第二章 流血の果てに 1

 冬とはいえ人口の密集した帝国の内部は暖かい。寒いから余計人がひとところに集まりたがるし、寒いから余計に騒いで暖まろうとする。アナスタシアは珍しくその日、街へ出ることにした。宮殿にいても退屈で、冬ということもあって謁見が少なく、暇をもてあましていたのだ。買物というわけではなかったが、街に出るだけでもちょっとした発見があったり、見せ物や出店を見たりして楽しいものなのだ。

 にぎやかな路地を曲がったときのことだ。アナスタシアは荷物を脇において座り込む老婦人を見つけた。

「いがかいたした?」

 思わず聞いてしまった。老婦人は顔をあげてアナスタシアを見、

「ええちょっと張り切って買い物をしすぎてしまいましてねえ。人込みで疲れてしまったのよ」

 これはアナスタシアも放ってはおけない。

「お宅はどちらです? お荷物お持ちしましょう」

 と言って軽々両手いっぱいの荷物を持ち上げた。

「あら」

 老婦人は少々驚いたようだ。鎧は着ていないがいつなにがあるかわからないので、アナスタシアはいつも帯剣している。軍人がここまでやさしくするものだとは、老婦人は思わなかったのだろう。アナスタシアも両手に荷物を抱えながら、やれやれと思っていた。(隊の人間が見たらなんと思うことか)

 アナスタシアは老婦人と話しながら歩いた。

「すみませんねえ。今日は息子が帰ってくるもので」

「ご子息は軍人で?」

「ええ。戦争の季節もなくなってほっとしていたら、宮殿の警備当番の統率をしなくてはならないとかで……久しぶりに手料理を食べさせたいと思いましたの」

「左様か。優しい母御でご子息は幸せですね」

「まあ……」

 老婦人は声をたてて笑った。明るくて面白いひとだった。

「さあ着きました。ここが家ですわ。本当にご迷惑をおかけして」

「いえ」

 アナスタシアが答えたとき、奥から人影が近付いてきた。

「母さん帰ったのかい? 遅いから心配したぞ」

 おや、アナスタシアは密かに眉を上げた。人影は近付いて母を見、それから長身のアナスタシアに気が付いて顔面蒼白になって慌てて敬礼をした。

「なんだ息子とはお前のことか」

「かかかか閣下! どうして……」

「……まあ……なりゆきだ」

「まあ閣下ですって?」

 男は氷竜隊の少佐をしている者だった。老婦人はひとりアナスタシアをまじまじと見た。

「じゃああなたは将軍なのですね」

「母さん失礼だろ」

 少佐は慌てて老婦人を止めようとした。しかしさすがは年の功、老婦人はちっともめげない。

「まあどうりで立派な方だと思いましたよ。すごい美人ですしねえ」

「母さん!」

「息子がこんな方の下で働いているなんてこちらも嬉しいかぎりですわ」

「母さん! 閣下に対して……・」

 アナスタシアも声を殺してくつくつと笑っていたが、

「よい少佐。もとはといえばお前のための外出だそうだ。よい母御ではないか」

「申し訳ありません、母が失礼なことばかり」

「なに……今日は非番だ。将軍でもなんでもない。私はこれで失礼するが、少佐、ちゃんと母御を慈しめ」

「はっ……」

 アナスタシアは老婦人に会釈して帰っていった。少佐はそれを見送っていたが、

「まあまあ素敵な方ねえ……」

 と感嘆の声を上げる老母に対して、天を仰ぎながら言った。

「母さんなんてことしてくれたんだよ。将軍に荷物持ちなんてさせて。おまけにこんなところまで連れてきてしまって失礼だろ!」

「なに言ってんだい好意ってものはねえ、素直に受け取るもんだよ。そんなこと気にするくらいなら最初からあんなに親切にしてくれるもんかい」

「う……それは……」

「はあー・・それにしてもきれいなひとだったねえ。あたしゃ見とれたよ」

「母さん……息子の上官の顔くらい覚えといてくれよ」

「ふん。お前が遠征にいくときなんかに誰が表に出るかい。あーでもあの将軍が凱旋するなら遠征の見送りもすてたもんじゃないねえ」

「……」

 少佐、汗顔の思いである。

「それにしても立派な方だったよ。長くてちょっとウェーブした髪が地面に映って、たなびくところは獅子のようだったよ」

「獅子……」

 少佐は呟いた。アナスタシアと獅子では、あまりピンとこないようだ。氷姫と呼ばれ、戦場での冷淡な表情が定評の女将軍だ。

「ああそうさね。将軍だってのにあんなに優しいなんてあたしゃ軍を見なおしたよ」

「……」

 老母の声に少佐は先程までそこにいたアナスタシアの苦笑いを思い出していた。

 無表情で色が白くて。氷姫のあだ名はここから来たものだけれど……元々それだけではなくて、戦場での厳しい一面が女らしからぬイメージで、それで知らないうちに誰もがあんな風に呼ぶようになった。冷淡で……でも冷淡と冷酷は違う。冷淡というのはあっさりとしていて熱心でないことだ。冷酷は無慈悲で思いやりのないこと。アナスタシアを見ていると冷淡という言葉は浮かんでも冷酷という文字は浮かばない。優しい、という言葉のイメージとはかけはなれたひとだが、だからといって優しくないわけではない。いつも淡々としているからだろうか。

 少佐は氷姫の苦笑いをもう一度思い出して、それから、あの方を氷姫にしているのは、あの方を氷姫と呼ぶ我々なのではないだろうかと、ちらりと思った。



 帝国では、春は戦、冬は政という例えのとおり、冬は政治の最盛期、一番多忙で活発な時期になる。あまり外に出ない分、画策に熱心になるからだろうか。

 皇帝は一年で季節を問わず忙しいが、将軍たちは退屈をもてあます。その欝屈したエネルギーが戦場で発揮されるのだ。

 仕方がないから十二人の将軍たちは、もっぱら兵士の訓練や隊列の組み方、己れの剣の鍛練などに時間を費やしている。アナスタシアもこの日、霞暁隊のヌスパドのいる第一個師団司令室に顔を出していた。遊びにいっていたといってもいい。

 五人の大佐と大将、それからヌスパドと共にアナスタシアが談笑していたときだ。

「ヌスパド将軍」

 誰かが、司令室にやってきた。第四個師団玉紗隊大将・ジェイン・キャットナーだ。

「おお猫どのか。いかがいたした」

「閣下にはご機嫌もうるわしく……」

「猫どのも毛並みが良ろしゅうてなによりだ」

 キャットナー大将は顔をひくつかせた。ヌスパドにとっては親しみを込めた冗談なのだが、この堅物のインテリには通じないらしい。将軍が将軍なら、大将も大将である。もっともカイルザートはこれくらいの冗談は自分も言うほうだから、キャットナー大将はかなりの堅物だろう。

「いかがいたした」

「は……我が隊の将軍がただ今臥せっておられまして、閣下に代わりに訓練をして頂きたいと」

「なにカイルザート殿が病気?」

 アナスタシアとヌスパドは顔を見合わせた。

「そういえばなにやら部屋の前で女官が慌ただしかったような……」

「ふむ。それで私に代わりを?」

「もしご自隊のご都合がついておられましたのなら、と・・」

「この通り今終わったところだ。断る理由もなし、参りましょう」

 キャットナー大将は一礼して言った。

「それでは玉紗隊の訓練場にて……・」

 パタンと扉が閉まり、廊下の向こうに足音が消えていくと、

「やれやれ。では行くとしようか」

 ヌスパドはため息混じりで言った。

「ですが珍しいですね。カイルザート将軍がご病気とは」

 大佐の一人が言うと、大将のゼバ・ティエトもうなづく。

「いつもは健康そのものに見えるが……」

「でも病気というのは本当でしょう。氷をもった女官が入っていくのを見ました」

 アナスタシアも神妙な顔で言う。宮殿内の宿舎は階級ごとに階が分かれているので、彼女にもそれくらいはわかったようだ。

「風邪ですかねえ」

「ひくのは馬鹿だけではないということだ」

 いっせいに笑い声がはじけた。カイルザート将軍は自分の知識をいつもひけらかしているように見られるからだ。

「パド殿。では私はこれで。あまり引き止めてしまうと、猫が怒りましょうから」

「ふふふ。そうだな。ひっかかれてはかなわん」

 アナスタシアとヌスパドは立ち上がり、大将と大佐は立ち上がって二人を見送った。

「玉紗隊の黄色で目がくらまないかのう」

「大丈夫でしょう。あんまり刺激的な色はないようですし」

 二人は途中まで語りながらそんなことを話し合った。第四個師団玉紗隊の象徴色は黄色なのだ。それからヌスパドと別れると、アナスタシアはどうしようかと思いながら部屋に向かっていた。街には出たくないし、庭に行く気にもなれないし、カイルザートの見舞いなどとんでもない。こういうとき最近は皇后と話をするのも楽しいのだが、まさか自分から押し掛けるわけにもいかない。ふう、とアナスタシアがため息をついたときだ。

「将軍」

 幼い声が届いた。アナスタシアが振り向くと、そこには皇太子・ゼランディア・アルゼオンがいた。皇帝と皇后の一粒種で、今年で六歳だ。

「殿下」

 アナスタシアは笑顔になってそこにひざまづいた。敬意の意味もあるが、こうして視線を同じくするためだ。

「何かご用でしょうか?」

「将軍。将軍はなぜそんなに強い?」

「---------は?」

 皇太子はもじもじとしてアナスタシアを見た。一つには彼女の美しさに照れているともいえる。

「将軍の武勇伝を聞いた。戦場で敵の将軍と槍で戦って勝ったと」

「はい」

 アナスタシアは笑顔になってこたえた。

「どうしたらそんなに強くなれる? 将軍はそれに……女なのに」

「殿下……」

 アナスタシアは皇太子の手をとった。

「人の強さには差というものがあります。才能といってもよいでしょう。私はたまたまそれに恵まれていただけです。ですが殿下、私などが張り合っても遥かに及ばないほど強い方がおられます」

「---------それは?」

「お父上……皇帝陛下です」

「父上……」

「はい。素晴らしいお方です。殿下はその皇帝陛下のご令息、きっとお強い方になるでしょう」

 皇太子はしばらく考えていた。六歳とはいえ宮殿の教育を受けている。おまけに父親はヴィルヘルム皇帝だ。

「では将軍」

「はい」

「私が成長したあかつきには、私にも仕えてくれるか?」

「殿下……」

 アナスタシアは驚いて皇太子を見た。こんなことを言われるとは、さすがのアナスタシアも予想していなかった。

「そなたのような者がいると心強い。---------だめだろうか」

「いいえ殿下」

 アナスタシアはほっと笑顔になった。

「光栄です。私がそれまで永らえていたのなら……必ず」

「---------約束だ」

「約束です」

 アナスタシアは微笑んだ。

 少年は、条件つきで約束してもらったことには、気づかなかった。



 長い冬を終え、帝国に春と同時に戦争の季節がやってきた。一年の内で軍隊が一番活気

づく季節である。アナスタシアはその春最初の戦を第六個師団緑咲隊のフリックセン・ディーヴェンドと終え、二週間の休暇ののち北西のタシャネットへと単隊で赴いた。

 この頃になると彼ら軍人は肉体も精神も戦へとすべて集中させる。そのため、戦から帰ってきたらすぐに休み、予め次の出陣の日を認識しておくと、身体がそれにきちんと反応して、充分な休息をとろうとする。二週間もあれば心身ともに充実して戦場に赴けるのは無論のことであった。こんな過密なスケジュールをこなせるからこそ、帝国の世界最強という名を轟かせるに到っているのだろう。

「タシャネットか・・」

「はい」

「あまりいい場所ではない」

「はい」

 アナスタシアは騎乗のままイヴァンを一瞥した。

「それしか言えんか」

「閣下のご機嫌が悪いようなので」

「……もうよい」

 アナスタシアは前方へ目を馳せた。タシャネットは低地で、丘から見るとそこだけ一段くりぬいたように低くなっている場所だ。それにかなり軍隊も強いと聞いた。本当は五千人では少々不安な数なのだが、他の隊も手一杯でとうてい援軍は望めそうにもなかった。「よくあることだ」

 アナスタシアは呟いて馬をとめた。いくつかの作戦候補が、もう彼女の頭に渦巻いている。アナスタシアはその日そこでキャンプをし、何頭か連れてきた竜と竜師にも相談し、作戦を執り行なった。騎竜で今晩偵察を行い、明晩、竜に複数の弓兵を乗せ火矢で敵陣を攻める。その混乱に乗じて本隊が攻め込み、一気に落とすというやり方だ。

「正攻法ではないがあまり時間をかけてもいられない。それに作戦勝ちでないとこの戦はかなりまずいぞ」

 魔導師たちの配置を決めて、アナスタシアはそう部下たちに言った。

 作戦の第一段階は成功した。

 混乱した敵は取るものも取りあえず陣地から出てきた。しかしアナスタシアの言う通り、一筋縄ではいなかった。敵はすぐに体勢を建て直し、タシャネット会戦の火蓋が切って落とされた!

「閣下! 右前方より騎馬隊! 魔導師を同乗させています!」

「弓兵は三人一組でこれを迎え討て! 後方より大砲で援護射撃! 魔導隊は騎竜でこれを討て!」

「将軍! 左から弓兵五百を引きつれて歩兵七百、騎馬隊千!」

「魔導隊は!」

「おりません!」

「よし……。イヴァン!」

「はっ」

「レーヴェとティネッタと共について参れ。今何人手元にいる」

「三千です」

「千五百は私と共に来い。ホーランド!」

「はっ」

「ここが本陣。我々はここからこう左に迂回しつつ敵を迎撃する。お前は残る兵士を引きつれてこっちの……ほら、この谷の近くまで行って、上空からの竜師の合図で、一気に敵の本陣後ろから攻めろ」

「承知いたしました」

「よし。氷竜隊! めげるな。栄えある帝国の兵士だ。必ず帝国に帰ると心に誓って剣を交えよ!」

 アナスタシアは乱暴に騎乗した。戦場の大混乱で暴れていた馬はさらに驚いて暴れた。 構わず、アナスタシアはそのまま剣を抜いて走った。後ろからは大将イヴァン、大佐レーヴェとティネッタが兵士と共についていった。

 激しい戦いだった。アナスタシアも腕に負傷して、それでも馬から落ちもせず戦った。 三人の部下は彼女をよく守りながら健闘していた。耳鳴りがし、怒鳴り声が辺りに響き渡り、目の前は赤い。飛び散る血飛沫、倒れる敵兵、赤い空。

 気がつくとすべて終わっていた。氷竜隊は辛くも勝つことができたのだ。こんなことは珍しいことではなかった。アナスタシアは帝国のヴィルヘルム皇帝に鳩を送って戦勝の旨を報告し、タシャネット国王に服従を誓わせてから、帝国の博士たちと入れ替えにタシャネットを去った。

 その間一週間、氷竜隊はこの国で休養した。タシャネット国王はアナスタシアの作戦と戦い方が気に入ったようで、別段反抗もしなかったし、属国下条件とアナスタシアから聞いた皇帝の魅力を理解すると、喜んで属国になると言ってきた。

「やれやれ……さすがに疲れた。骨のある兵士のいる国だ」

「閣下。ここから南……シスレン台地で光香隊と藍蓮隊が戦闘を行なっているようですが、いかがいたします」

「いつからだ」

「一週間前だそうで……」

「……」

 アナスタシアは長椅子に寝転がったまま空を見て考えていた。

「---------鳩を送り打診してみよ。それから判断を下す」

「はっ」

 アナスタシアはイヴァンを去らせて、また窓から空を見た。えらく青い空だった。アナスタシアはそのまま、知らない内に眠っていた。

 結局、光香隊と藍蓮隊からの援軍要請はなかった。しかしこちらに竜がいるというのを聞いて、それだけはお借りしたいという旨が伝えられてきた。

「シド殿とラシェル殿のことだ。あまり心配はいらないだろうが……すぐさま竜と竜師を現地に送ってさしあげろ」

「かしこまりました」

「それからイヴァン」

「は……」

「……」

 アナスタシアはしばらく沈黙した。

「このシスレン会戦……長引くかもしれない」

「---------」

「その時は、どんなことがあっても援軍に駆け付けなければならないな」

「は……」

「やれやれ博士たちの到着まであと三日……それまでなにもないといいが……」

 三日後、博士たちが到着して、入れ替えにアナスタシアの氷竜隊は帰還するためタシャネットを去った。

 行軍二日目、辺りは霧がひどく、氷竜隊はひどい足止めをくらった。

「このまま合流するか」

 アナスタシアは霧をみながらやれやれと呟いた。

「まだ続いているようですね」

「光香隊と藍蓮隊は無事でしょうか」

「わからぬ。しかしまだそれらしい報せは耳にしないゆえ、どうにもならないが……」 その時、ひどい耳鳴りが氷竜隊を襲った。

「!」

「イヴァン、注意しろ」

 アナスタシアは身構えた。

 なんだ……何かの気配……

「---------」

 霧が一層濃くなった。もう隣の大佐の姿も見えない。まるで世界には自分しかいないような感覚だ。

「! ---------」

 と、突然、霧の向こうから手が現われて、アナスタシアに警戒の声も発する間を与えないまま、その拳は彼女の腹に強く食い込んだ。

(しまっ……)

「閣下?」

 どこかでイヴァンの案ずる声が聞こえてきた。アナスタシアは腕に馬から引きずりおろされるのを感じた。

「閣下!」

 遠くに、イヴァンの叫び声が響いた。

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