ヴァルガリアスに口づけを。

豆渓ありさ

第1話 精霊盈ちる国の辺境

「口づけを」


 男は言った。


 エスティアは、は、と、息を呑んだ。


「我が力を求めるならば、口づけを」


 こちらの反応を確かめたあと、男は繰り返した。その眼差まなざしは、できるか、と、エスティアをこころみるようでもあり、また、できないのか、と、こちらをあざけるようでもあった。


「さあ、どうした? ……村を救いたいのではないのか、清純なる巫女みこよ」


 エスティアを見る相手の眸が、すぅ、と、すがめられた。


 エスティアは、きゅ、と、眉根を寄せ、きつくてのひらを握り込んだ。



***



 代々女王をいただいてきたリサルグ女王国。その教会の祭壇には、万物のぬしとされる精霊せいれい王がまつられ、日々、絶えることなく彼への讃歌がうたわれていた。



 あかときの光とともに、万物に精霊いのちはやどる。

 陰翳いんえいとばりは下りて、万象ばんしょうは闇に包まる。

 王よ、万物のぬしたる御方よ。

 一切はあなたの恩寵、一切はあなたへの供物。

 わたくしは感謝し、祈り、このくちびるはあなたへの讃美をうたうために開かれる。

 親愛なるあなたよ。

 どうか、わたくしのうたうこのうたが、あたなに聞き届けられんことを。



 リサルグ女王国の建国神話は、建国の経緯いきさつを、次のように伝える。


 かつてこの地に混沌こんとんが満ちたとき、ひとりのきよらなる乙女が立ち上がった。乙女は精霊王を助力を得、彼をかたわらに、其処そこ此処ここにあふれる混沌を次々と平らげっていった。そして、大地に秩序をもたらした。


 最後に乙女の前に立ちふさがったのは、この世で最も邪悪なる存在、精霊王とついなす者である魔王であった。聖乙女は死力を尽くして戦い、ようやく魔王をも、この地から退しりぞけた。


 乙女に追いやられた混沌は、彼女と魔王との決戦ののち、世界の端、魔界へと逃れていったのだという。


 聖乙女は女王となり、ここに、精霊たちの加護を享受して栄えるリサルグ女王国が誕生した。


 そのリサルグ女王国の辺境には、いまなお、人の世界と魔界とを分ける世界の境界線が深々と大地に刻まれている。そこは、闇の満ちた底知れない峡谷だった。


 そして、その傍らにそびえ立つ高い塔には、精霊王の眷属がるのだと伝わっている。



***



「あら、エスティア。もう日暮れだっていうのに、これから出掛けるのかい? あぶないよ」


 教会の門を出たところでエスティアに声をかけてきたのは、教会の近所に住む婦人だった。どうやら畑仕事を終えて、これから家に帰るところのようだ。ひそめ眉にこちらへの心配をありありと浮かべる相手に、エスティアは、にこ、と、穏やかに笑ってみせた。


「ご心配ありがとうございます、ミアさん。でも、大丈夫です。塔まで行って帰ってくるだけですから」


 エスティアにとっては、通い慣れた道程みちのりだった。


「そうかい? でも、気をつけていくんだよ。――それにしても、遅くなってもお祈りを欠かさないなんて、ほんとにエスティアは熱心だよねえ。あんたが生涯純潔を旨とする巫女みこになるって聞いたときは、村の若いしゅはみなしてがっかりしたもんだし、あたしも、ちょっと勿体もったいないんじゃないかって思ったけど……むしろ、ぴったりだったのかねえ。たいしたもんだよ」


 ミアはそう言って、感心したように目を細める。


「そんな、とんでもないです。わたしなんかまだまだで……!」


 エスティアは恥じらう表情をして、顔の前に掲げた両手を軽く左右に振ってみせた。


「わたしたちが魔物に襲われることなく毎日を平穏に暮らせるのも、塔にいらっしゃる〈力ある御方〉のおかげですから。せめて、日々無事に過ごせることへの感謝の祈りを捧げるくらいは、教会に仕える巫女みことして、あたりまえの務めです」


 エスティアは、いまや茜からマゼンタ、濃紺へと、実に神秘的でうつくしいグラデーションをえがく薄暮の空を振り仰いだ。


 夜のとばりが下りてくるまであとわずかかと思われる東の空の方角

には、黒々とした影のごとくに見えている、高い高い建物がある。林を抜ける細い道の先、木々を遙かに越える高さの古びた塔が、ひっそりとそびえているのだった。


 春の陽射しのように淡いストロベリーブロンドを耳にかけながら、森閑の泉のように澄んだフォレストグリーンのひとみすがめ、エスティアは遠く塔を仰ぎ見る。そのまま、そ、と、口許くちもとに笑みをいた。


「〈力ある御方〉か……あんた、それを本当に信じてるのかい? さすがに敬虔で信仰深い巫女だけあるねえ。」


 ミア婦人は、エスティアの様子に、苦笑するような表情を見せて言った。


「まあ、ここはこんな村だからさ……塔の話も、まるでいわわれがないってわけじゃないんだろうけど」


 ふう、と、嘆息し、軽くかぶりを振る。その様子からは、彼女がエスティアと同じようには塔にいると伝わる〈力ある御方〉の存在を信じていないことがうかがわれた。


 それがわかっても、エスティアは特に気を悪くするでもない。誰が信じなくとも、自分の信仰には影響はないのだと、ちゃんとわかっていた。


 凜と背筋を伸ばして、真っ直ぐにミアを見る。そしてまた、春に花のつぼみほころぶときのように、ふんわりと微笑した。


「わたしは信じてます」


 きっぱりと言う。


「だって、ミアさん、事実、この村は魔物に襲われたりはしないんですもの」


「まあ、それはそうねえ……でも、そんなのは、ただの偶然かもしれないじゃあないかい?」


「ふふ、そうかもしれませんね。でも、わたしは、誰かがわたしたちを見守っていて、加護してくださってるんだって思うほうが、好きなんです。なんだか心強いじゃないですか」


 そう言ってにっこりと笑うエスティアを前に、婦人は苦笑した。


「あんたが信じるっていうんなら、別にいいんだけどね。それで何の損をするわけでもないんだし。――でもねえ、エスティア、世の中には悪いやつだっているんだよ。あんたみたいに何でもかんでも信じちゃうと、ひどい目に遭うことだってあるんだから……」


「ご心配ありがとうございます。気をつけます」


「ほんとにわかってんのかねえ、このは」


「だって、何かを疑うのって、どこまでいってもきりがないじゃないですか。それで心が疲れてしまうのだったら、信じるほうがずっと楽かなって……わたし、実は、とっても怠け者なんですよ」


 ふふ、と、エスティアが笑うと、まったくこのはとでも言いたげに、ミアは嘆息してかぶりを振った。


 ちょうどそこへ、今度はひとりの、壮年の男が姿を見せる。


「ああ、エスティア、これから塔かい? 今日はずいぶんと遅いじゃないか」


 ミアの後ろから声をかけてきたのは、エスティアたちの暮らす村で自警団の団長を担うダニエルだった。やはり、暮れかかった時間に村から多少距離のあるところへ出掛けようとしているエスティアを、心配そうに見る。


「ダニエルさん、こんばんは。今日はちょっと薬草をせんじるのに夢中になってしまって……」


 エスティアは、まり悪く、ちら、と、笑って見せた。


「誰かに言って、送らせようかい?」


「ありがとうございます、お気持ちだけいただきますね。自警団の皆さんもお忙しいでしょうし、ひとりで大丈夫ですから」


「けどなあ、若い娘さんなんだし」


「平気ですよ。だって、わたしがこれから行く塔にいらっしゃる〈力ある御方〉は、尊い精霊王の眷属だって話でしょう? そんな方のいらっしゃるところで、誰も悪いことをしたりしないわ」


「うーん、そうかねぇ。おまえさんは、ちょっと人を信じすぎじゃねぇかな」


「ねえ、そうよね! もっと言っておやりよ、ダニエル。このったら、危なっかしいんだから」


 口を極めて言うミアも、それからダニエルも、自分のことを心から案じてくれていることが、エスティアにはわかる。ちいさな村だが、それだけに、誰もがみな家族のような存在だった。


(あたたかい場所……やっぱりわたし、フィニスが大好きだわ)


 エスティアは、生まれたときから暮らす我が村を思い、自然と笑顔になった。


「ほんとうに平気です。いつもの道ですし、これでも巫女ですから、いちおう、魔法だってすこしは使えます。今日はすこし遅くなったから、さっと行って、さっと帰ってくるつもりですし」


「わかった。とにかく、気をつけるんだぞ」


「ほんとうにね!」


「はい、ありがとうございます。じゃあ、行ってきますね、ミアさん、ダニエルさん」


 エスティアはふたりに向かってぺこりと頭を下げると、林の細道へと歩を進めた。エスティアの向かう先には、残照の中、黒い影となってたたずむ高い塔がある。


 エスティアが暮らすのは、リサルグ女王国の辺境にある、フィニスという村だった。幼い頃、疫病はやりやまいで父母をともに亡くし、それ以来、教会の世話になっている。十五歳で巫女見習いから正式な巫女になって、今年で二年目だった。


 リサルグ女王国の教会でまつられているのは、精霊王アルグスだ。フィニス村の教会には、王都から派遣されてきた老神官と、エスティアの他には、老年の巫女がひとり所属している。父母のようなふたりとともに、エスティアは、日々、精霊王と、その眷属とされる精霊たちに祈りを捧げる日々を送っていた。


 精霊王アルグス。


 そして、精霊たち。


 この世にある万象は、精霊が宿ることで息づき、力を得る。火も水も、風も土も、光も闇も、すべてに精霊はる。人間が魔法を使うことができるのも、精霊たちが力を貸してくれるからだった。


 その精霊のおさは、すなわち、万物のあるじともいうべき存在である。


 また、精霊王アルグスは、リサルグ女王国の建国神話における英雄でもあった。リサルグの初代女王、建国の聖乙女クリスタの傍らに常にあって、彼女がこの地を平定するのを助けたのが彼だと伝わっているのだ。


 この世の主であり、建国の立役者でもあるアルグス。


 彼はさらに、魔から人々を守護してくれるものとしても、信仰を集めていた。


 精霊王だけが、唯一、魔を滅することができたとされる――……否、ほんとうは、魔王と呼ばれる存在もまた、圧倒的な力を以てそれを灰燼かいじんに帰すことができたのだとは言うが。


(魔王は、建国の聖乙女によって、ずっと昔に滅ぼされてしまったのだものね)


 エスティアは、暮れかかって、ますます深くなっている木闇こやみに視線をやりつつ、そんなことを思った。林の中の道は、すでに、ずいぶんと暗い。


 さぁん、と、わずかに温い風が吹いて、エスティアのピンクブロンドを揺らした。生成色のブラウスの襟を無意識に直すようにしたエスティアは、そのまま、塔への道を急いだ。

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