第3話 はらはらと

 夕日を背中に受けて絵梨は歩いていた。駅から数分、片道1車線の2級国道はやや上り坂になりカーブしてゆく。右手に見えていた港は木々に遮られ、合間に瓦屋根が覗く。前方からはらはらとピンクの花びらが飛んで来て、何か言いたげに絵梨の肩や髪にまとわりついた。


 桜まみれだ…。桜姫をお祝いしてくれているのかな。それとも激励? それにしても今年は散るのが早いな…。お花も少ないし、こっちが激励してあげたくなるよ。絵梨は真新しい制服の腕にくっついた花びらに微笑みかけた。


 ちょっと残念にも思う。だってまだ入学2日目だよ。折角の新入生気分をもうちょっと彩ってくれていいじゃない。かつての桜姫・皆藤 絵梨(かいとう えり)は、姫カットの高校生に成長していて、前日に入学式を終えたばかりだった。受験が終わった明るいのんびり気分をもう少し味わっていたい。明日はいきなりテストだって言うし、絵梨は残念な気持ちを引きずって歩き続ける。カーブの終わりに店舗があった。


『喫茶さくら』


 絵梨の家である。もはや珍しくなった純喫茶。一本だけ残った大きな桜の木がそのまま店名になり、相変わらず花びらをまき散らしている。扉を開けるとカランコロンとドアベルが鳴った。開店以来の昭和テイストである。


「お帰りー」


 テーブルを拭いていた白シャツに黒ズボンの父・皆藤 滋(かいとう しげる)が顔を上げる。


「ただいま」


 少々口を尖らせて卓の間を通り抜ける。


「友だち、出来たかぁ?」

「うん、まぁ」


 ちらっと父を振り返って、絵梨は突き当りの厨房脇の扉のドアノブに手を掛けた。


「絵梨、お父さん、1日中、『絵梨は大丈夫か?』だったのよ。一人で電車に乗れるのか、とかさ」


 厨房の奥から仕込み中の母・皆藤 美鈴(かいとう みすず)が言った。


「当たり前でしょ、子どもじゃないんだから」

「子どもだけどな」


 すかさず父が突っ込む。


「全然、面白くない」


 絵梨がぶすっと呟いた瞬間、その父が叫び声を上げた。


「うわ! やっちまった!」


 絵梨は父を振り返り、厨房からカウンター越しに母の美鈴も首を伸ばした。


「テーブルの天板が割れちまった…。大して力入れてないんだけどな」


 家族がそのテーブルに集まる。確かに4人用テーブルの天板に大きく亀裂が入り、少し凹んでいるように見える。


「無事なテーブルの方が少ないわね。裏から補強しても危ないんじゃない? お客さんが肘付いたりしたら」

「確かにな」

「テーブル、入れ替える?」

「だったらさ、先にフライヤーじゃないか。火事出すと大変だし」

「っていうか、製氷機のスイッチが入ったらブレーカー飛ぶのも何とかしないと電子レンジが途中で止まっちゃうのよ。途中からやり直すって結構面倒」

「でもテーブル減ると売上に直結だよな」


 昭和の資産が次々と限界を迎えているようだ。両親が真剣な表情で話し合うのを目の前にすると絵梨の心も痛む。県立高校とは言え授業料はバカにならないし、これから教材とか行事の費用とか、そうそう、タブレットも要るって今日のガイダンスで言ってた。結構するよね、タブレット。

それに…、絵梨は一番厨房寄りのテーブルに目をやった。そうなると、この子も入れ替えになるのかな。


 厨房に最も近いそのテーブル、通称『1卓』は殆ど客用に使われない。テーブルそのものも他の業務用テーブルとは異なり、桜材の無垢板に脚をつけただけの物で、予備の調味料や紙ナプキン立てなど備品が置いてある。

 

 なんでも以前は窓の外の桜の木の隣に、もう一本、桜の木があったらしい。しかしその木は、この店の建築中に倒れ、その太い幹から切り出した板で『1卓』を作ったと言うことだった。それなら他のテーブルも同じように作れば、『喫茶さくら』に似合ったのにと絵梨は思ったのだが、残念ながらそれほど板は取れないらしい。それにそんな手間をかけるより、そのまま売っぱらった方が得だったと、店を建てた大工さんが言ったそうだ。だから『1卓』は独りぼっち。


 絵梨は小学生の頃からこの『1卓』で宿題をして来た。元々は親の目も届きやすいし、ホールサービスに立つにも都合が良いからそうなったのだが、自分の部屋も学習机も持っていない絵梨にとって、『1卓』こそが自分の部屋であり、盟友であった。窓の外では相変わらずはらはら桜の花びらが舞っている。絵梨には花びらたちが手を振って1卓に別れを告げているように見えた。私が守ってあげなきゃ。絵梨はその天板をそっと撫でた。

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