1-08

「改めてよろしく、アイン・ウィルグ。わたしは宮廷薬師であり、薬師協会の現最高責任者、ディビアン・ムウラだ」

 そう言ってしわだらけの手をアインへと差し出す。つん、と清涼感のある匂いが鼻の奥をつく。短く揃えられた爪や白い服からは、拭いきれぬ清潔感が漂っている。

 アインはペリドットの瞳を震わせながら、恐る恐るその手を握った。祖父と同じで大きな、何十年という歴史を刻んだ手が、白くて小さな手を握り返す。

 憧れの宮廷薬師と握手をし、アインの頬が言い知れぬ嬉しさに赤く染まる。

 その様子を険しい表情で見つめていたアグレイに、ディビアンは再び問うた。

「……君は、知っていたのではないかね?」

「……」

「ここにいる君の孫、アインは、わたしが怪我したところに適切な処置を施してくれた。およそ何も知らない子供ではありえない知識も披露してくれた。君は知っていたのではないかね?彼が、薬師になることを猛反対する祖父から隠れながら、ひそかに薬の勉強をしていたことを」

 びくん、とアインが身体を震わせた。みるみるうちに顔が真っ青になり、ディビアンに握られた手から血の気が引いていく。怯えた顔でアグレイを見ると……

 アグレイは表情を変えず、ディビアンを睨んでいた。その顔には僅かな諦めも浮かんでいる。

 アグレイは知っていたのだ。アインが遊んでくると言いながら山に行った先で、こっそり薬の勉強をしていたことを。アインの母でありアグレイの娘であるミラがかつて、ラボとして使用していた石小屋に通い詰めていたことを。

 完全に隠せていたつもりだったアインは、その思い上がりに恥ずかしくなり、俯いてしまった。

 ディビアンが再びアインに向き直り、淡々とした声で告げる。

「アイン・ウィルグ。わたしは君を学校に通わせる為にここに来た。君に薬師になって欲しいと思っている。だが君の意見も尊重しよう。君は、どうしたい?」

 思ってもいない言葉だった。

 いつか反対されてでも王都へ行き、薬師の道を進もうと決めていたのに。ずっとぶ厚い雲がかかった空から、一陣の光が差したように感じた。

 これはチャンスだ。なぜ自分の家に薬師協会のトップがいるのかは知らないが、こんな機会は滅多にない。

 アインはぐっと拳に力を込め、唇を引き結んで顔を上げた。

「……じーちゃん、やっぱりオレは薬師になりたい」

 はっきりと、しかし少し震えた声で言う。

 その場にいる全員の視線がアインに集まり、じいっと次の言葉を待っている。出方を伺うような雰囲気に呑まれつつも、アインはアグレイから目を離さなかった。

「じーちゃんがオレのことを心配して言ってくれてるのはわかってる。きっとじーちゃんにはツラい思いをした過去があって、それをオレに味わせない為に言ってるんだって、わかる」

 胸に手を当てる。精一杯アインなりに言葉を選んで、少しでも自分の気持ちを正しく伝えようとする。

「でもオレはどうしても、じーちゃんや母さんが見た景色を見てみたいんだ。王都で薬師になって、たくさんの人の笑顔が見たい。新種の薬草を育てて、今の医療をもっと発展させたい。いつかメラジアス中を……いや、本の中でしか知らない大陸の国々を、海を越えて、森を越えて、自分のこの目で見てみたい」

 アインの瞳に輝きが増す。その脳裏には、まだ見ぬ世界中の美しき光景が、次から次へと流れてはアインの憧れを確固たるものにした。

 北の大地に君臨する氷層、そのさらに頭上で流れる光の帯。

 見たこともないあでやかな翼を持つ大きな鳥獣に、人の身長を遥かに超えた緑色の植物たち。

 自分たちとはまったく違う暮らしをする、遠い異国の宗教民族。

 この街を出たことのないアインには、本当にあるのかどうかすら分からない、物語の中だけの世界。それはアインの夢や野望でもあり、願いだった。

「じーちゃんのことも、ヒリナのことも、八百屋のおっちゃんも、大通りに住む奥さんも、そこのチビたちも。それから世界中で苦しむ人々を全員救えるような薬師になりたいんだ。その為にオレはもっと勉強したい。……頼むよじーちゃん。オレのこと、信じてよ!」

 アインは身振り手振りも加え、熱量を持って話す。ディビアンが、ほう、と顎を撫でながら感心した声を出した。ナターシャはアインの背後で、なぜか自信満々にうんうんと頷いた。

 アグレイは目をつむる。アインの熱弁を黙って聴きながら、話終わるのをじっと待っていた。

 やがて興奮でやや息の上がったアインが口を閉じると、アグレイはゆっくりとまぶたを開いた。

 ひんやりと冷たい瞳だった。

 アインによく似た黄緑色の瞳だが、アインが持ち合わせる好奇心に満ちた瑞々しさはアグレイにはなく、ただ腹の奥底で燃える怒りや悲しみがくすぶり、黒い煙が覆い尽くしているのだった。

 髭だらけの口元から低音が響く。

「……ミラは優秀な薬師だった。宮廷薬師の中でも指折りの実力を持ち、誰よりも研究に貪欲で、彼女を慕うものは大勢居た」

 何度も聞かされた母親の昔話だ。とても聡明で、清廉で、自慢の娘だったとアグレイは言った。

 アグレイの顔が悔しげに歪む。

「だがミラは同じ薬師に殺されたのだ。追い詰められ、騙され、奪い取られた。我が子をその腕に抱くことも叶わずに、ミラはこの世を去ったのだ」

 世界そのものにうらみを込めた、呪いの言葉を吐き続ける。それは目線の先にいるアインではなく、そのかたわらに寄り添うディビアンでもなく、そのさらに奥の薬師協会という組織そのものに対しての怒りだと、アインは正しく理解した。

 そしてそれは、アインの心の隅で息を潜めながら埋もれていた、小さな地雷を踏み抜いたのだった。

「決して許しはせん。これはわしのせめてもの反逆だ。わしの目がまだ光っている限り、大切な孫を憎き協会の手になど渡すものか。アインをミラの二の舞には絶対にさせんぞ!」

「……じーちゃんは、いつもそうだ」

 アインは唇を噛み締める。

 強く握った拳がぶるぶると震え、爪が柔らかい手のひらに食い込んだ。鈍い痛みが広がる。

「ミラ、ミラって……じーちゃんはいつも母さんの事ばっかりなんだ」

 アグレイがはっと息を飲む。

 アインは祖父を上目遣いで睨んだ。よろり、とアグレイが老人らしい動きでアインへと近寄ると、アインは一歩後ろに下がった。

「オレのことを想ってるふりをして、じーちゃんはずっと母さんのことしか考えてねーんだ!」

「アイン、それは違う。わしは本当にお前さんのことを想って……」

「違わないじゃんか!」

「アイン……」

 アグレイが皺だらけの手を伸ばす。アインはそれを避けるように、また一歩下がった。

「いつもそうだ。じーちゃんはいつも、そうやって母さんを理由に逃げて、オレの本質を見ようとしないんだ」

「アイン」

「母さんじゃない、じーちゃんでもない。オレはアインだよ!『アイン・ウィルグ』だよ!もっとちゃんとオレを見てよ!!」

 バンッ!と勢いよく玄関扉を開き、アインは走り去ってしまう。すっかり夜もけたフィオールの街は黒い絵の具で塗りつぶしたかのように暗く、アインの姿はあっという間に見えなくなってしまった。

「アイン!待ちなさい!」

 アグレイが暗がりへ向かって叫ぶも、軽い足音は驚くほど早く闇の中に溶けてしまい、やがて何も聞こえなくなってしまった。

「ナターシャ!」

 アグレイが、唖然として突っ立っているナターシャに向かって声をかける。ナターシャは、はっと我に返り、慌てて開け放たれた扉からアインを追いかけようとした。

 その直後、背後でどさりと何かが倒れる音と、苦しげに呻く声が聞こえてきた。

 ナターシャは玄関を飛び出たところで立ち止まり振り返ると、アグレイが胸を抑えて膝から崩れ落ちている。杖がばたんと倒れ、ころころと床を転がった。

「アグレイ!」

 ナターシャとディビアンが同時にアグレイの元へ駆け寄る。

 アグレイの顔は青白くなり、額に無数の汗が浮かんでいる。胸元で強く握った手により、白衣にも無数のシワが放射線状にできていた。不規則に浅い息をし、とても苦しそうだ。

「ナターシャ……いいから、早くアインを……」

「でも」

「ぐぅ……あ、アイン……」

「アグレイ!」

 アグレイは、ぜえはあと数度大きく激しい呼吸をした後、ふっ……と糸が切れたようにその場で倒れ伏した。

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