第二章 雨の勇者の眠る場所
第8話 雨の勇者の眠る場所
薄暗い地下の、ごみ捨て場と監獄を合わせたような狭い檻の隅の隅。一人の幼い少年がうずくまって転がっていた。
鼻を突く汚物の臭いが、ホコリやカビ、腐った肉や乾いた血や体液の臭いと混ざって重く床に滞留している。
この臭いが気にならなくなって、どれだけ経つだろう。考えるのもバカらしくなり、少年は目蓋を閉じた。
長く伸び放題になった紺色の髪は垢や汚れで固くなり、ぼろ切れの様な服は薄く黒くなってすりきれている。
骨と皮だけになった体は汚れが固く張り付き、その上をウジがせっせとよじ登る。
普段なら昼夜問わず、やかましい男達の声が聞こえる上の階も、数日前からしんと静まり返っていた。
もう何日も、ろくにものを口に入れていない。喉もからからに渇いている。息をするのすら
不意に、ドサリと大きな音を立てて天井が抜け落ちた。
生まれた穴から、外の光が射し込み、ホコリや忙しなく飛び回るハエ達を照らし出す。
まともに光を見たのは、どれだけ振りだろう。
綺麗だった。
外の世界は、こんなに綺麗なものに常に包まれているのかと思うと、とたんに何故だか泣きたくなった。
一度で良いから、外の世界を見てみたかった。外の世界を、歩いてみたかった。
胸の奥が苦しい。きゅっと固く閉じた目蓋からは、涙すらにじまない。
この汚物溜まりで死んでいくのが、あまりにも情けなかった。
意識が遠くなっていく。
足先から力が徐々に抜けていく。
痩せこけた頬に、ウジがよじ登ってきた。
そのとき、突然上から大きな音がした。扉を蹴破ったような、力強い音だ。
汚物に集るハエ達が一斉にやかましく飛び回る。
上の階から、女の声が響いてきた。
「ここが奴らのアジトか……酷い臭い。食後に来るとこじゃなかったね」
その声に、返事を返す男の声も聞こえてきた。まだ若い、少年の声だ。
「だから僕言ったのに。今日は飯抜きで行こって」
「だってお腹すいてたんだもん。腹が減っては冒険者は出来ぬってね。
私下見てくるから、ルイは上で探索よろしく。もし私が出てこなかったら──」
「外のリーシャさんに連絡、でしょ? 了解。もう十歳なんだから、そのぐらい分かるって」
「うん、よろしい! じゃ、頼むわ」
どたどたと、騒がしく歩く音が立つ度に天井がミシミシ悲鳴を上げてたわみ、ホコリや木屑が降り注ぐ。
音はどんどんと近づいてくる。
階段の扉を開ける音、階段を駆け足で降りてくる音、そして、
「嘘……」
そう思わず息を飲んだ、透き通るような静かな声。
日の光に照らされた栗色の髪。大きく見開かれた、宝石のような金色の瞳。張りのある綺麗な白い肌。
今まで見てきた人間とは何もかも違う、この世のものとは思えないその姿に、気づけば少年は手を伸ばしていた。
これが、アランとディアナ。二人の最初の出会いだった。
*
「お師様、起きて下さい。もう着きますよ」
ロゼにそう肩を揺すられて、アランはうたた寝から目を覚ました。
狭い箱馬車の中、隣に座るロゼがじっとアランの顔を覗き込んでいる。
「……ん? あぁ、うん。起きる」
うんうんと頷きながら、アランは目を擦って伸びをした。
なんだか、酷く懐かしい夢を見ていた気がする。よく思い出せないが、寝覚めの悪い夢でなかったのは確かだ。
(ま、懐かしい夢くらい見て当然か)
カーテンを少し開け車窓から、外の様子を覗き見る。
収穫を終えて寒々とした様子の小麦畑向こう。小さな林の奥に、立派な石造りの城壁と
領都パッペンハイム。
諸侯連邦地域最大の都市であり、ヴィルヘルムの実家。そして、アランの師でありロゼの母が眠る場所。
ついでに言うと、リーシャもそこで暮らしている。
「やっと、ここまで帰ってこられたな」
「ええ。冬の間はここでのんびり過ごしましょう」
「うん。そうだな」
ただいま、先生。そう言うには、少し早すぎるだろうか。
アランは腰に提げた小袋から
香ばしい豆の香りが、口全体に広がった。
*
パッペンハイムは交易都市だ。
大陸の南北を繋ぐ大街道の中心にあり、帝国などの中央諸国や東方諸国とは東西を流れるアルヌの大河で繋がっている。
街道と大河。二つの道のお陰で大勢の商人が町に集い、北部では見られなかった賑わいを見せている。
冬の近い今、町は冬ごもりに備えた買い出しでごった返していた。
「相変わらず凄い人ですね……」
「うん、賑やかだ。そう言えば、ロゼは聖都には行ったこと無かったな。あそこも凄いぞ」
「ここ以上ですか?」
「比にならないぐらいだ。法皇様のおわす大聖堂に行く道なんて、身動き取れないぐらいなんだからな」
ロゼは目を真ん丸に見開いた。
パッペンハイムの町がいくら賑わっているとはいえ、身動きが取れないということはない。
道を歩いていても、他の人とぶつからずにすれ違うことは出来る。だが、聖都は別だ。
全ての道は聖都に通ず。
そんな古い時代の格言も事実と思えるほどに多くの街道が市街地に流れ込み、連日連夜商人や巡礼者、観光客等が
この世の富の半分は聖都に集うと言われるのも納得できるほどに、街の全てが豪華で、賑やかだ。
「私達、これからそんなところに行くんですね」
「怖いか?」
ロゼはぶんぶんと首を振った。
「いえ、すごく楽しみです! それだけ賑やかなら、きっとご飯も美味しいでしょうし」
「あぁ、あそこの飯は本当に美味いよ。懐かしいなぁ……」
はじめて聖都に行ったのは、確か十三か四の頃だった。ディアナに連れられて行ったのだ。
あのとき食べたパスタやピザ、それにチーズを用いた料理の数々は、今でも忘れることの出来ない程に鮮明な記憶として残っている。
熱くとろけたチーズに、白パンやら羊の腸詰めやらを浸して食べるあの美味さ。片時も忘れたことはない。
もっとも、三十路を迎えた今では、流石にあのときと同じ量食べると胸焼けを起こすだろうが。
そんな話をしていると、何故だか腹が減ってきた。どうやらロゼも同じらしい。
馬車の中に二人分の腹の虫の音が鳴る。二人は目を見合わせて、笑った。
「お城に着いたら、先にご飯にしましょうか」
「それもそうだな。先生は逃げも隠れもしないし」
そう言ってから間も無く、馬車はギィと音を立てて停車する。
丁寧に御者が開けてくれた扉を、二人はゆっくりと降りていった。そのとき、
「ロゼ様ぁ~!!」
そんな上品な叫び声が、カツカツとヒールで石畳を叩く音と共に聞こえてきた。
振り返ったロゼの顔に、大きな喜びの色が宿った。
開け放たれた
ウェーブのある長い金髪を、頭の両側で竜巻の様に結い上げた姫君は、大きく両手を広げ、そのヒスイの瞳に涙を浮かべながら駆けてきた。
「クリス様!!」
導かれるように、ロゼもその姫君に向かって駆けていく。アランはそれを微笑ましげな表情を浮かべて見送った。
彼女の名はクリスティーナ。龍血公ヴィルヘルムの、実の娘だ。
そして、ロゼの無二の親友でもある。
*
クリスティーナに宮城に迎え入れられ、昼食を共にとった後、アランは一人、館の最奥部にある小さな部屋に足を踏み入れた。
大きな窓に、光を遮らない白いカーテンがつけられた純白の部屋。
女性ものの家具や小物、鏡台が随所に配置されたその部屋の中心に、巨大な天蓋つきのベッドが一つ、置かれていた。
おおよそ人間一人が眠るには大きすぎるそのベッドに歩み寄り、アランはそこで眠る女性の顔をそっと覗き込んだ。
「今戻りました、先生」
雨の勇者ディアナ。大陸全土に覇を唱えんと軍を率いて遠征を始めた魔王軍の野望を打ち砕き、世界を救った英雄。
アランの命の恩人の、十歳歳上の女騎士。
そんな彼女の眠る姿は、十年前と全く変化が見られなかった。
──
千年も昔に、古魔族の高名な術者が編み出した強力な呪い。
古代帝国を崩壊へ追いやった奇病・魂抜けの病の正体ともされている。
ディアナの意識を眠りの底に幽閉している呪いはそれと同質のものらしい、と、かつて聖都から派遣された司祭は言った。
自然に解呪した例は無く、実例の少なさから解呪術も無い。この呪いが何故今になって復活したのか、その理由さえわからない。
この呪いを解くことが出来た事例は僅かに三件。
聖女フルウィア
賢人ヘルメス
東の賢者ダモクレス
三人がそれぞれ別々の時代、場所で行った治療にのみ、解呪に成功した記録が残る。そのときに用いたのが、万能の霊薬エリキシルだ。
(先生を助け出す)
かつて、地獄と呼ぶことすら生ぬるい檻から解き放ってくれたこの人を、今度は自分が解き放つ。
それが、今アランが旅をしている理由の最たるものだ。
アランは枕元の丸椅子に腰掛けると、その白く冷たい手を握った。そして、今までの近況報告を始めた。
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