一:鍾馗人形

骸と人形1

 鬼市の北には黒塗りの牌楼もんがある。黒い瓦は夜闇に溶け、扁額には濃紺の地に金で「玄武門」と彫られていた。北を守る神獣の名を冠した門の扉は、日が沈んでいる間だけ開放されている。


 その近くに廃墟じみた貸ビルがあった。ビルの二階、ほとんどの窓は割られているか板が張りつけられていたが、一つだけ明かりが漏れている窓がある。枠には如意紋の木格子が嵌められ、その模様が淡い影になって映る。


 大通りの雑踏から帰ってきた夕嵐シーランは、一瞬足を止めて明かりを見上げた。窓の向こうに人影は無い。

 彼はふと眉をひそめた。歩調を速めてビルに入り、一段飛ばしで階段を駆け上がる。エレベーターもあったが、ずいぶん前に二階と三階の狭間で止まったまま動いていなかった。


 二階のフロアにある部屋は一つを除いて封鎖されている。夕嵐は廊下の端、唯一使われている部屋へと向かった。


 磨りガラスの嵌まったドアの前、いつから置かれているのか分からない「休業中」の木札を足でどける。

玄礼シュエンリ―、入るよ」

 声を掛けてドアを開けると、狭くて雑多な部屋が見えた。壁に据え付けられた本棚、そこから溢れた本の山で足の踏み場が無い。デスクは紙の束に埋もれ、取手がとれたマグカップが転がっている。曇った窓の向こうには隣のビルのネオンが淡く滲んでいた。


 部屋の中央、応接セットのソファには紙切れと共に玄礼がうつ伏せに横たわっていた。黒髪が乱れて、傾いた顔から閉じた目蓋が少し覗いている。

 それを見て、夕嵐は持っていた紙袋を放り出し、本の山を崩しながらソファに向かった。


 散乱する紙切れは書きかけの護符だった。墨壺を倒したのか、墨汁が床に零れている。玄礼の手にも黒い跡が残って、指先から黒い液体が滴っていた。

 その手首を掴む。息を詰めるように様子を窺っていた夕嵐は、確かに脈があるのを感じて思わず座り込んだ。


「……なんだ」

 呟いた声は自分で分かるほど安堵していた。さっきまでの動揺と焦燥が滑稽で、拍子抜けしたような気分で玄礼の身体を揺する。

「おい、玄礼、こんなところで寝るなよ」


 しばらくして、相手は低く呻きながら顔を上げた。

「――なに」

「なに、じゃない。ソファで二度寝するな。窓もカーテン引けって、何度も言ったのに」

 先の動揺を全く見せずに笑い、夕嵐はソファを越えてカーテンを閉め切る。のろのろと身を起こした玄礼は、まだ眠そうに目を擦っていた。


「……護符書いてたら寝落ちた」

「ここ一応事務所だろ。寝不足なら家に帰って寝なよ」

「別にいい。家は鬼市の外だし……なあ夕嵐、飯は?」

「あー、どっかにいったな。ドアの近くにあると思うよ」

 訝しげに玄礼は眉を寄せ、崩れた本の間から紙袋を掘り起こして呆れたように言った。

「これ、投げたりしたのか? 中身がぐちゃぐちゃなんだけど」

「通りが混んでたからかな、ごめん」

「……しかもちまきか。俺、嫌いなのに」

「へえ、知らなかった、ごめん」


 にこにこと笑いながら雑に返事をし、墨汁で汚れた床にタオルを押しつける。玄礼は嫌そうに粽の笹の葉を剥きながら、ふと思い出したように呟いた。

「ああ、もうすぐ端午節だから?」


 端午節、日本だと「子どもの日」と呼ばれる節句だ。だが鬼市では五月五日ではなく、旧暦の端午節を祝う風習が残っていた。

 節句が近づけば、街は祭りのように活気づく。名物の粽や龍をかたどった飾りがすでにちらほらと姿を見せていた。


 玄礼は不味そうに粽を齧って言った。

「また観光客が増える時期だ」

「もうだいぶ増えてたよ。嫌だね、ろくでもないことが起きそうで」

「そう思うなら嫌そうな顔をしろ」

 自分の顔に手を当てると、勝手に口角が上がっていた。無理やり手で解すと玄礼は呆れた目を向けてくる。

 誤魔化すように視線を落とした先、ポケットに突っ込んでいたビラの存在を思い出した。


「……そういえば、さっき通りで変なビラ配ってたんだよ。見る?」

「そんなもん受け取るな」

「渡されたら受け取っちゃうんだよ。勿体ないし」

 言いながら皺の寄ったビラを広げる。床に落ちていた眼鏡を拾って掛け、玄礼が脇からそれを覗き込んだ。


「よろず、ご所望の商品を用意いたします――仲介業者か」

「うん。妖怪を狩る猟鬼師と商品が欲しい客を繋いでくれるって。これ屋号かな? 聞いたことがなくてさ」

 玄礼は眉間に皺を寄せ、ビラの隅に書かれたそれを読む。

夜祠やしどう……縁起の悪い名前だな」

「君もこういうところと契約したら? 狩ったものをすぐに売れるし、向こうから仕事も持って来てくれる。便利だよ」

「必要無い」

 玄礼はすぐに興味を失ったのか、夕嵐の手からビラを奪って丸め、ゴミ箱に投げる。


「でも君、金無いだろ。最近仕事してないし」

「お前に関係あるか?」

「心配してるんだけど。ほら、として?」

「ふざけるな」

「冗談だよ。……でも実際、君が行き倒れたら俺も一緒に路頭に迷うんだ。それは困るし怖い」

 言いながら、ゴミ箱の縁に当たって転がったビラを拾い上げ、なんとなくポケットに戻す。玄礼はソファにふんぞり返って一言、「面倒くさい」と言った。


「あのな……せめてエアコン買えるくらいは働こうよ。これから夏になるのに、あのポンコツ、まともに動かない」

 天井の隅、黄ばんだエアコンが温い空気を吐き出しているのを指差した。玄礼は夕嵐を振り返って眉を寄せる。

「暑いならそのコートを脱げばいい」

 長い黒コートに詰襟のシャツは見ているだけで暑苦しい。夕嵐は肩をすくめて首を横に振った。


「暑いわけじゃないし、脱ぐわけにもいかない。分かってるくせに」

「俺は気にしないけど」

「あれだよ、世間体ってやつ。君はどうでもいいかもしれないけど、俺は気にしてるんだ」

「お前が?」

 悪い冗談を聞いたというように玄礼は顔をしかめた。そして一つ息を吐く。

「……お前の世間体は知らないけど、金が入る当てならある。上手くいけばエアコン買っても釣りが来るぞ」

 言いながら携帯電話を投げ渡された。画面には着信履歴が表示されている。一番上にあるのは、管理局の尾崎だった。


「寝てる間に来てた。折り返し電話しといてくれ」

「尾崎さんか……嫌だな。あの人、危険な案件ばっか回してくるから」

「そんなもんだろ。こっちは融通してもらってる側だ」

 拘りのない返答に眉をひそめる。だが、夕嵐に拒否権は無い。


 仕方なく電話を掛けた。尾崎の話はひどく簡潔で、五分も経たずに通話が終わる。どうだった、と問う玄礼に対し、デスクの椅子に掛けられたままのジャケットを放った。


「商談の最中に商品ものが暴れて安否不明。嫌な感じだから来いだって」

 玄礼は小さく舌打ちした。

「あのひとの嫌な感じって、ほぼ確定で嫌なことだろ」

「気が進まないなら断ろうか?」

「……いい、行く」

 玄礼は寝癖で乱れた髪を無造作に撫でつける。

「管理局に恩を売っといて損は無い」


 そう、と夕嵐は呟く。ドアを開け、玄礼は怪訝そうに動かない夕嵐を振り返った。

「夕嵐、行くぞ」

 夕嵐は言いかけた言葉を飲み込む。――彼が行くと言えば従う。それが決まりだ。


 大人しく玄礼の後に続き、夕嵐は部屋を出た。

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