泉物語

原月 藍奈

雨間(1)

 いづれの御時にか、泉に端近はぢかなる家ありけり。その家にちご生まれけり。長、児を泉姫とつけつ。泉姫いと詠み上手なれば、人あまた集ひけり。




 いつの時代のことであったでしょうか、泉の近くに家がございました。その家に子供が生まれ、家の長はこの子供に泉姫と名付けました。この泉姫は歌を詠むのが上手でしたので、人がたくさん集まるのでした。


「とはいっても、歌を詠む才能はあるのにそれを男性に披露できないのが残念ですね」


 年老いた女房は泉姫の髪を梳かしながら苦々しく笑う。その言葉に泉姫は巻物に向けていた目を女房へと向ける。


「そうですね。私の容姿は末摘花すえつむのはなか、それ以下と世間では噂されていますからね」


 泉姫は『源氏物語』の巻物をゆったりと撫でる。


 泉姫の元にはその美しい歌声を聞きたい、歌を作ってほしいとたくさんの人が集まってくる。もちろん中には泉姫と親しくなりたいという男性もいた。その男性の誰もが泉姫の作った歌を聞きたいと願い、いよいよと容姿を確認した途端に勝手に絶望して帰っていく。

 泉姫の顔立ちはむくんでいて体型も痩せ細っている。何より真っすぐな黒髪でなく、波打った特徴的な髪型をしていた。


 泉姫はため息を吐いて、目の前にある御簾みすをかすかに上げる。外には白砂が敷き詰められており、遠くには池。そして池を含め、家の周りを築地つきじ(土壁)で囲われている。


「そういえば。また殿方から会いたいといった趣旨の歌が届いていましたが。どうなさいますか」

「いつものように燃やしておいて下さい」


 女房はふふふと笑みをこぼしながら、手紙をその場で燈台の火で炭にしてしまう。


 しかし手紙を燃やしたところで状況は変わらない。返歌をこちらが出さなくとも勝手に男が屋敷に忍び込むことが幾度もあった。


 また勝手に絶望されて帰ってしまわれるのね……などと遠い目をしながら泉姫は口を開く。


「『源氏物語』の光る君のような方が来るのであれば話は変わってくるのですけれど」

「あら、泉様は源氏は嫌いではなかったのですか」

「それは嫌いなのですけれど。『蓬生よもぎう』の巻は何故かかっこよく見えたことですね」


 泉姫は源氏が好きではなかった。元々泉姫は硬派であり、源氏のようにたくさんの女性と関係を持っている男が苦手というのもあったが。泉姫は末摘花が好きで、彼女に対する接し方がどうにも腑に落ちなかったのである。

 末摘花は容貌も服飾も歌も劣っていると描かれている。歌の才能はともかく、他の部分が泉姫と似ていて末摘花に感情移入してしまう。


 源氏物語『蓬生』では源氏が実質流罪になった後の末摘花が描かれる。源氏がいなくなって生活は貧しくなり、屋敷は荒れ果てる。源氏が京に戻ってからも末摘花のことはすっかり忘れられ、年が改まった春にやっと源氏は末摘花の屋敷を訪れるのである。今も変わらず源氏のことを荒れ果てた屋敷で待っていた末摘花に心を打たれ、末摘花を引き取ったというのが『蓬生』の主な物語だ。


「この巻の源氏は末摘花の外見ではなく、内面に惹かれているでしょう。そういうところはとても魅力的だと思うのですよ」


 泉姫は巻物を開きながら少しの間うっとりとした後、ため息を吐いた。


「とはいえ、そういう人物は現れないのでしょうが」

「そう悲嘆することもありませんよ。きっと素敵な殿方が現れますよ」


 そう女房が答えた瞬間、「失礼します」と別の若い女房が入ってくる。


 若い女房は泉姫より少し年は上。学もそれなりにある。そして容姿もいい。年相応の艶めかしさがある。


 にも関わらず通ってくる殿方がいつも私ばかりなのが申し訳ないことです。


 泉姫は皮肉めいた笑みを消して、若い女房に顔を向ける。


「子供達がまた物語を聞きたいと来ていますよ」

「そうですか。通してください」

「かしこまりました」


 女房は踵を返し泉姫の部屋から出ていく。しばらくするとドタドタと複数の足音が聞こえ、御簾の前で止まった。


「お話の続き聞きに来たよー」

「早く聞かせて、聞かせて」


 子供たちがワイワイとはしゃいでいる中、女房が「すみません。やはりいつものように言うことを聞いてはくれなくて」と謝った。


「別にいいのですよ。さて、それでは続きを話しましょうか」


 子供は容姿に捕らわれないので相手をしていて疲れることがなく、いい気分になれます。


 年老いた女房が巻物をクルクルとほどき、ある部分を指さしながら泉姫に渡す。続きはここから、という気遣いであった。


 泉姫はその部分に一度目をやってから口を開いた。

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