第三話

 一歩、また一歩、着実に前へと進むが、その一歩を重ねた先にあるものは、おそらく義妹の望むものではないだろう。

 彼女の言う火の手はまだ見えないが、あまりぐずぐずしているわけにもいかない。少なくとも、義妹は。


「無理だ。この出血だ、私は助からん。いいから火が回り逃げ道が塞がれる前に、お前は投降しろ。お前が生きていつか子を成せば、その子は文様を持って生まれるかもしれん。それで血は絶えない」


「あのけだものの前に身を晒すぐらいなら自ら腹を裂いて死んだ方がマシです。それに、その場合わたくしが産む子の父は誰です? 怖気の走る話です。血を分けた弟の子を産まされるなど。考えるだけで、吐き気がする」


「ナディア」


「嫌です。絶対に嫌です。次にあのような目に合えば、あのけだものの首をこの歯で裂き、この指で目を抉りわたくしは舌を噛み切ってでも死にます」


 先ほど見せた勇壮な決意とは別の、だがこちらも決して曲げることない強い意思がある。きっと、この義妹は本当にそうする。そうしようとするだろう。


「二度と、この身を好きにはさせません。とうに、あの者との道は分かたれています。くだらない期待はお捨てになってください」

「……すまない」


「お義兄さまが謝ることではありません。むしろあの時助けていただいたことを感謝しています」

「だが」

「まあ、間に合ってはおりませんでしたわね」


 本来傷付いたのは義妹の方で、王太子が傷付く道理もない。

 実の弟に無理やり組み敷かれた義妹に気付いたのは完全に事後で、それでもなお、義弟の身に巣食う悪意には気付こうとはしなかった。


「それに、あのけだものの助命を嘆願されましたわね」

「……ああ、そうだ。そのせいなんだろうな。この事態は」


「お義兄さまが声を上げずとも、他の誰かが助命のために声を上げ結局あの子は生き延びたでしょう。天使と持て囃されたあの面の皮だけは王族として褒めるべきでしょうか。全ての者を見事欺いていたあの子が、とうに人の心など失くしていたことを知っていたのはわたくしだけ。笑っていたのです。あの子はずっと、正気でした。あの時、いいえ、その後いつでもよかった。誰に止められようともこの手で殺しておくべきでした」


 そうだ。悔いている。でも、今さらどうすることもできない。


 この事態を食い止める機会があったとすれば、きっとあの時が唯一だったのに。

 まだ子どもだと侮った。幼い頃から知っているつもりになって、見せかけだけの善性を信じようとした。

 見たいものを見ようとし、信じ難いものを信じようとはしなかった。その結果が、このざまだ。


「正気を保ち笑いながら実の姉を犯すような者です。あれは人ではありません。まともな人間にこのようなことができるでしょうか」

「…………」

「あれは、国のことも民のことも考えてはいません。ただしたいからそうする、けだものです。誰に何を諭されようともわたしがこの手で殺すべきでした。殺してやれば、よかった」


 おそらく、あの義弟には、本当に大義も意義もないのだろう。そんなものすらなく、王を、父を、母や弟妹たちを殺したのだ。


 義弟が憎い。不可解なことがそれに拍車をかける。いくら憎もうとも憎み足りない。


 それでも奴の、その実の姉である義妹にまでそんなことを言わせたいとは思わない。

 可能なら、彼女には花のように、いつでも微笑んでいて欲しかった。


「……愛するお前を、深窓の姫君で、いさせてやりたかったんだけどな」


 どんな悪しき思いも抱かず、晒されず、永遠に可憐なままでいさせたかった。この手で守ってやりたかった。

 そんな、独りよがりの理想を反映できる女ではないと分かっていたが、それでもそう願っていた。

 あるいは、それができるという思い上がりこそが、この事態を招いたのかもしれない。


「すまん。死にそうな男の末期の世迷い言だ」


 義妹に向けられた視線が、明らかに王太子の思考と発言を不愉快なものと見做していた。おそらくこの状況でなければ決闘の一つも申し込まれたかもしれない。


「血が足りていませんわね。世迷い言にしてもわたくしという個人と尊厳を軽んじるクソ迷言です。そもそも、以前より思っておりましたが、お義兄さまのそういうところ、わたくしは好きではありません」

「……すまない」


「そんな雑な謝罪でどうにかなる発言とは思わないでください。是が非でも生き延びて今の発言およびこれまでの勝手な思い込みと決めつけと言動について、誠心誠意詫びていただかねば気が済みません」

「悪かった」


「大体、お義兄さまには色々と足りていないのです。言葉とか心の機微とかロマンチックとか、そういうものです。わたくしを求めるにしても、もっとシチュエーションをですね、本当に、色々全然なっていません」

「……いや、そういう話では」


「そんなついでのような愛の告白がありますか」

「それは」


「なんですか。なかったことにしてくれなどと仰らないでくださいませね。散々待たせてようやくきちんと言葉にしたのですから、絶対に忘れませんよ、わたくしは。それともまさか、わたくしでは不満だとでも仰る気?」

「なんでそうなる」


「不満ですか?」

「不満は……ない。あるわけがない」


「では、やり直しを要求いたします。場所はそうですね、手入れの行き届いた月夜の、春の庭園がいいです。花束は薔薇で。わたくしの歳の数だけ状態の良いものを用意してください。薄いピンクの大ぶりのものでなければ受け取りません」

「……季節と天候の指定がなかなか難しい注文だがわかった。承知した」


「指輪はシンプルで上質なものを、ごてごてと飾り立てたものは好みではありません」

「ああ、そうだな。その方がお前には似合う」


「お義兄さまは黒の礼装で。マントも付けてくださいね。花束をくださる前に騎士の様に跪いて手の甲にキスをしてください」

「……わかった」


「先に言っておいてくださればわたくしも出来うる限りお義兄さまのお好みに沿うようにいたしましょう。夜着よりドレスを脱がせるのがお好きですわよね? 胸元は開いている方がよろしいかしら?」

「……なんでそう思う」


「よく視線がわたくしの胸元を彷徨っておいでですもの。隠しているつもりでしょうが、見られている方は気付くものです」

「…………肌はなるだけ晒すな」


「わかりました」

「……ただし下着は大胆なものがいい」


「わかりました。……お義兄さま」


 呼びかけてくる義妹の声は、静かだった。

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