ頭を垂れる者も存在する。この謎のお経タイムに従っているのは皇国人だけだと思っていたら、頭を下げた夏目が視界に入って更に困惑。

 かと言ってふざける共和国人もいれば、勉学に励む共和国人もいる。これらの事実を結びつき、駿之介は一つの解を得た。


(つまり、この謎のお経タイムが義務付けられていたのは皇国人だけ、ってことか。本当、シャレになんねえな)


 早速新しい制服に嫌気が差してきたが、彼は礼拝のフリをした。

 かれこれ約五分が経過した頃、全人類の乾涸びた心に癒しの水を賜ってくださる声(あくまで彼の感想である)が再臨。


『皆様、共に祈りを捧げることに深く感謝いたします。織月神社おりつきじんじゃより、皆さんにオスズヒメ様のご加護があらんことを、心から祈っております』


 お待ちかねの昼休みを知らせるチャイムが生徒達の学食へ急ぐ足を速める。幾分緩んだ空気の中、彼は大きく背伸びしながらもあちこちから聞こえる賞賛の声に意識を傾ける。

 「巫女姫みこひめ様のお声が相変わらずお美しい」から「帰りに神社に寄って帰ろうかな」まで様々だ。それも、男女問わず。無論、称える人種が些か限定的になるが、それでもかなり人気を博していたのは間違いない。


 確かにあの声は、かび臭いお経(あくまで彼の個人的な感想である)を清めるための浄化ボイスと言っても過言ではない。むしろ、睡眠導入ASMRとして販売して世界中からオーダーが殺到するのは間違いなしだ。けれど、


(宗教のアイドル、か……)


 普段法事でしか聞かないお経が、日常生活にでも聞こえるようになった。これまでと違う“常識”に駿之介は深刻な危惧の念を感じた。








※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※










「なんで人間が新しいものに飛びつくの。あっ、分かった。ヤツら全員前世は虫なんだ。虫撲滅するには殺虫剤だもんね。ねえ駿兄、後で買ってきてもいい?」


「どうどう、気持ちは痛い程分かるが今日だけは水に流そう。転校生バフは期間限定だから明日になれば効果は薄まる……はずだ」


「そうしたら殺虫剤を買ってきてくれる?」


「全人類を滅ぼす気か妹よ……」


 共に初日を乗り越えたせんゆうの柚が今日一重い溜息を吐き出す。どれだけハードだったのか、憔悴した横顔を見れば自ずと想像がつくものだ。

 だから彼は「今日は友達できた?」なんて野暮な質問を敢えてせず、話題の焦点を変える。


「そういや、聞いた? 例のお経」


「うん……何せ毎日流してたらしいよ、あれ」


「よく知ってるな……」


「へへ、あの後トイレの個室に籠って調べたからね……。あたしに掛かれば、ハッキングなんて女の子を丸裸にするのと同じようなもんさ……」


「すごいな……」


 デュフフフ、とやつれていながらもドヤ顔する妹に対し、どこか複雑な表情をする駿之介。

 ハッキングは褒められるものではないが、こうして情報を持ってきた以上、怒る気にもなれないといった様子だ。けれどそんなことよりも、引っかかることが一つ。最愛の妹がイジメっ子に遭遇したのではないかという懸念が。


「まさか誰かにイジメられたとか。そいつは誰なのか、お兄ちゃんに言いなさい。大丈夫、ちょーっと痛い思いをさせるだけだから……」


「だだだだ、誰がコミュ力高い系女子にびびびび、ビビってるって言うんだよ。しゅ、駿兄も冗談は大概にしてよもうー」


 なるほど、と内心で納得した駿之介。

 本気で心配したつもりがまさかただの杞憂で終わるとは。


「なんというか……ヤバいところに引っ越しちまったなぁ俺達」


「うん……」


「あとはそうだな……外ではなるべく英語を使わない方が良さそうだ」


「うん……」


 転校初日の疲れやらカルチャーショックやらで相当参ったのか、会話がそこで途切れた。

 細い石畳の路地に入って暫く経った頃。二人の足音だけが響く空間の中で、


「あそこに誰かがいるよ、駿兄」


 柚がいきなり口火を切った。え、と駿之介も視線を辿る。

 薄闇の向こう側にぼんやりとしたシルエットを確認。時折聞こえる物の落下音から相手が何やら漁っているという推測に至るのに数秒も掛からなかった。


「ゴミ漁り……?」


「ど、どどどどうしよう駿兄」


「どうするも何も、後で月華荘の連中に言うし――」


 けれど途中で相手がこちらの存在に気付き身を翻す――その刹那。

 落ちかかった斜陽が投げた微かな光の下、頭を覆う程の深紅の布がほんの僅かに姿を現した。脱兎の如く逃げ出す相手を二人は追い掛けず、一刻も早く知らせるように帰路につく足を速めることにした。

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