3 だんまり

 フランボワーズタルトをキッチンから運んできたフローレンはテオドールの口へと運んだ。切り分けた断面、赤い果実がタルト生地を斑に赤く染めている。

「お口に合うかしら?」

「あぁ、美味しいよ」

 甘過ぎず、テオドールの好みに合っていた。嬉しいと言ったフローレンはテオドールに顔を寄せる。フローレンの柔らかな唇がテオドールの額にキスを落とし、鼻先をかすめて、最後は二人の舌を絡めりあう。吐息は熱を帯びている。ヴェロニカがいないと、フローレンは積極的にテオドールに甘えてくる。ヴェロニカよりも幼いような喜びの示し方をするけれど、大人の色香が共存してみえて、それがテオドールの心をくすぐった。

「私、貴方をずっと待っていた気がする」

 ヴェロニカの催眠術の効果だとしても、テオドールは上機嫌だ。

「僕もさ。きっと君を待っていたんだ」

 口から溢れる言葉に嘘はない。女を口説くとき、手を近づけたら水を出す自動水栓のように自然と言葉が流れ出ているとヴェロニカは表現した。湧き出る愛の泉だとテオドールが訂正すると、垂れ流していないじゃないと言い合いになったことがある。たしかに、出会いからこれまでヴェロニカに甘い言葉など吐いたことはない。フローレンの唾液を飲み込みながら、そのヴェロニカの帰りが遅すぎることにテオドール自身も疑問は感じていた。しかし、そこまで遠くにはいないという確信があった。ちょっとした家出をしても、テオドールを放置して外に出ようとするとヴェロニカは契約の効果で死にかける。よく梟になって急いで戻ってきていた。どうにもならないものだと理解したあとは、どの距離まで離れられるかを命懸けで確認したりもした。そんなに離れたいのかと大笑いしたら冷たい泉に1分ほど沈められたことを思い出す。嫌なことを思い出したときは別の良い記憶で上書きするにかぎる。心配したって身体のない自分はどうにもできないし、急いで戻ってこないということはヴェロニカはもう死んでいるか……根本的に死にたくないようなので、屋敷にいるということだろう。安心してフローレンと愛し合えばいい。たまにはヴェロニカも気の利いたことをする。


「お風呂の用意をしてくるわ」

 鼻唄でも歌いだしそうな様子で、フローレンはバスルームへと向かった。

 美味しい食事に、美しい女。このままヴェロニカに操らせて、旅に出るのもありかもしれないと考えていたテオドールのうなじを何かが這った。フローレンの睫毛とは違う、ぞわりとした感覚がある。小さな何かが首をかさこそと歩いて、あろうことか耳の奥へと入った。

「叫ばないでね」

ヒェと声をあげる前にヴェロニカの声がする。

「ロニィ、何をしてる?」

 知りたくはないが聞かないとすっきりしない。もしかしたら、偶然に虫が耳に入り、同時にヴェロニカがテレパシーの能力を会得した。長く生きているのだからそういうことはあるかもしれない。

「声は小さくね。ここで血を吸われたら、とてもつらいわよ」

 頭が痛くなる疑念はあえなく確定した。

「お前は何に変身してるんだ?」

 声を潜めて問いただすと、わざとちょんちょんと耳の奥を小さなとげのような何かが触れている。なにかはわからない。どの部位かを考えたくもなかった。

「ヌカカよ」

 聞き覚えのない単語に首を捻りたいが、テオドールは首を動かさない。本当に首を振ったら、バランスを崩してしまうから気持ちだけで堪えている。数千年の時間を首だけで過ごしているので、もう慣れたものだった。できる動きよりしないほうがいい動きのほうがうんと多い。裏返った亀が戻れないように、転がった生首も元の位置には戻らない。

「正しくいうなら、イソヌカカね」

 聞いたこともない生物名を丁寧に言い直されても、それがどんな生き物かテオドールには見当がつかない。

「体長1ミリほどで、ハエ目ヌカカ科に属し」

「そうじゃない」

「極小の羽虫で、山の釣り人を群れで襲うの。血を吸われるととてつもなく痒くて痛いらしいわ」

 ハエだか蚊だかの小さな黒くて小さな虫を想像してから、テオドールに言えることはひとつだけだった。

「出ていけ」

「私だってこんなところで耳の毛の深さを知りたくはなかったよ」

 また手だと思われる何かが耳の中に触れている。今の状況も最悪だが、ヴェロニカがこうなっているということは良くないことが起きてることはわかった。

「どうしたっていうんだ?」

「残念ながら、ヨハンソン夫人は私の催眠術にかかってないのよ」

 テオドールの存在を受け入れる人間は二種類だ。頭がおかしい者か、目が見えていない者か。その二択だと前者だろう。テオドールは大きなため息を吐く。

「耳を震わせないで。噛むわよ?」

「というか、お前がそこから話しかける意味はあるのか」

「嫌がらせ8割、ヨハンソン夫人にばれたくないが2割くらいね」

 またわざと耳にちょんちょんと触れ、こそばゆさと恐怖感にテオドールはぐっと唇を噛んだ。ただの罰ゲームではないか。掻けない耳が痒いだけでも拷問だというのに。

「でも近くで見ていてわかったわ。テオとヨハンソン夫人はお似合いよ」

「……そりゃ、どうも」

 下手なことを言うと噛まれるので、冷静にもなる。嫌な汗が首筋を伝っている。

「良い機会だと思う。私の契約を解いて、テオ。ヨハンソン夫人と旅をしたいんでしょう?」

 テオドールは息を飲む。

「ねぇ、簡単なことよ」

 テオドールは口をぐっと閉じた。フローレンが部屋に戻ってきたからだ。フローレンからフリージアの香りがする。またアロマを焚いてくれたのだろう。惹かれる理由と、遠ざけたい過去の残り香をヨハンソン夫人は纏っている。

「私はそばにいるから、Yesの返事を待ってるわね」

 テオドールの耳からぷんと音を立ててヴェロニカが離れていく。フローレンの見えないように飛び、器用に家具のほうへ移るのをテオドールの目は捉えていた。

「テディ、どうしたの? 深刻な顔をして……」

 フローレンがテオを持ち上げた。寒かったのかしらと的外れなことを言い、テオドールは違うと答えた。それでも、フローレンはテオドールに頬擦りした。ヴェロニカより暖かな肌の温もりは離れがたい。テオドールはごくりと唾を飲み、声を出した。

「なんてことはないよ。ところで、君からは土の匂いがする。家庭菜園でもしているのかい?」

「ええ、さっきのタルトも庭で採ったベリーよ」

「そうだと思った。せっかくなら、そこで話さないか? そろそろ、外の空気が吸いたくてね」

 自然と言葉は流れ落ちる。これは嘘の言葉だ。

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