第3話だんまり(11/3のお題)

 それからヒロコは二回ほど、香坂の喉元をコーヒーが通り過ぎる動きを観察してから満足そうにマグを下げた。

 こんなにも注視されるのは初めての経験でどぎまぎしてしまったが、今の自分は単なる生きた生首に過ぎないのだ。向こうからすれば、珍しい動物程度の認識なのだと香坂は仕切り直す。

 飲み物が僅かでも飲めるのはわかったが、どうやって生存しているかの謎は深まってしまった。最早、自分が生きているのか死んでいるのかすら怪しいものだった。

「さて、食べた後は歯磨きだよね」

「は、歯磨きぃ!?」

 ひょいとされるがままに持ち上げられると、眼下の地上が思いの外遠くてゾッとしてしまう。誤って落ちて頭が割れたりしたら。そんな想像から、香坂はヒロコの手の中でじっとしている他なくなってしまう。液晶テレビの前、カーペットの上に正座をしたヒロコは自分の膝にタオルを敷いて、香坂を仰向けに乗せる。

「ほら、口を大きく開けて」

 柔らかな腿の感触が後頭部に伝わった瞬間、これはマズいことになったと口を真一文字に結ぶ。

「ちょっとぉ。どうして閉じちゃうの? 磨けないじゃん」

 ヒロコの訴えにも香坂はだんまりを決め込む。中年男性が若いお嬢さんに歯を磨いて貰うなんて、それだけで何らかの法律に引っ掛かるのではないだろうか。とにかく、香坂にまだ僅かに残されたプライドを守るためにも、この流れは回避しなくてはならない。

 頑なに口を開けようとしない香坂に、ヒロコは溜息を吐いてから真面目な顔で香坂を見下ろす。

「おじさん、知ってる? 人間は虫歯で死ぬんだよ?」

 ヒロコの落とす暗い影が、恐ろしさに拍車を掛ける。

「生首を歯医者には連れていけないし、虫歯の穴からばい菌が血管に入り込んで脳に届いたら、確実に死ぬからね?」

 そうか、今の自分は医者にもかかれない、病気になったら即終了のか弱き存在なのだ。突きつけられた事実は、香坂に深く突き刺さる。

「万が一生きていたとしても、脳を破壊されればもう生首ゾンビになるしかないよ。意思疎通すらできなくなったら、流石に私も生ゴミとして捨てるからね」

 その目は冗談ではないことを物語っていた。

 突きつけられたデッドオア歯磨きのあまりの恐ろしさに、香坂は観念して口を開ける。

「初めからそうすれば良かったのに」

 けろっと態度を変えて、ヒロコはホテルで貰ったアメニティらしき歯ブラシを香坂の口に入れる。

 やや硬くはあるが、ヒロコが優しく磨いてくれるので痛みはない。歯の表面、裏面、側面に至るまでブラシが優しく撫でていく。プラスチックの柄が歯にぶつかり、ブラシの繊維が舌先をくすぐる。歯の根本の歯茎を、歯列の筋を、丁寧になぞられていく。自分ではコントロールができない分、恐ろしさはなすがままにされる自分への暗い興奮にも置き換わっていく。

 口内を弄られる無防備さの恐怖と、世話をされる恥ずかしさ、そして大事に扱われていることへの幸福感で、ようやく口をゆすいだ時には香坂はへとへとになっていた。

「次、お風呂に入ろっか。髪洗って、顔も保湿洗顔して。あ、後で髭剃りも買ってくるね。安心して。実家で大型犬飼ってたから、歯磨きもシャンプーもトリミングも得意だから」

 大得意で胸を張るヒロコには、香坂も手のかかる生き物程度の認識なのかもしれない。

「くれぐれもお手柔らかに……」

 疲れ果てて抵抗する気力も失せた香坂は、そのまま風呂場に連れられ、ペットよろしくわしゃわしゃと盛大に洗われるのだった。

 

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