硝子と獣2

 倒れた夕嵐シーランの身体を、冬摩トウマは無感動に見下ろす。無常鬼はすでに消えていたが、わずかに冷気が淀んでいた。咀嚼を終えたていは立ち尽くす玄礼シュエンリーに向かって低く身構える。


 夕嵐は動きそうにない。魂魄の抜けた身体は誰かが無理に粘土で捏ね上げて作ったようで、歪みが露呈していた。それは紛れもなく死体で、誤魔化し続けていたものをいきなり突き付けられたようだと思う。

 ――最悪だと、玄礼は小さく息をついた。



「……人の物を勝手に毀すな」

 玄礼はトランクを抱えたまま、じりじりと横に移動する。冬摩は死体を踏み越え、小さく笑った。

「道士は近接戦闘が苦手だと思いました。こんなのがいたので不安だったけど、なんとかなって良かった」

「無常鬼なんてどうやって捕まえた」

「企業秘密というやつです」

 浅く呼吸を繰り返しながら、自分と夕嵐の距離を測る。冬摩の後ろに回り込み、ていに襲われずに近づくのは難しい。


 冬摩は薄笑いで、目は冷ややかに玄礼を見つめた。

「諦めて。トランクを渡せば、あなたは殺しません。たった一人で逃げられると思いますか」

「……どうだろう」

 無理だろうな、と内心呟く。彼女の言う通り、玄礼にていを始末する手段は無い。背を見せた瞬間に噛み殺されるのは分かっていた。

 冬摩に見えないよう、トランクを封じる紐をゆっくりと解く。


「それとも、ていの餌になりたいですか? 私は別に構いませんが」

「断る」

 焦りが顔に出ないよう、慎重にトランクの留め具に手を掛けた。掛け金は固く、微かに震えている指先では上手く開けられない。何度か失敗したが、不意に留め具が緩んだ。

「我儘ですね。あなたの傀儡は大変そう」

 冬摩は薄笑いを消した。

「……仕方ないかな」


 ていが後肢にいっそう力を込めた瞬間、限界だと悟ってトランクを冬摩に向かって投げつけた。


「――は?」

 彼女はトランクを受けとめ損ねて足を止める。地面にぶつかったトランクは跳ね、拍子に緩衝材に包まれた中身が飛び出した。トランクに手を伸ばそうとした冬摩は、転がった中身に目を留め、躊躇うように手を下ろす。


 玄礼はトランクを無視して倒れた夕嵐の元に走った。大股で五歩、そして夕嵐の身体に半ば倒れ込みながら触れる。

 千切れた袖から夕嵐の肌が覗いて、そこに黒く刺青のように字が彫られているのが見えた。


 呪符も陣も無いが、それは夕嵐の身体に刻んである。



「――帰り来りて、故居にかえれ」



 密かな声は、夕嵐にだけ聞こえた。


「戻れ、夕嵐。もう一度だ」


 冬摩が振り返る。わずかに余裕を無くした表情が、驚きに変わる。

 倒れた夕嵐の目が、ゆっくりと明いていた。



 ***



 ――戻れ。


 その言葉で四肢に力が入る。暗闇から急速に引き上げられ、夕嵐は強張った両腕で身体を支える。どこかが軋むような音がして、肉の削がれた右腕からだらだらと黒っぽい液体が溢れるのが見えた。


 背中に置かれた手が離れるのを感じた。同時に、鋭く声が耳を打つ。


「夕嵐、行け!」

てい!」


 叫んだのはほぼ同時、だが夕嵐の方がほんの一瞬早かった。

 夕嵐は緩衝材に包まれた中身を掴んだ。飛びかかってきたていは身を低くしてやり過ごす。着地の瞬間にその脇腹を蹴り飛ばし、横ざまに床を滑る獣の巨体を追って拾い上げたガラスの破片を片目に思い切り突き立てる。


 血が噴き出す。咆哮に鼓膜が揺れる。無闇に振り回す爪に引っ掛からないように飛びのき、血に濡れたガラスを捨てた。地面に当たったガラスはさらに砕けて光を撒く。


 のたうち回るていから急いで離れた。まだ身体が思うように動かない。ぎこちない動きで関節を伸ばし、返り血で濡れた顔を袖で拭う。


「――さすがに危なかったな。でも玄礼が無事で良かった」


 夕嵐は青白い顔で振り返る。目が合うと、玄礼はひどく不機嫌そうに眉を寄せた。

「もう一度死んでみろ、今度はばないからな!」

 玄礼の怒声を聞き流し、冬摩を見る。彼女は訝しそうに夕嵐を見つめていた。

「……あなた、死人だったのでは? 殭屍キョンシーだって聞きましたけど、何か違う……」

 その言葉に、血の気の無い顔に笑みを作る。


 殭屍キョンシー――起き上がった死体。夕嵐のことをそう呼ぶ者もいた。それは正確には間違いだが、どう呼ばれようと構わない。


「そんなものですよ。俺は玄礼の傀儡だ」

 返り血が顎を伝って落ちる。生温いその液体は、この身体にはもう流れていない。

「――だから、玄礼がべば還ってくる」



 冬摩は眉間の皺を深めた。

「冥府から? ありえない」

「色々例外はあります」

 夕嵐の言葉に彼女は一寸黙る。思案するように視線を彷徨わせ、そして溜息をついた。

「……冥府に送っても蘇るなら、これ以上は徒労ですね」


 もがき回るていの身体が、不意に融解するようにどろりと溶けた。

「出直します。誰かが管理局に通報したみたいですし」

 ビルの外が騒がしい。そのことにようやく気がついた。

 散ったガラスを踏み砕き、冬摩は仄かに物騒な笑みを湛える。彼女は、夕嵐が持ったままの緩衝材に包まれた鍾馗人形を指差した。


「では、また。それ、大事にしてくださいね」


 彼女は言葉通り、自分が壊したドアを通って本当に立ち去った。




 拍子抜けし、夕嵐は玄礼と顔を見合わせる。

「……あの人、ドアを弁償しないつもりかな?」

 玄礼は苦々しい顔で舌打ちした。

「最悪だ。しかもあからさまに見逃しやがって」

「そうだね。最初から君だけていで狙ってれば良かったのに」

 そうしなかったのは、玄礼だけは生かしておきたかったからだろうか。何のためなのか、それはまだ分からない。


「てか、さっさとそれ仕舞ってくれ」

 玄礼は嫌そうに夕嵐の持つ鍾馗人形を指差す。ああ、と人形を見下ろした。

「玄礼、よくトランク開けたね。開けた瞬間祟られたらまずいのに。博打だろ」

「ああするしかなかった。閉めたまま投げつけたら、そのまま持ち去られる」

「あの人がこれに触ろうとしなかったってことは、やっぱ生きた人間が触るとまずいものなのかな」

 トランクに人形を放りこみ、しっかり留め具と紐で封じた。


 気に食わない、と呟き、玄礼は冬摩が去った方を睨む。それから思い出したように夕嵐を見た。

「右腕、見せろ。噛まれただろ」

「うん。あと、ちょっと喰われたかも。一応、怪我しないようにって思ったんだけど」

 ごめんと眉を下げると、玄礼は仏頂面のまま言った。

「上等だ。頭がぶっ飛ばなければなんとかなる」


 コートを脱ぐと、右腕の惨状が露わになった。骨が見えるほど深く噛まれ、食いちぎられた断面にシャツの繊維が絡んでいる。痛覚が無いことだけが救いだ。

 血とも膿ともつかない濁った体液が床に染みを描く。シャツの袖を半ば引き裂くように肘まで捲ると、異様な刺青に覆われた痩せた腕が現れた。刺青は呪句で、ほとんど全身に彫られている。――これは玄礼が彫ったものだと聞いていた。


 玄礼は肉が腐ったような悪臭に眉をひそめる。大人しく腕を出したまま、夕嵐は軽い口調で訊いた。

「これ、少し腐ったかな?」

「かもしれない。じっとしろ」

 玄礼はひどく慎重に、傷口の上に手を掲げた。

「――千邪万穢、遂水而清、急急如律令」

 呟く言葉の意味は知らないが、傷口から溢れる体液の流れが止まったのが分かった。


「抉られた肉は完全には治らない。しばらく右腕は使うなよ」

 右手を何度か握って開き、上手く動かないことに肩を落とす。深い怪我だが、痺れたような感覚だけが伝わってきた。

「油断した。一気に三つも使役できるなんて反則だろ」

「やる奴が少ないだけで、できなくはない。代償が大きいだけだ」

 言いながら、玄礼は手早く夕嵐の右腕を布で覆う。


「お前も、後先考えず力任せにやるな。その身体は丈夫だけど、限界はある」

「後先考えて君が死んじゃったら俺も道連れだからね」

 夕嵐は唇を吊り上げた。この身体はとうに体温を失って冷えている。表情を変えるにも苦労した。

「俺は玄礼がいないとただの死体になるから、君が殺されないように文字通り捨て身で頑張ってる」

「何度も捨てられるとこっちも困る」

 ハハ、と喉を反らして笑った。それから強いて心配そうな表情を作り、玄礼の額を指差す。


「そういえば、なんか擦り傷できてるけど、大丈夫?」

「……これはお前が突き飛ばした時にできたんだ」

「あれ、ごめん。君は意外とどんくさいよな」

「うるさい」

 吐き捨て、玄礼は罅の入った眼鏡を弄る。


「さっきの女、まず尾崎さんに相談する。鬼市に出入りする猟鬼師なら管理局は把握してるはずだ。ていを使役するトウマっていう女に心当たりが無いか訊け」

「いいけど、教えてくれるかな。機密とかあるんじゃないか」

「……あの女はトランクの中身の正体を知ってるはずだし、無常鬼まで使う危険人物だ。尾崎さんが自分で調べようとするはずがない」

「だから俺たちに回すだろうって? そうかもしれないけど、危ないって」

「仕方ないだろ。ドアの修理代も稼がないと」


 素っ気ない言葉に苦笑し、返り血で固まった髪を梳く。

 三年前から少しずつ伸びる髪は、願掛けのように切られないままだった。


「――ああ、ついでに、クリーニング代もいい?」

 ふと思い出し、血を吸って襤褸切れのようになったコートを指差すと、玄礼は溜息まじりに言った。

「それは、新しいのを買ってやる」

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