第22話 束の間

「お父様が……」

 そういわれても、大した驚きはなかった。目を伏せるだけのいとを見て、厳彦は驚いたように顔を上げた。

「その表情、まさか知っていたのか?」

「しっていたわけじゃないわ。ただ、可能性の話だわ」

 そうあってほしくなかった、と言いかけて口をつぐんだ。父は降ってわいた幸運の使い道を間違えただけだ。

「ならば、お前は宮中に戻ってはいけない」

「なんで!」

 すっと立ち上がり、出ていこうとする厳彦を引き留めた。視線をそらし、厳彦は目を閉じた。

「ここにいればお前は死ぬことはない」

「それって……」

「今、都中で女御様を騙った下手人を探し回っている。お前がいかに変装しようと、隠れていようと、掴まるのが目に見えている」

「だからって、のうのうと生きて居ろって……? 呪いはどうなるのよ」

「……それどころの話ではない」

「それどころじゃないって……?」


「宮中の中枢の各地で呪いが噴き出ている。今女御様をすくったところで、止まることなどない。明陽殿様は俺が救ってみせる。だから、お前はもう関わるな」

 かかわるな、それを言われたのは二度目だ。

「また、勝手なことを!!」

「勝手なことではない! お前は女御様などではないだろう! 関わりのないものが、入り込んでいい場所ではなくなったのだ!」

「そんなこと……!」


 女御様をすくえなかったら、綾衣はどう思うだろう。姉を失ったと、主を失ったと後悔し続けるだろう。

「確かに私は部外者よ! でも、家族を守りたいと思ってもいいでしょう! お父様はきっと騙されているんだわ! それに、綾衣も心配しているに決まっているわ! 一刻でも早く戻って、守らなきゃ!」

「不可能だ。お前の役目はもう終わっている」


「柳殿、お疲れでしょう。湯殿をお使いください」

「ちょっと、ご老公! 私は今―――?」

 すとんと厳彦をつかんでいた手から力が抜けていく。ぐらりと視界が横倒しになっていき、次第に黒く染まっていった。気を失ったいとの頬を軽くなでると、厳彦は翁に目線を合わせた。


「師匠、後は頼みます」

「早う行け」

 びゅぅ、と野分のような風が一陣頬を撫でていった。

「馬鹿なことだ。お前はどうあがいてもお前なのに」

 風に混ざって聞こえてきた厳彦の声は泣きだしそうだった。


 ぴちゃん、ぴちゃんと天井からしずくが落ちてきた。気が付けばいとは汗衫姿でどこかの温泉の中に漬け込まれていた。白濁した湯からほわほわと湯気が立ち上り、石垣で囲われた湯殿を撫でていく。

「どうして……」


 湯につかっているわけはおそらく傷の手当だろう。今まで体中にまとわりついていただるさもだんだん消えていく気がした。目を閉じればまた眠りの中にいざなわれそうになる。


 ここにいれば安全だと厳彦は言っていた。翻っていえばここの外は危険だということ。厳彦は巻き込みたくないという気持ちがあふれていた。

「ううぅ」

 そうだ。はじめから彼は自分を宮中から追い出そうとしていた。手を組もうと言っていたが、それをすぐに反故にするくらい、自分をまきこもうとはしなかった。

 はじめはいやがらせからそう言っているものだと思っていた。でも、気づいてしまった。


 あの夜、自分を抱きながら泣き叫んでいた言葉が彼の本心なのだ。いとは体を倒して、湯に浮かんだ。屋敷にいたときは湯につかるなんてことは無かったから、温かい水の上に浮かぶというのは新鮮だ。


「私……そんなに、弱かったのかな」

 じわりと目が熱くなってくる。そこまで図々しかっただろうか。あの侍はおそらく、ずっと女御様を慕っていたのだ。敵対する家だろうに、それでも気持ちをとどめることができずに、見てきたのだろう。


「邪魔、だったのかな……」

 あの美しい桜の下にいるのはお前ではない、と言われてしまった。初めて出会った日から、また会えるのではないかと桜を見て過ごしていた。はじめは情報を聞き出すために、そして徐々に彼自身について知りたくなった。

 助けてくれた理由が、知りたくなった。その仮面の奥が知りたくなった。仮面の奥にあったのは深い深い悲しみだった。


 あの深いやけどにも意味があるのだろう。外見のせいではぐれ者にされていたのに、自分は彼に何と言ってしまった。

 孤立する恐ろしさを知っているはずなのに。

「あれ、なんでだろう……なんで、泣いてるのかな」

 体を丸め、頬を撫でていく塩水を乱暴にぬぐった。けれども、拭ってもぬぐってもあふれてくるそれを止めることができなかった。

「うわぁああああああああ!」


「厳彦! あの娘はまだ見つからないのか!」

 頬に強い衝撃を覚えて、厳彦は唇をなめた。さいわい、口は切れていないようだ。目の前にいる青年は激高し、厳彦を殴り飛ばしたのだ。

「知っているのだぞ! お前があの影武者を助けたことを! どこにいる!」

「……存じません、逃げました」

 頭を下げ、厳彦は平静に言い放つ。中将は扇を何度も掌に打ち付けて叫んだ。


「あの娘はいやしくも女御様を騙った罪人だぞ! おそらくあの娘が女御様に呪いをかけた張本人であるに違いない! 即刻見つけ出せ!」

「承知いたしました」

 顔をあげつつも、厳彦は表情一つ変えなかった。自分ができるのはここまでだ。大切な人は守れないかもしれない、けれど関係のない人間をこれ以上巻き込みたくない気持ちの方が勝った。


 愛馬を傷つけられおびえ、泣き叫ぶ姿に自分は何も声をかけることができなかった。あれほど図々しく、勇ましい姿を見せていたというのに、彼女の心の根底にあるのは、孤独への恐怖だった。

(あれほど脅した。師匠にも頼んだ。あの娘が現れることはないだろう)

 厳彦が立ち上がろうとした途端、年若い随身が息を切らして駆け込んできた。


「なにごとだ!」

「それが……」

 息を吸い込み、たどたどしくなりながらも雑色は叫んだ。


「黒い馬に、乗った女が。宮中を、駆け回っているとの知らせが!」

 雑色が言葉を言い終えるよりも先に、厳彦は屋敷を飛び出していた。

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