第12話 炎の記憶

 ——— 空が、燃えていた。


 息を吸い込めば、のどが、肺が、腹が燃えていくような気がした。

 じりじりと肌を焼く熱は深く深く突き刺す刃のよう。視界のすべてが赤に染まるのに時間はかからなかった。火事か、付け火か、はたまた別の要因か、そんなことを考えるにはまだ自分は幼かった。


(屋敷が……燃えている???)


 自分は、どうしていたんだっけ。

 そうだ、部屋で寝ていた。

 明日の稽古に備えて寝ていた。この炎の中だ、どうせ自分は助からないだろう。母上は逃げ切れただろうか、父上はご無事だろうか。

 指南役や他の家来は自分を見つけてくれるだろうか。自分になついている野犬は異変に気付けただろうか。


(父上、母上、みんな……)

 目を閉じたら、たくさんの人の顔が浮かんだ。

 ほかにも、ほかにもたくさん人がいたはずだ。自分にとって大切な人たちで、逃げきれているならそれでいい。


 たすけて、といえなかった。

 (口を開けば熱がのどを焼くから。)

 ここにいるよ、と手を伸ばせなかった。

 (なぜならそれを炎が包むから。)


 だんだんと視界がぼやけてきた。煙が自分を眠りにいざなうようだった。

 ふと、火の粉が桜の花びらのように見えた。

(きれいだ)

 ぼぅとそれらを眺めていくうちに、力がわいてきた。思い出に沈んでみると、あの笑顔があった。


 ——— また会えたら。


 そうだ、まだ意識を手放すには早い。思い出に還るのはまだ早いはずだ。

 よろよろと立ち上がる。真正面の引き戸を開け、ごろりと前に倒れこんだ。少しばかりの新鮮な空気と凍てつくような冬の空気が自分を立たせてくれた。


「いき、な、きゃ」

 柱を体にこすりつけるようにしてふらふらと立ち上がった。生きなきゃ、という言葉が頭の中で反響するたびに弱っていた体に火がともるようだ。

 左足を踏み出して体を前に倒す。よろけそうになった体を何とか立て直す。

「生きなきゃ」

 右足で強く床を押す。いつも遊んでいる床なのに、ひどく長くかんじた。でも、どうしてだろうか。炎への恐れよりも、歩みを止める方への恐れが勝っている。

「生きなきゃ」


「童、生きたいと申すか」

 いつからそこにいたのだろう。燃え盛り、たいまつのようになった松の木のふもとに誰かいた。声からして、壮年の男のようだった。しかし、たたずまいは若武者のようでもあった。

 誰か、と問う前に少年はうなずいた。


「生きたい、です」

「……よかろう。苦界だからこそ見えるものもあるだろうさ」

 くかい、とはなんのことだろうか。庭に降りてみて、その男の異様さに気づいた時には遅かった。赤が一瞬で黒に塗り替わる。

 飲み込まれる、と思った次の瞬間に、息苦しさはとんとなくなっていった。


 少年が消えた後には、カラスのような黒い羽が一枚落ちているだけだった。


 ——— 俗に神隠し、と人は言う。



 ここは息が詰まる。外套をかぶり、目を伏せていないと嫌なものまで見えてしまいそうで。この仮面がある分だけ幾分ましかもしれない。

(この顔をさらさないで済むなら、どんなにいいことか)

 いくつもの香が重なった空間はよどんだ空気に包まれていて、ここの住民たちの鼻の具合が心配になってくる。


「ただいま戻りました」

 館の奥深くにいる貴人に向かって一人の侍が頭を下げる。

厳彦いわひこ、明陽殿の女御様はどうだったかしら、喜んでいただけた?」

 厳彦と呼ばれた侍は跪いたままピクリとも動かない。御簾の向こうの貴人は、鳴滝殿の女御だった。

「……」

「お前はいつも黙ってしまうのね。これは命令よ、答えなさい」

 渡しているところは見ていただろうに、なぜ問うのだろうか。いつも黙っている、とは言っても必要以上話してはいけないのだから仕方ないではないか。

 自分は侍で、そちらは女御なのだから。視線をそらし、当たり障りのない言葉を選ぶ。


「よろこんでいらっしゃいました」

「そう、それならよいの。だって、あんなにも美しい水晶は見たことがないわ。喜んでもらえて何よりだわ」

 どこが、と厳彦は思ったが”それ”が見えるのは自分だけだ。声の主の声は純粋に喜んでいるそれだ。

(鳴滝殿様は気づいていらっしゃらないのが幸いだな)


「明陽殿の女御様のご容体はどうだったかい? 厳彦」

「変わりなく、臥せっていらっしゃるために、答えたのは乳兄弟の女房でしたが」

「お兄様も、気にされていたのですね」

 御簾の向こうに若い男の声が聞こえてきた。鳴滝殿の女御の兄の中将殿だった。親兄弟であれば、こうして会うこともできよう。

(あまり、好きではない男ではあるが)

「当たり前だろう。何せ、入内して間もないうえに謎の病でお倒れになったのだ。幸いにもこの局とは距離があるけれど、それでも同じ女御なのだから、心配の一つでもするさ」

「まぁ、お兄様はお優しいこと……」

「お前も妹の護衛を務めて長いだろう。時には遠駆けの一つでもしてこればいい」

 静かに厳彦は首を振った。顔を上げ、静かに声をかける。


「私は侍です。主の命なくば出歩くことなどできましょうか」

 その答えにははっと笑ったのは中将だった。ゆったりとした足取りでこちらへやってきて、御簾を上げる。濃い藍色の直衣をまとい、色白の顔立ちは整っていた。妹である女御とよく似た薄い唇に、細い眉。一見すると女人のようにも見えるその顔立ちは、都の女性たちの噂の的だ。

「つまらない男だな。まぁ、侍だからそれが普通であるのだろうな。今でも思い出す。あらしの日、お前が屋敷に入った賊を捕らえた日のことを」

「…………」


「得体のしれないものだが、褒美をやらねば右大臣の血縁としての沽券にかかわるからね。妹の護衛を命じてよかった。お前のおかげで妹はこうして入内できている」

「そんな、恐れ多いことを」

 なにが狙いだろうか。厳彦が中将の言葉を待っていると、公達の手が厳彦の肩に伸びた。力はないが、圧を感じる。

「くれぐれも、妹を守れ。命に代えてもな」

 夜のような、殿上人特有のの感情のこもっていない声だった。

「かしこまりました」

 そういうと、中将は笑って妹の方へと振り返った。


「そろそろ暮れになるだろう。私はそろそろ屋敷に戻るとしよう。あまり遅くいては帝にお叱りを受けてしまうだろう」

「そんな、お兄様もう少しいてくださいませんか? 私はまだ話足りませんわ。お菓子だってあまり召し上がっていないようですし」

「おやおや、あまり駄々をこねるのはよくありませんよ」

 そういって、中将は妹である女御の言葉を振り切って立ち去っていく。その後ろ姿からは、先ほどの圧は感じられない。通りすがる女房達に笑顔を向けている。


(命に代えても、か)

 そんなもの、とうの昔に決めている。自分の死に場所なんてものは。ここでの用事は済んだなら、立ち去ろう。そう思ったのに―――。

「厳彦、こちらへ来なさい」

 その命令は何度目か。心の中で深いため息をつき、厳彦は御簾を持ち上げて中へと入っていく。冷たい板張りを歩いていくと、すぐ先に女御がいた。

「ほかの者は?」

「下がらせたわ。だって、

 ぴくり、と厳彦の指が震えた。くすくす、甘ったるい笑い声が夕暮れの局の中で反響していく。紅を刺した赤い唇がゆったりと開かれる。

「さぁ、外して見せなさいな」

「……」

 なぜこうも、この女御はこの顔を見たがるのだろうか。頭巾を後ろに倒した厳彦は頭の後ろで結わえている仮面の紐をほどいて、その顔を女御にさらした。

「本当にいつ見ても醜いこと……。老爺の様な髪に、死人のような瞳……おまけにそのやけど……。いつ見ても面白いわ」

「…………」

「天狗にさらわれたという話も、本当に思えてくるわね。面白いわ」

 面白い、面白い。女御はそう言って笑いだした。その声はひどく甘ったるく、厳彦はただ耐えるしかなかった。自分がここにいる理由は、ただ一つ。


 ——— そうだ。ここにいれば、あの人を守れる。


 たとえ自分のことを忘れていたとしても、あの笑顔だけは守り通す。


 なにが起ころうと。

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