定時制のヴァンパイアガール

@hujirujurujuru

十八歳の高一

「血の池地獄か、火炙り地獄。どちらか選びなさい」

 閻魔大王様の視線が突き刺さる。

 突然の宣告を受けた俺は、当然の疑問を口に出した。


「俺が何をしたっていうんですか?」


「自分の胸に手を当てて、よく考えなさい」


 罪人の名は剣崎穹翔……つまり俺だ。

 蚊の一匹すら潰したことがない潔白な人間というわけではないが、死後も裁きにあうような極悪人でもない。

 強いて言うなら十四歳から現在に至るまでの約三年間、自室に引きこもっている。


 あれは十四歳の春のことだった。

 新作のゲームを買った俺は、寝る時間すら惜しんでモニターと向かい合った。ふと時計に目をやると、本来なら机に突っ伏しながら数学の授業を聞き流しているはずの時刻を時針が指し示していた。

 その日の学校はサボった。またゲームに向き合った。次の日、ふと時計に目をやると以下略。その日も、次の日もサボった。

 ズル休みを続けていたら、なんとなく学校に行きづらくなった。

 取り立てて悲惨な過去があるわけではない。怠惰な俺が唯一、コツコツと積み重ねることができた負の遺産である。


 虫を殺せば等活地獄に墜ちる。

 嘘をついたら大叫喚地獄に墜ちる。

 とうとう引きこもりも地獄行きの対象になったらしい。

 引きこもりは存在自体が罪ということか?

 殺生や詐欺と同列に扱われるほどの大罪か?


「考えはまとまった?」

 閻魔大王様は急かすように言う。運命を決める決断なのだから、たっぷり時間を使わせてほしい。


 血の池地獄、または火炙り地獄。

 血の池地獄はその名の通り、血液が溜まった池に落とされる。

 仰向けになって呑気に浮いていれば助かると思うかもしれないが、そう簡単にはいかないのだ。

 ボーッと仰向けに浮いていたり、岸に向かって泳ぐような人間を地獄の亡者は見逃さない。身体に金棒を振り下ろされ、無理矢理池の中に沈まされてしまう。


 火炙り地獄もその名の通り、全身を火で炙られる。身動きが取れないように四肢を縛られ、そのまま火の海に投げ込まれてしまう。もちろんこちらも地獄の亡者の監視付きだ。ゴロゴロ転がって逃げたり、身体に付いた火を消すことを考えるような人間には金棒がお見舞いされる。


 俺の出した結論は……。


「血の池地獄でお願いします」


「はぁ?

 お母さんはね、定時制高校に行くか、家から出ていくか、どっちか選べって言ったの」

 目の前にいたのは閻魔大王ではなく、俺のお母さんだった。

 此処は地獄じゃなくて剣崎家のダイニング。

 緊張のあまり、俺は幻と対話していたらしい。

 しかしこの二択、地獄行きに匹敵すると言っても決して過言ではない。三年もの期間をかけて熟成された俺という腐った牛乳を今さら社会に出荷したところで手に取る人間がどこにいよう。


 テーブルの左手には県立 世保平高校 夜間部のパンフレットが置かれている。表紙では私服の男女が作り笑いを浮かべていた。定時制高校に通うような闇を抱えた十代が、このような白い歯の溢れる素敵な笑顔を見せるはずがない(これは偏見)。


 テーブルの右手にはなんと、現ナマ。白帯でまとめられた札束の枚数は恐らく百枚。すなわち百万円だ。

 生で見る百万円は強い威圧感を放っていた。言ってしまえばただの紙切れの集まりのくせに、見ているだけで息が詰まりそうだ。


 今までも似たようなことはあった。

 ことあるごとに、両親から進学や労働の話を持ちかけられてきた。その度に俺は屁理屈や仮病を口八丁に並べ立てて、現状維持に努めてきた。

 しかし今日は違う。ごまかしもペテンも通用しない、張り詰めた空気が剣崎家に充満している。

 これは長年の引きこもり生活で感覚が鈍った俺ですら感じ取れた。

 その発生源は百万円だ。

 この札束には両親の本気が込められている。


 やれやれ。溜め息を漏らしそうになった。

 十四歳から引きこもりを初めて、現在十七歳。風呂と排泄以外は巣穴から出てこない俺を今さら真人間に戻そうとしたって、もう遅い。

 国から与えられた教育の権利を棒に振った俺が再起したところで、一般的な社会人としての水準すら満たせない暗い将来が待ち受けているに違いないのだ。

 そもそも俺自身が現状に満足している。宿代がかからず、飯と洗濯も無料で提供される六ツ星ホテルをチェックアウトするつもりはさらさらない。

 偉そうに机の上に座り込む諭吉百人は何処から連れてきたのか。

 お父さんの稼ぎや剣崎家の経済状況は知るよしも無いが、少なくとも俺を三年間も飼い続ける余裕はあるわけだ。

 両親共にまだまだ老け込む年齢でもないだろう。一人息子の為に汗水を垂らし、労働の喜びを再度噛み締めていただきたい。


「出ていくの?」


 一切の理屈が通用しない、猪の突進のような一言だった。まだ閻魔大王様の方が親身に耳を傾けてくれるだろう。

 三年の臥薪嘗胆を経て『人の目を見て喋れない』というスキルを獲得した俺はお母さんの表情を窺い知ることはできないが、耳に届いた声色は脳が凍えるほどに冷たかった。

 親の庇護の元にある未成年から衣食住を取り上げるなんて、ほとんど脅迫のようなものだ。


「うーむ……」


 冷静を装いつつパンフレットを手に取る。

 俺のような稚魚が社会の荒波に揉まれてしまえば血の池地獄よりも悲惨な結末が待っているに違いない。ここは消去法で、進学という択を取る他ない。


 半年、いや三ヶ月。

 いや、一ヶ月。それだけ通えば両親も満足するだろう。未来の引きこもり生活のために、今は歯を食いしばろう。


「決めた。定時制高校に行く」


 この一言で剣崎家を包んでいた緊張感は溶け、空気が緩んだような気がした。

 これでひとまず、来年の四月までの引きこもり生活は確約されたわけだ。進路が決まったのだから小言の矢が飛んでくることもないだろう。心身ともに安心して籠城できる。


「じゃあはい、これ問題集」


 お母さんはわざとらしく音を立てながら、机の上に大量の書籍を置いた。積み重ねられたそれは、俺の視線の高さにまで届いている。

 一番上の一冊を手に取ってみた。


「『定時制高校合格への道』……。問題集?」


「そうよ。定時制だって入試があるんだから」


「ちなみに試験に落ちた場合は?」


 机の上の諭吉が瞳を光らせる。

 何者にも邪魔されない無敵の引きこもり生活は儚い夢物語だった。

 定時制高校に入学できなければ……まさに背水の陣だ。

 しかし実質小卒の俺が、中学生の学習指導要領の集大成を求められる高校受験に太刀打ちできるはずがない。

 学力はもちろん、受験戦争に必要な体力を持ち合わせていない。モニターの前に座り込んで一日を終える俺の最大体力は、十代男子とは思えないほどに著しく低下しているのだ。

 負け戦が決定付けられているのに立ち上がれるほどの強い精神を、俺は持ち合わせていない。

 机に向かうのは早々に諦め、参考書を枕代わりにゲーミングライフを継続することにした。

 人間というのは、追い込みすぎたら逆に捨て鉢になってしまうのだ。努力した経験のないような駄目人間なら尚更である。受験に失敗して家から追い出されたら、剣崎家の前にダンボールハウスを組んで物乞いを始めてやるつもりだった。


 ねじけた覚悟を決めた俺に神様も呆れて施しを寄越してくれたのか、答案用紙に名前さえ書いていればよかったのか、真相は定かではないが県立世保平高校夜間部に世にも悲しい十八歳の高校一年生が誕生した。

 晴れて二十二歳まで高校生というわけだ。

 そう、俺も入学直前まで知らなかったのだが、定時制高校は四年制なのだという。全日制と同じく三年で卒業できるシステムもあるらしいが、俺は四年の方を選択するつもりだ。既に最底辺の人生、一年ぐらい慌てたところで未来は大きく変わるまい。


 ハタチを越えても高校生ということは、俺が人生を削ってプレイしている成人向けゲームの登場人物たちと同じ境遇になってしまったということだ。彼女達も俺と同じく、設定上の年齢は十八才以上だが高校に通っている。

 現実に目を向けてみても同級生が成人式で暴走したり、早くもバツイチ子持ちになっている間に俺は机で因数分解だ。


 まるで気が乗らないが、合格してしまったからには登校しなければならなかった。久方ぶりの自転車通学は白く細い足が悲鳴を上げる。脳の空き容量は十分にあるのに、教師の話は全くインストールされない。処理能力に問題があるのだ。

 逃げ出そうにも、両親からは「退学・留年は即勘当」と突きつけられてしまった。引くも地獄、進むも地獄。血の池地獄に肩まで浸かっている方が幾分かマシである。

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