第2話 食事

 とある店のハンバーグ、特に和風おろしハンバーグが本当に美味しいのだと、少女は父に教えられていた。身振り手振り交えて魅力を伝えてくれる父の姿に、少女はそれを食べられる日を楽しみにしていた。

 ──けれど父は、いなくなった。

 世話をしていた吸血鬼もいなくなった。

 母と二人、古びた洋館に取り残され、少女の家はゆっくりと、魔法使いの家ではなくなっていく。吸血鬼に去られた家は、そうなる運命だった。

 少女の母はそれまで、数多の人に頼られる優れた魔法使いであった。助力を求められればどんな相手にも応え、夫を愛し娘を愛していた。

 愛して、いたのだ。

 魔法使いであることを生まれた時から求められ、魔法使いとして求めに応じてきた人間が、魔法使いでなくなっていくのを実感した時、果たして正気を保てるだろうか。

 愛する者を失い、酷い裏切りを受けている──保てるわけがなかった。

 母は荒れ狂い、少女は洋館に閉じ込められる。お前も私を置いていなくなるのだろうと、時に殴りながら蹴りながら、暴言の合間に泣き叫び、吸血鬼を囲っていた地下に少女は枷で繋がれた。

 これで安心だと泣き笑う母を、感情をなくした娘は静かに見つめ、何を見ているのかと暴力を振るわれる。──ずっとこれが続くのだ。少女は未来を諦めた。楽しいこと全てを忘れ、天井を眺める日々を送る。食事は満足に与えられず、常に腹を空かせていた。

 そんな時に思い出すのが、父と約束したハンバーグだった。他のどんなことを忘れても、食べてみたかったハンバーグのことを忘れることはできず、味を想像するのが唯一の暇潰しだった。

 頭を砕く力も覚悟もなく、天井を眺め、ハンバーグを想う──いつも通りの日々に、いつも通りではないことが起きた。


 少女のいる地下に、男の生首が投げ込まれたのだ。


◆◆◆


 どこもかしこも壁の剥がれたダイニングルーム、円形のテーブルに着席した少女の前には、吸血鬼が買ってきたハンバーグが皿に盛りつけられていた。


「それ、美味なのですか?」

「食べたことない」

「一口食べさせてから訊け」


 少女の右隣に吸血鬼は腰掛け、左手側に生首は置かれていた。両者共に、ハンバーグと相対する少女を見守っている。本来であれば食べづらい状況だが、少女に誰かの視線を気にする余裕はなかった。

 ずっと、食べてみたかったハンバーグ。暗い地下で確かにこれは、少女の生きるよすがになっていた。

 箸を手に持つものの、固まって動けぬ少女。吸血鬼と生首は静かに見守り──ふいに少女の右手が動き出して、それぞれ息を飲んだ。


「………………っ」


 アーモンド型の黒い瞳を見開き、左手でそっと口元を押さえ、咀嚼するたび小さく頷く少女。口内の物がなくなった頃に、ぽつりと呟いた。


「美味しい」


 二口目、三口目と箸が進むのを見て、吸血鬼の顔は緩み、生首はどこか安堵したように目を細めている。


「それなら私の分も買えばよかったですね。──ハンバーグは今後、あの店で買いますか」


 吸血鬼の言葉に、少女は箸を止める。そして不思議そうに、吸血鬼を見つめた。


「何か?」

「……次、あるの?」


 問われた意味を咀嚼して、吸血鬼は目を丸くする。次、次だ。──この生活が続くなら、あるだろう。

 いつまで続くかは、分からない。

 この生活には期限がある。吸血鬼と生首が目的を達成すれば、彼らは少女の前からいなくなる。

 所詮は魔法使いと吸血鬼。捕食し捕食される関係。──何事もなく平和に過ごすことなど、できないのではないか。

 吸血鬼がそんなことを考えて黙っていると、答える声が別にあった。


「長い付き合いになるかもしれない。ある」


 生首だ。

 飾らないその物言いに、吸血鬼は苦笑をもらし、そうですねと返事をする。少女も頷いて、食事を続け──ようとして、また、箸が止まる。


「シャムロックが食べたら、どうなるの?」

「……」

「……」


 見合わせる生首と吸血鬼。

 彼らに構わず、少女は一口ハンバーグを箸で切り、生首に無言で差し出す。


「食べて」

「……」

「一回だけ」

「……」

「お願い」

「カエデ、シャムロック様にそんな」

「……分かった」


 実は生首も気になっていた。少女の血以外の物を口にした時にどうなるのか。

 手足もなければ胃袋も持ち合わせていない生首も、胴体があった頃は人間の食事を普通に楽しんでいたのだ。そろそろワインやチーズが恋しい。

 一度だけ、一度だけでも試したい。

 それで駄目なら諦める。

 心配そうに自分を見つめる吸血鬼に構わず、生首は差し出されたハンバーグにかぶりついた。

 久方振りの肉、頬が落ちるの意味を理解しながら咀嚼し、咀嚼して飲み込み──数分後に吐き出した。

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