第3話 悲劇のおとずれ


 朝起きた時、綱昭はすでにいなかった。


 スーツがなくなっているからいつもより早く仕事に出たようだ。彼らしいあてつけに藍華はリビングでひとり立ったまま細い溜息を吐いた。こういう、わざとらしい拒否の仕方にも散々傷つけられてきた。


 家族だというならば、嫌な事があってもちゃんと向き合って話すべきではないだろうかと思う。

 藍華にとっての家族のかたちと、綱昭にとっての家族のかたちもどうもかみ合っていないように感じる。


「私達、何のために一緒にいるの……」


 朝食を食べる気になれなくて、けれどぼんやりしてしまう頭をはっきりさせたくて仕方なく珈琲を淹れて飲んだ。

 空腹にブラック珈琲はかなりきつかったが、おかげで思考が仕事モードに切り替わっていく。


 触れ合いもない、思いやりもない、共同生活をしているだけの関係なら、べつに夫婦でなくともよいのではないだろうかと考えてしまう頭をぶんと一振りし、藍華は出勤前の家事を始めた。


 抱いてくれない夫の下着を洗うことに虚しさを感じつつ、彼女は無心で身体を動かした。



「―――泉さーん! 三番に柏木商事の方からお電話です!」


「わかりました」


 後輩社員の声に藍華が返事して受話器を取ると、すぐさま聞きなれた低音が聞こえた。


「お疲れ……昨日は悪かった」


 藍華は声の主に気付いてぱっと目を見開いた。まさか綱昭からかかってくるとは思っていなかったのだ。


「わざわざ会社にかけてきたの?」


「仕事中に堂々と話せるのなんてこれしかないだろう。一応取引相手なんだから」


 バツが悪そうに綱昭が言う。


 彼の務める柏木商事と藍華の務める会社は元々取引先という間柄なのだ。

 そもそも二人が出会ったきっかけも綱昭が社に訪れた際、お茶出しを藍華がしたのがきっかけだった。


 お昼のランチを外で取っていた時にたまたま再会し、話をしたのがなれそめだ。付き合いたての頃はたまに会社にかけてくることもあったが、最近は無かったので正直驚いていた。


 声の調子からして、流石の彼も昨夜と今日の朝の事を悪いと思っていてくれたらしい。


「いいの。私こそごめんなさい」


 少しだけ気持ちが和らいで、藍華は素直に綱昭に謝った。酷い事をされたのはこちらだが、こういう態度をとられるとどうしても憎めない。綱昭に愛想を尽かして別れたいと言えないのは彼のこの性格のせいだ。


 悪い人ではないから……見切りをつけたくても、つけられない。


「今夜どこか食事にでも行くか?」


「うーん。私ちょっと残業になりそうなの。待たせるの悪いから、またでいいわ。ありがとう」


「そうか。……帰りは何時くらいになりそうなんだ?」


 珍しく帰宅時間を聞いてくるのだなと少し不思議に思いつつ、藍華は大体の時間を綱昭に教えた。


「たぶん九時半は過ぎると思う。先に寝てていいから」


「わかった。無理するなよ」


「うん。ありがとう」


 気遣ってくれたことに嬉しさを感じながら、藍華は通話を切った。勝手に口元が緩んでくる自分は、やはりまだ彼が好きなのだ。そう思いながら、背筋を伸ばしてパソコンの画面を見れば、液晶に薄っすら映った笑顔の藍華がいた。


 しかし少しだけ浮上していた気持ちも、昼休憩の時にスマホに入った着信によって急降下してしまった。


 藍華は社員食堂の片隅、窓際の席に座っていた。昼食はちょうど食べ終わったばかりで、一緒だった後輩社員の女性はメイク直しに時間をかけたいと言って先に戻っていった。


 スマホを見れば表示には『母』とあまり出たくない名前が書いてある。確かに今日の仕事中に何度かかかってきていたようだった。


 どれも藍華は仕事中で、十二時を過ぎなければスマホには出れないとわかっているだろうに、それでもかけていたらしい。

 藍華は溜息を吐きながら鳴り続けるスマホを操作し耳に通話部を当てた。


「お母さん?」


「ああもう、やっと出たわね! いつ電話しても出てくれないんだからっ」


 けたたましい声に、思わず少しスマホを離す。母の声が頭に響き過ぎて痛いくらいだった。


「仕事中なんだから仕方ないでしょう。それで、どうしたの」


 いたって普通に答えたつもりだったが、母はそれが気にくわなかったのが「まあ!」と大げさな非難の声を上げていた。


「相変わらず可愛げのない子ねぇ。あんたがそんなだから心配なんじゃないの。綱昭さんとは仲良くやってるんでしょうね? 早く孫の顔を見せて欲しいのよこっちは。仕事なんてやめて専業主婦になったらどう? すぐ出来るかもしれないわよ」


 昼休憩に一番効きたくなかった話をされて、藍華の気分が著しく落ち込んだ。母は昔からあけすけで遠慮がなかったが、これはデリカシーが無さすぎると思う。藍華は休むはずの時間が苦行になってしまったと内心嘆きながら、片手でこめかみを抑えて息を吐いた。


「……そういうのは自然にまかせてるの。孫ならお兄ちゃんの子がいるじゃない。会社なんだから切るよ」


 藍華には一人兄がいる。昔はグレて面倒ばかりかけてくれた兄だが、早々に結婚してこの間三人目の子供が生まれた。

 孫なら既に三人いるのだから、藍華を責めるのはお門違いだと思う。


「だって息子の子は嫁の子でもあるんだもの……っと、ああまって! あのねぇ、そろそろお父さん、足が駄目になりそうなのよ。施設も問い合わせてるんだけど、どこもいっぱいらしくて……ちょっと高いところならすぐに入れるらしいんだけど、藍華も少しどうにかならない?」


「いくらくらいなの」


 聞いてみれば、結構な金額だった。おいそれとは了承しづらい額だ。兄はどうしているのだろうか。一応家を継いだのは兄ということになっている。実家からは離れて暮らしている藍華と違って兄は実家のすぐ近くに家を建てて暮らしていた。その際に家の頭金も土地代も父に出してもらっており、父母の面倒は自分達が看ると言っていたはずだ。


「お兄ちゃんはどうしてるの」


「豊(ゆたか)はねぇ、ほら、三人目がこの前生まれたでしょ? だから余裕ないみたいで……藍華のとこはまだいないじゃない。だから相談してみろって言われたのよぉ」


「なにそれ……」


 話が違う、という言葉を飲み込んで、藍華は兄達が今どうしているのか聞いた。元々父母のどちらかが施設等に入る場合は藍華も援助するつもりではいたが、ここまで大きな金額を言われるとは思っていなかった。母曰く、入居金は兄が出すが、その後の月々の支払いは藍華にと言っているらしい。寝耳に水だ。


「そうねぇ、あ、そういえばこの間ファミリーカーっていうの? 大きな車買ってたわよ。病院の送迎がしやすいからって。まあ、お金はお母さん達が出したんだけどね」


「またお兄ちゃんとこにお金出したの? この前も奥さんの由美さんの車買ったばかりじゃない」


 母の話を聞いて驚いた。確か二カ月前くらいに兄の奥さんの車代を母達が持つ形で購入したばかりだ。だというのにまた別のを買ったのかと呆れてものが言えない。


「だって先々面倒看てもらうんだもの、このくらいはしないとねぇ……」


「だからってお母さん達だって残しておかないと困るでしょう」


「大丈夫よ。豊が看てくれるって言ってるんだから」


 能天気な母の返事に藍華は心の底から溜息を吐きたくなった。どうも兄夫婦は母達にうまいこと言って金を引き出し、施設に入れた後は藍華に支払いをさせるつもりのようだ。これは一度話し合わなくてはならないなと思いつつ、藍華は母に念のため釘を刺す。


「あんまりこういうこと言いたくないけど、お母さん達だって多少は置いとかないと好きな時に好きな物買えないでしょう。お兄ちゃんに管理してもらうにしたって毎回もらうの心苦しいだろうし」


「まあ、そうだわね」


「出すなとは言わないけど、あんまりやってるとお兄ちゃんたちの為にもならないと思うよ。ただでさえちょっとお金使い荒いところあるんだから。お母さんだってそれは知ってるでしょう」


 藍華は小姑みたいに小言を言うのは性に合わないと思いつつ、それでも言わないではいられなくてやんわりと母に注意を促した。確実にまた兄のお嫁さんから嫌味を言われそうだが、度が過ぎているようなので致し方ない。


 なんだかやけに心が疲れた藍華は、母との通話を切った後、今日の残業を予定より早めに切り上げることにした。


 それが、悲劇に繋がるとは思いもしないで。


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