Ⅷ.【冥王とくちづけ】

きっとハデスは今までずっと一人でこの罪の意識を抱え続けてきたのだろう。最愛の女性ひとを死なせた罪を忘れることはできず、ひたすら胸に刻み、その罪悪感に苛まれながらも、苦しみ耐えてきたのだ。きっとそうすることが、レウケーに対するせめてもの償いになると信じて…。


ならばコレーがするべき事はもう決まっている。


コレーは優しくハデスを抱き締めた。突然のことにハデスはビクリと体を震わせたあと、戸惑った表情のまま再びおずおずとコレーの瞳を見つめる。


「コレー…?」


コレーはハデスの胸中をおもんぱかり、その痛みに深く共感して、大きな瞳に涙をたたえながらもハデスの目を見て告げた。


「…レウケーさんのこと、ずっと一人で背負ってきたのね…。すごく辛かったでしょう、苦しかったでしょう?貴方の目を見れば分かるわ。貴方にとって彼女がどれほど大きな存在だったのかが。きっとかけがえのない、大切な女性ひとだったのね…。」


コレーはハデスの体に回した手を一度ほどくと、彼の骨ばった大きな手を取り、真っ直ぐにハデスの目を見つめて言った。


「でもね…これからはその罪を、貴方のレウケーさんへの思いを、私にも背負わせてほしいの。貴方の心を形作る思い出ものは、私もちゃんと大切にするわ。レウケーさんのことだけじゃない、貴方が背負う全てのことを私にも分けて頂戴。私は頼りない小娘だけれど…貴方の力になりたいの。ハデスお…いいえ、ハデス様は、私にとって大切な男性ひとだから…」


「コレー…」


ハデスはおずおずとコレーの小さくか弱い、しかし強い力の込められたその手を包み込むように優しく、握り返した。


見つめ合う二人の視線がぶつかり、交錯する。ハデスの夜空を閉じ込めたような黒い瞳とコレーの萌ゆる草木の若々しさを切り取ったような緑の瞳、互いの双眸に吸い込まれるように自然と顔が近付いていく。磁石のように吸い寄せられ、惹かれあい、瞳を伏せ、どちらからとでもなくゆっくりと唇を重ねた。


そんな二人の頭上で白ポプラがざわざわと音を立てて風に揺れ、繁った葉の隙間から射し込む光がそっと優しく二人を照らした。それはまるで二人を祝福するかのように。そして、そこで止まっていた時間が長い時を経て動き出したかのように…。


*****


-その頃、地上にはひとりの母親の悲痛な叫び声が響き渡っていた。


「コレーぇぇえっ!!どこなの、コレーぇぇぇっ!!」


声の主はデメテル。“豊穣”の女神にしてコレーの母親である彼女は、ここ数日飲まず食わずで世界中を歩き回り、懸命に愛娘を捜し回っていたが、いまだに手掛かり一つ得ることができなかった。


いやそもそも、これだけ捜して手掛かり一つ見つけられないのがまずおかしい。そしてどういうわけか娘が姿を消してからというもの他の神々が妙によそよそしいのもずっと気になっていた。


(「まさか、コレーの件は神の誰かが関わっているの…?だとしたら、一体誰が?まさかアポロンかヘルメスが……いいえ、だとしたらとっくに誰かが密告してくれているはずだわ…」)


コレーが姿を消した直後、デメテルは真っ先に最近コレーの周りをうろちょろしていたアポロンとヘルメスを疑ったが、二人のことは徹底的にマークしていたことと、もし仮に二人のうちのどちらかが犯人であるならばコレーを数日間も隠す必要がないことからとっくに容疑者から外していた。


ましてや、二人の神は父親によく似て非常に飽きっぽいのだ。あの神々の王にして天性の浮気者、そして自分の弟であり、コレーの父親でもあるゼウスに。考えたくはないが、もしアポロンかヘルメスのどちらかがコレーをその毒牙にかけたのだとしたら、娘は今頃弄ばれたことにショックを受け、絶望に打ちひしがれていることだろう。かつてゼウスにそうされ、コレーを身籠った自分のように。


(「ということは…コレーを隠しているのはアポロンやヘルメスよりも上位にいる神…?オリュンポス十二神に名を連ねる二人よりも上位となるとそれは……」)


それはつまり、自分の姉弟神の誰かが一枚噛んでいる可能性が高いということだ。姉弟の誰かが、もしくはその複数が組んでコレーを隠し、その居場所を漏らさぬよう他の神々に箝口令を敷いているとなれば、これだけ必死に捜し回っても手掛かりすら見つからない事に納得がいく。


では、それをしているのは誰なのか…と考え始め、一つ確かな答えに辿り着いた時、デメテルに背後から声をかける者がいた。


「あのー…デメテル様…」


デメテルが振り向くとそこには、一柱の女神が立っていた。オリュンポス十二神ではない。夜の帳が下りたかのような暗い群青色の髪に月に連なる女神の特徴である黄金の瞳、“新月”の女神・ヘカテーである。


"月と狩猟”の女神アルテミス、そして“月そのものの化身”たるセレネとは「月を象徴する」という点で共通しているが、女神らしい華やかさを持つふたりとは違い、ヘカテーは良く言えば主張がなく控えめで、悪く言えば目立たず地味な印象の女神だった。


しかしながらそんな彼女の勤勉さに好感を持つ神々は多く、あのゼウスですら彼女を情欲の矛先ではなく、ひとりの女神として認めて尊重し、彼女には海・地上・天上のどこへでも自由に行き、人間たちに寄り添い、交流することを許している。まぁ、単に人間たちのお目付け役という厄介事を押し付けられただけかもしれないが…。


だが、そんな彼女との出会いはデメテルの途方もない旅に思わぬ終止符を打つことになった。


「あの…、実はお耳に入れておきたいことがあって。コレー様の行方のことなんですけど…」


*****


「確かなの…?」


ヘカテーから事のあらましを聞いたデメテルはその信じられない内容にそう聞き返さずにはいられなかった。


ヘカテーから聞いた話の概要はこうだ。


数日前、ヘカテーが人間たちと交流するために各地を放浪している途中、『大地の裂け目』の近くで偶然にもコレーの姿を見かけた。挨拶しようとしたが、コレーには連れ合いがおり、それが冥府の王ハデスであったという。そこでヘカテーがふたりに声を掛けることを躊躇っていると、目の前でハデスがコレーを外套の下に隠し、そのまま黒い馬車に乗せて連れ去ってしまったというのだ。


「ハデスが…?よりによって姉弟の中で一番真面目なハデスが?…普通なら…とても信じられる事ではないけれど…」


しかしながらそれを証言するのはそのハデスをも上回る勤勉さで知られるヘカテーである。しかも、本当にハデスがコレーを冥界に連れ去ったというのなら、他の神々が口を閉ざす理由も納得がいく。


「…本当なら、もっと早くにお伝えしたかったのですけれど…デメテル様がどちらにいらっしゃるか分からず、他の神々に話しても気のせいだろうとはぐらかされるばかり。そのためこうしてご報告するのが遅くなってしまいました。申し訳ありません…」


「いいのよ、ヘカテー。充分だわ。…でも、ハデスの行いを糾弾するためには他にも証言者が必要ね…」


「それでは、ヘリオス様のところに行かれるのはどうでしょう?太陽の化身であるヘリオス様なら天上から常に地上の全てをご覧になっているので、ハデス様がコレー様をかどわかしたこともご存知かもしれません」


かくしてふたりはヘリオスを尋ねることとなった。

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