閑話:いなくなってほしくない人

 ふと目を開けると、布団に寝転んでいた。部屋の中は電気がついていないため真っ暗だ。カーテンの隙間から日が差し込んでいないところを見ると、もう夜なのだろう。

 伊織の付き添いのために救急車に乗り込む祖父を見送ったあと、倒れてしまった。腕なら何とか動かせると掛け布団を少し持ち上げると、千早がいつも着ているパジャマになっている。


「おばあちゃんかな……」

「そうだ、おうながすべて綺麗にしてくれた」


 真横から聞こえる声に顔だけを動かすと、いろはが寝転んでこちらを見ていた。


「おはよう、千早」

「おはようございます……あの、何でそこに?」

「わからない。なんとなく、千早の傍にいたくなった」


 千早は小さく笑った。傍と言ってもいろいろあるだろうに、わざわざ一緒に寝転ばなくても。

 と、それは口に出すことなく胸の内で終わり、自然と涙が溢れてくる。

 自分でもわからない。これは何を感じて泣いているのか。ただ、いろはの顔を見てどこか安堵したのは確かだ。

 それだけでこんなにも溢れてくるものなのだろうか。腕を持ち上げる気力もなく、ただただ涙を流し続ける。そんな千早の涙を、いろはが指で拭った。


「ふむ、あまり拭えないな」

「……また漫画から何か学習したんですか」


 いろはらしいと笑うも、涙は止まらない。一体、この涙は何なのか。


「すばらしい書物だぞ。私の知らないことばかりだ。……そういえば、そこに薄い紙があったな」


 薄い紙。おそらくティッシュのことだろう。いろはが起き上がり、ティッシュの箱を取りに行こうとする。

 ただそれだけ。それだけのはずなのに、思わず彼の服の裾を引っ張ってしまった。

 自分でもこの行動に驚いた。気怠い腕を上げて涙を拭うことはしなかったのに、何故いろはを引き留めたのか。いろはも目を丸くし、口を少し開けてぽかんとしている。

 カチ、カチと時計の秒針の音が聞こえる。ただ、いろははティッシュの箱を取りに行くだけ。この手を離さなければ。わかっているのに、なかなか行動に移せない。たった少しの距離ですら、行ってほしくないと思う。

 ふ、といろはが笑みを浮かべ、再び布団へ潜り込んだ。自身の袖を引っ張り、千早の涙を拭う。


「心細いのだな。そんな顔をしていた」

「……今、すごいしっくりきたかも。そうですね、そうなんだと思います」


 両手に残る、人に刃を食い込ませる感触。伊織が血を吐く音。荒い息。何もかもが、鮮明に思い出せる。


「伊織は、何とかなりそうだと連絡があった」

「……っ、よ、よかった」

「心の臓につけた傷が、光によって塞がれていたらしい」


 手術を始める頃には消えたそうだが、心臓についているはずの傷は消えていたそうだ。念のため隈無く見てくれたものの、何も問題はなく、胸についた傷の縫合のみで済んだとのこと。

 救うという想いを込めて斬ったが、そんなこともできるのか。いろはもこれには驚いていた。


「千早の想いが伊織を救ったのだろうな。あとは意識が戻ることを祈るばかりだ」

「でも、角は……?」

「鬼の力が完全に消え失せていないのかもしれない。だが、すべての元凶である八岐大蛇を退治できれば……希望はあるかもしれない。伊織も、伊吹も」


 救える可能性がある。では、あとはもうやるしかない。二人を救うために。


「うん、綺麗になった。さあ、千早。疲れを癒やすために眠ったほうがいい」


 涙を拭ってくれていた手で頭を撫でられ、眠りに誘われそうになる。

 けれど、まだ話は終わっていないのだ。千早はすう、と息を吸い、気怠い腕を上げていろはの頬に触れた。

 突然のことに驚いたのか、珍しくいろはがびくりと身体を震わせる。


「いろはさん、怪我は?」

「……千早に渡すはずの力で治癒した。すまない、今日は夕食を大盛りにしてもらうつもりだ」


 それで力を回復させ、明日キスをするつもりなのだろう。千早は口元に弧を描き、ゆるゆると枕の上で首を横に振った。綺麗にしてくれたばかりの顔に、再び涙が伝う。


「ごめんなさい。わたしが、動かなかったから。いろはさん、死んじゃうかと思って、だから……その力を、わたしなんかのためじゃなくて、自分のために使ってくれて、よかった」

「これくらいでは死ぬことはないが……千早は、私が死ぬことが嫌なのか?」

「嫌です。目が覚めてから、いろはさんの顔を見て、ホッとしたんです」


 ああ、いてくれたと。

 以前、伊織から訊かれたことを思い出す。いろはは、どんな人なのかと。

 きっと、これは千早にとっていろははどんな人なのかという意味なのだろう。今ようやく理解した。


 ──安心感があって、一緒にいると落ち着いて。……いなくなってほしくない人。


 千早は身体を動かし、いろはの胸元に顔を埋める。

 いろはは少し戸惑ってはいたものの、優しく頭を撫でてくれた。それが心地良く、そっと目を瞑った。

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