シド ―荒くれ魔銀と禍悪の花―

タチバナ シズカ

オープニング


「シャロン、よくお聞き」


 病床に臥せる老爺がいた。

 呼吸の間隔は浅く、死に際だった。

 彼は震える手を伸ばすと傍に立つ少女の頬を撫で、その柔さと熱を確かめる。


「なぁに、お爺ちゃん……!」


 少女は泣いていた。

 老爺は彼女にとってかけがえのない存在で、親代わりだった。

 だが風前の灯火のように老爺の命は燃え尽きる寸前で、少女は泣きじゃくるばかりだった。


「わたしはね、シャロン。お前と血の繋がりはなかった。だがそれでも……わたしはお前を何よりも大切に思っていたよ」

「うん……!」

「お前を残して死んでしまう事はとても辛い。だがどうか許しておくれ。そしてどうか……強く生きておくれ」

「おじい、ちゃん……!」


 老爺の声が掠れ、瞳の色が薄れていく。

 シャロンと呼ばれた少女はその変化を悟ると老爺にしがみついた。


「いやだよ、死なないでよお爺ちゃん! ねぇ、まだ一緒にいたいよ!」


 老爺の力が弱まり、呼吸が数瞬途切れた。

 シャロンは老爺の冷めていく体温を自身の熱で取り戻そうとした。

 だがどれだけ身を寄せても意味はなく、シャロンは現実を前に絶望を抱く。


「シャロン、よくお聞き。お前にはわたしのお店と、他にいくつかのものを残しておいた。最悪の場合はそれらを手放しても構わない。だがただ一つ、ただ一つだけ……どうか忘れないでおくれ。その本と鍵を手放してはいけないよ、シャロン」


 シャロンは寝台の傍にある大きな本を見つめる。


 それは錠の施された古い本だった。

 色褪せた緋色の本の表紙は焦げていたり、ところどころには年季を思わせる疵があった。


「わたしは幸せだったよ、シャロン。虚空でしかなかった人生の中で、お前と出会い、お前を育て、お前を愛せたこと……それは何にも勝る幸だった。お前はきっと、これから……予想だにしない危機に見舞われるかもしれない。もしそうなった時、その本を開きなさい。それは決して神聖と呼べる代物ではないが、それでもきっと……お前の力になるはずだ」


 シャロンには老爺の語る内容が理解出来ない。

 困惑するシャロンだが、老爺はそれを気にもせず、零れるような笑みを浮かべた。


「ああ、もう、眠い。お休み、シャロン……可愛い可愛いわたしのシャロン。今度会う時は、また、お前の大好きな……クリームシチューを、作って、あげ……よ……」

「……お爺ちゃん? ねぇ、お爺ちゃん……お爺ちゃん!」


 一つ、命が尽きた。

 彼の今際を看取ったのはシャロンがただ一人のみ。

 他には誰もいなかった。

 彼女は大きな声で泣き、愛する者の死を嘆いた。


「うわぁああん! うあぁあああああ!」


 現代、イギリスは首都ロンドン市。

 この日の夜、偲ぶように黒犬の群れが市邑を駆け抜け、唸る慟哭は夜明けまで続いたという。

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