名を知らぬ勇者へ

yukisaki koko

第1話 勇者が生まれた日


 魂は瞳に宿るとされている。勇む者の魂はその器に入る際に、その瞳を真っ赤に焦がす。灼ける意思はその熱さで道を切り開く。その熱さで人々の心に火をくべる。見える景色がほんの少しでも輝くように。内に秘める、瞳を焦がすほどの炎をどんな時も見つけられるように。


 ――しばし頼りないこの魂で我慢してほしい。この魂が尽きる時、この世界にはまた、陽の光が差すことだろう。


 あまりにも、あまりにも眩しかったあの勇者。誰しもが、未来を信じた。ただの一人でさえも、疑うものなどいなかった。

 始まりの勇者が死んでから百三十年。ただの一瞬でさえも、その時を生きる人々がその勇者を忘れたことなどなかった。人は紡ぐ生き物だ。みんな知ってる。信じているのではない、知っているのだ。彼がまた戻ってくることを。

 人々は彼のことを勇者と呼ぶ。彼の覚悟を知っているから。

 勇者に、人としての名前は必要ない。

 人々は待っているのだ。過去の英雄たちとの約束を果たす日を。


 名を知らぬ勇者へ。


 あなたの名前を呼べるその日を。ずっと。



     *


 

 魔国支配領域フィー。はるか昔、勇者の国とも呼ばれた王国ソラは、今やその面影を完全になくしていた。

 そこは、フィーの中でも特に小さな村。


「もうすぐだねえ、キリエ」老婆はお腹の膨らんだ女性に優しく微笑みかける。「こんな世の中でも、新しい命は生まれてくるってのは、なんだか不思議な話だ」


「そうですね、元気に産まれてきてくれたらいいんですけど。そろそろあの時期ですし、不安です」キリエと呼ばれた女性は膨らんだお腹を撫でながら表情を曇らせた。


「人貢の時期か。今回は何人連れていかれるんだろうね。こんな小さな村だから、数人てところだろうが」老婆は空を見上げた。魔王が現れてから、空はどんよりとどす黒い雲に覆われ、薄い紫色の瘴気が常に立ち込めるようになった。故に人は、常日頃から瘴気にあてられ少しの倦怠感などざら、ひどいときは吐き気を催すときもある。「一度でもいいから、本物の青空ってもんを見てみたかったなあ。それと、お日様も浴びてみたかった」そして、その日差しを浴びながら、人々は彼の帰りを待つのだ。


 私が生きている間に勇者様が『帰ってくる』ことは、少々望み薄かな。そう呟いてほんの少し体から力を抜いた。


 キリエはお腹の子が少し動いた気がして、視線を動かす。優しくなでた。


「キリエの子が、勇者なんてこともあるかもねえ」


「それは――。少し嫌かもです。勇者様は魔王リィンカーネイションに転生の呪いをかけられた。じゃあ、もしこの子が勇者だった場合、この子は本当に私とあの人の子だと言えるんでしょうか」キリエは老婆の目を見れなかった。


 老婆は笑った。「そんなこと、今考えたって仕方がないことだろう? 今確かなことは、そのお腹の子は、あんたとあいつの子だってことだけだ」


 キリエは笑い、お腹を撫でた。キリエはこの子が生まれてくる世がこんな世界であることを申し訳ないと思っていた。成長するにつれて知っていく、この世界の未熟さ、不完全さ、拙さ、理不尽さ。逃げようとして縋る夢物語に首を絞められていることに気が付くのも、ある程度年を取ってから。


「それにしても、おとぎ話とは残酷だと思いませんか? そんな話を知らなければ、私たちにとっては、これが日常であり、何不自由ない暮らしであり、幸福であったようにも感じます。より良いものを知ってしまったから人はより良いものを求めるんです。誰だって子どもの頃に聞かされます。始まりの勇者様のおとぎ話。そんな、期待の発露を」キリエは愚痴をこぼす。


「若いあんたはそう思うのかもしれないねえ。でもね。私も勇者様をこの目で見たことはないけど、あの勇者様がいた時代を生きてきた人の子どもなんだ。顔を見て一目でわかったよ。この人たちは、私が知っているこの世界よりもよっぽど豊かな心を持って生きてきたんだってねえ。豊かな世界を生きたんじゃないんだよ。どんな世だったのかは実際に見てもいないんだから知らんさ。でも心は豊かだった。それは間違いなく、始まりの勇者様のおかげだと思うよ。何度話を聞かされたことか」


 老婆は続ける。


「それにだ。人が夢を見なかったら、この世界から夢がなくなっちゃうだろ? そんなのいやだろうよお」


 キリエは、確かにそれもそうだ、とほほ笑みながら返した。



     *



 魔族とは魔王より生まれ落ちた異形の子のことを言う。だから厳密にいえば魔王は魔族ではない。ならば突如として現れた魔王とは何なのか。


 魔族は生きた人間の脳みそを好んで食す。味は悪いが、生きた脳みそを食すことで人間に近い知能を得ることができるからだ。魔族の数は増え続けている。魔王からしか生まれてこない魔族は数こそ多くはないが、魔族が人間に近い知能を得るまでには個体差によっては百人以上の人間の脳みそを食す必要がある。だから魔族は効率よく人を集めたい。


 故の人貢。人の貢ぎ。それと引き換えに人はかごの中の平穏を享受している。


 魔族が生れ落ちるのが大体一月に一つというペース。それに合わせて、生きた人を調達する。その役割を担っているのが、数ある魔国支配領域の中のここ、フィー。フィーは魔国が公用語とする言語で家畜を意味する。


「人貢の徴収に来た。村民は十人一列に並べ」


 そして、キリエが住む村にも。


 村に来た魔族は三つ。一人は眼鏡を掛け、頭にはくすんだオレンジ色の角を二つはやした魔族。顔の部分は角以外は人と遜色がないが、体は不自然なほどに細く、足は地に着くことなく少し浮いていた。その後ろに使える二つは顔全体が毛におおわれたオオカミを思わせる魔族。三つとも、黒のロングコートを着ており、足元まですっぽりと隠れていた。


 オオカミの魔族が住人のリストを角の生えた魔族に見せる。そのリストは宙に浮き角の生えた魔族の目線の先で止まり、ゆっくりとページが捲れていく。


「全部で百十七人。随分と小さな村だな。相変わらず」あまりにも流暢な発音だった。異形のものが人の言葉をここまで流暢に話すことが、何度目とも知れない違和感と恐怖を村人に植え付ける。穏やかすぎるその口調が、あまりにも不気味だった。その言の葉から匂う臭いが、人と魔族の隔絶した価値観を人に感じさせる。「百十八の間違いか」そして、呟いた。


 三列目、左から五番目。キリエの身は痛みを伴うほど震え立つ。今にも逃げ出してしまいたい気持ちにかられるが、体のどこにもまともに力を入れられる部分などなかった。キリエの身体はもう、キリエの操作を受け付けてはいなかった。


「先月は気が付かなかった。良いことだ。人が増えるのは」


 角の生えた魔族はただの一歩すらも動いていないのにもかかわらず、キリエは身ごもるお腹を撫でられたような感触があった。呼吸が乱れに乱れ、まともに立っていられずに地に膝をついた。


 角の生えた魔族をジッと手のひらを眺めていた。不思議そうに後ろに控える二つの魔族が顔を覗く。


「まあいい。最前列、左から三人。来い」


 まだ若い男性三人が呼ばれた。その三人を連れて、魔族は村を後にした。



     *



 人貢の徴収が終わるとキリエは老婆の家に入れてもらい、暖炉の前で気を落ち着かせてもらっていた。


「また、暢気に生き残っちまったよ」老婆はため息を吐いた。「情けないねえ」


「そんなこと、言うもんじゃないですよ。ノリさんが連れていかれたら私は悲しいです」キリエはまだ顔色が優れない。


「本当はね、魔族は老人を好むはずなんだよ。熟成した脳みそは魔族の進化を早めるから。でも、どうやらここの魔族は相変わらず仲が悪いらしいねえ。生まれてきた魔族には、自分よりも知能を持ってほしくないんだ」ノリは下げていた顔をあげた。「こちらとしては助かる話だけれどね。木漏れ日の勇者様が今も守り続けている世界の中心、法治国家クレアでは賢い魔族が次々に出てきて戦線が押し込まれているっていう噂だからね」


 勇者。キリエは呟いた。暖炉の炎がパチパチと鳴る。キリエはぼーっとその炎を眺め、ノリはそんなキリエのことを眺めていた。


 ノリは机を拭いて、椅子の位置を直して、今度は椅子を引いてそこに座り込んだ。「晩飯、食べていくかい? 今日はシチューにするよ」


「いえ。お構いなく」キリエはぼーっと答えた。パチパチという音を聞いている。「もし、始まりの勇者様が帰ってきたら、今度こそ魔王を倒すことはできるんでしょうか。魔王を倒せたとして、変わることなどあるのでしょうか」


「本当にどうしたんだい?」


 キリエは数秒してゆっくりと語りだした。「あの時、魔族に声をかけられたとき。心臓が飛び出るほど驚いて、どうしていいかわからなくなりました。でもすぐに、落ち着いた。背中が見えた。とても大きな背中です。金色の髪をした、多分二十歳くらいの男の子。そしてすぐに、お腹の辺りがものすごく熱くなった。痛いくらいの熱さです。必死に抑え込もうとして体が震えてしまいました。その後に、魔族にお腹を撫でられたような感触がした。その時です。ほんの少し。ほんのちょっぴりですが確かに、私のお腹はその見えない魔族の感触を弾きました。


 あの人は、もうこの世にはいないんです。シダルクは、もういない。」


 ノリは立ち上がって椅子を机の下に仕舞う。「同情はしないよ。あんたに足りないのは、覚悟だけだ」


 ――その時、とてつもない爆音とともに窓が全て粉々に飛び散り、暖炉の火が消えた。



 バゴォォォォォォォォォォォォォォン!



 キリエはお腹を押さえながら丸まりこみ、ノリは窓の近くにいたうえ立ち上がり高い位置にあった顔面と上半身はその衝撃波をもろにくらった。


 魔族だ‼ 魔族が来たぞ‼ 魔物も引き連れてる! 逃げろ‼ 


 人々の叫び声と、子どもの鳴き声、そして魔族の醜い笑い声、魔物が人を嚙みちぎる音がキリエの鼓膜を音以上の威力を持って突き刺していく。キリエの身体はただただ震えていた。力なく倒れるノリの足先だけがキリエの視界にはあった。その先など見たくもない。


 どうして急に。こんなこと、今まで一度もなかったのに。キリエの脳みそは必死に今の状況を否定していた。しかし、キリエ以外のすべてが、キリエを否定していた。


「‼」


 そして思い当たる。キリエは自分の膨らんだお腹を見た。


 キリエのお腹は急激に傷みだした―――。



     *



 勇者。そう言われても、何のことかわからなかった。だってそうだろ? その時僕はまだ物心がやっとついたころだったんだ。友達はみんな外を走り回って転んで、お母さんに抱きついたり、あきれられたり、怒られたり、そんなことをするのがすべてだったのに。なのにみんなは僕のことを勇者と呼ぶんだ。みんなには名前があって、当然僕にだって名前があるのにさ。おかしな話だろ?


 そしてその友達はみんな死んだ。ハルトもライナもコログもゲルドもみんなさ。魔族が来たんだ。すごく怖い見た目をしていた。僕は建物のがれきの子ども一人やっと通れるような隙間を進んで進んで、そこにずっと隠れてた。怖くて怖くてずっと泣いていたけど声は出なかった。僕の口を、お母さんは固く固く縫っていたから。魔族の襲撃があるとわかった時から。実際に魔族が来たのは二週間くらいたってから。口の中は、血の味しかしなかった。気持ち悪くて何度も吐いたけど、それは全部鼻の穴の方から出ていった。必死に鼻から息を吐いて、窒息を免れた。


 外から音がしなくなって、僕はのそのそがれきから出た。ものすごく広い場所に出たんだ。空が大きくて、視界を邪魔するものが何もなかった。でも、とびっきり臭いにおいがした。鼻に残る、もう慣れた体内の匂いではなく、別の匂い。背後の方で物音がした。背筋が凍った。振り向くとそこには、魔物を吊れた一つの魔族がいた。目が真っ黒で肌は夜を思わせるような濃い紺色。口が顔におでこと両頬、と鼻の下に四つあった。魔物はおそらく犬の魔物だった。かなり長い間魔族の瘴気を吸っていたんだと思う、もうそれは四足歩行以外の犬のかけらを持ち合わせてはいなかった。


 まずは魔物の方が襲い掛かってきた。魔族は僕の方を見ているようで見ていないような、そんな目をしていた。ぼーっと、何もない空間を眺めるみたいに。ぼーっと。魔物は僕の顔面を丸ごとかみ砕こうとして、顔が首のあたりにまで一気に裂けた。その口の中に歯は一本もなくて、どろどろとした液体が踊っているように見えた。その魔物は僕に触れる前に、力を失い、僕の胸元に飛び込んでくる。その姿は、ただの小さな犬に戻っていた。魔族は目の色を変えて僕に向かって手を伸ばした。伸ばされた魔族の手は僕に触れると同時に粉になった。「ユウシや」と魔族は呟いた。片腕を失った魔族は僕に背を向けて逃げていった。僕はただ立ち尽くしていた。何日も、立ち尽くしていた。不思議と疲れはなかったし、寝る必要もなかった。ただずっと、ずっとその場に立ち尽くすことができた。何回目かの夜の後、僕は足を一歩踏み出した。見える限りの瓦礫を必死にひっくり返した。人を見つけたら協会の前にまで運んだ。運んだ人の私物を何か一つだけでもと探した。見つけた私物と一緒に、みんなを埋めた。それからは、毎日のように教会の前で祈りをささげた。墓には手を合わせた。それを何日も何日も続けた。たった一度だけ、教会に薄く光が差したことがあった。陽の光。見たことはないけれど、聞いたことはある。暗いばかりの空は寂しいものだと初めて思った。そして何より、僕が寂しかったから、いつなんときでも照らしてくれる何かを欲した。


 僕は、そこに来た馬に乗った人に拾われて「おうと」というところまで行くことになる。


「君、名前は?」その人は、僕の目のやけどを後天的なものだと思ったのだろう。それに、何週間もがれきの下にいて、髪はお世辞にも金色とは言えない色だった。


 だから私は、こう答えた。



 ――



 アネモネ、セイメイ、クズハ。やっと、戻ってきたよ。



 今更。もう遅かった。

 いつぶりかの明るさを感じた。視力はまだない。でも、明るいことはわかる。ずっと暗い場所にいたから。ものすごい明るさだった。いつの日か、セイメイが見せてくれた陽の光には劣るけど。アネモネはその時、目を細めていた。瞳を濡らす涙に陽の光が反射して、アネモネ自信が眩しかった。セイメイは真っすぐとその日の光を見て、目を抑えて悶えていた。暴れて、暴れて、目が見えないなんて騒いで。クズハは、笑っていたっけな。豪快に。今日は酒を飲まなくてもいいかもしれんな、なんて酒を飲みながら言ってさ。王様は、陽の光を浴びる僕らと、照らされた王都を見てた。震えながら。綺麗だ。と一言呟いた。私は、魔王を倒した後の世界を想像した。暴れるセイメイを見た。女性だということを忘れるほどに、セイメイは接しやすかった。セイメイと目が合う。視力が戻ってきたのか、セイメイは、僕に向かってほほ笑んだ。


 みんなは、逃げ切れたのだろうか。僕のせいだ。魔王は僕にしか倒せないのに。僕は、僕は。あっけなく魔王の呪いに罹った。転生の呪い。輪廻の輪に魂を居座らせる呪い。無限にも等しい数の世界に勇者として生れ落ち、魔王を倒した。何十。何百。何千。何万。何億。それは、忘れることのできない呪いだった。人に許された最大の業にして救済、忘却を許さない呪いだった。何度世界を救っても、本当に救いたい君たちを救えない。


 感情の発露。もうはるか昔に凝り固まりきったと思っていたそれは、いともたやすく溶かされた。光に埋もれて、勇者はひたすらに泣いた。無邪気に。生まれ落ちた赤子同然のように。ひたすらに泣きさけんだ。


 誰かに抱かれる感触に包まれながら。



       *



 まるで最初からそこにあったかのように勇者は緩やかに、自然に、空を真っすぐ下りるみたいに生まれてきた。


 泣いている。元気いっぱい。


 年相応。そんな言葉を赤子に使うのは明らかにおかしいと思った。それでもキリエはその、我が子の年相応に泣きじゃくる姿に安心した。シダルクの面影を感じた。小さい鼻も、シュっと伸びる鼻筋も、まつげが長いところも、あの人そっくり。垂れた目尻は私にそっくり。瞳を囲うような爛れた肌も、金色の髪も、キリエはもう、認めていた。


 痛みはない。すぐに温かい光に包まれて、それは消えた。


 泣きじゃくる息子の頭を撫でた。必ず守る。そう、心に誓った。


 醜い感触が肌を撫でた。魔族が発する瘴気だ。我が子を抱く両手に力が入る。キリエはただそれが発せられる元を眺める。いや、にらみつける。足音がする。声がする。キリエは力む。


「あ、いたぁ!」そして魔族と目が合、ったように感じた。その魔族は真っ赤な両腕が極端に肥大していた。キリエが睨み返すとすぐにその両腕は裂け、四本の腕として自立した。顔を真っ白いお面をかぶったかのようにパーツが欠落していて声はどこから発せられたのかわからないまま耳に届いてくる。あまりの不気味さにキリエは逃げ出したい衝動に駆られる。抱いている息子の顔を見る。紛れもなく、キリエの息子は勇者だった。


 息子が泣き止んでいることに遅れてキリエは気が付いた。


 勇者はキリエの手を離れた。ゆっくりと宙に浮かび上がり、魔族の気配のある所をにらみつけた。母とよく似たその瞳で。まだ視力のないその目で。


 キリエは、その姿から目が離せない。勇者の母になったことを理解した。キリエは強く拳を握る。目を強く瞑り、大きく開いた。


「そのひとォみ。わすれェェテねえぞ。ぃひゃくさんじゅぅうねんぶりだぁあ」魔族が宙に浮く赤子に向かって言った。


 百三十年。その言葉は勇者の心に重くのしかかった。百三十年間、己の失態でこの地には陽の光が下りていないのか。どれだけの命が蹂躙されたのだろうか。


 親の指一本握るのに精いっぱい、あまりにも小さな手のひらを、勇者は魔族に向かって伸ばした。手のひらの先、十センチほど離れた場所が発光する。その光は剣の形を作った。何十年と研鑽を積んだ果てに発現すると言われる勇者の聖剣を、その勇者は赤子の時点で顕現することができた。ましてやそれは、本物の勇者の聖剣。


 体の何倍もの大きさのある聖剣を魔族に向かって振るう。キリエはその聖剣の軌道の一部すらも目に留めることはできなかった。しかし、魔族はその聖剣を軽々と躱す。


「まあ、赤子の状態じゃこんなもんか。つまらんつまらん」魔族は突然悠長な口ぶりに変わる。真っ白い顔面の上部には醜く真っ黒に染まったとがった歯を内在する、口があった。「じゃあな、本物の勇者様」そして、魔族は消えた。


 宙に浮く勇者の小さな体をキリエは優しく抱き寄せた。


 勇者は母親に抱かれる安心を感じてしまった。


 ――百三十年。そうか。もう、君たちは。アネモネも、セイメイも、クズハも、王様も。もう、もう。居ないんだな。


 勇者は、また泣いた。大声で。生まれたての赤子の感情の発露まで、御しきることはできなかった。


 だって。だって彼はもとより、強い人間ではないのだから。勇者として生まれたから、勇者になったのだ。勇者として生まれたから、勇者として生きる覚悟を決めたのだ。彼は決して、最初から、生まれたその瞬間から、勇者だったわけではないのだ。彼は、勇者になろうとして、なろうとして、勇者になったのだ。勇者であり続けたのだ。名前すらも捨てて。ひたすらに勇者であり続けた。人々に、勇者の魂を見せ続けた。手を握りしめ、歯を食いしばる、何本もの血管が千切れ、その瞳は赤く血に染まったとしても、彼は常に人々に背中以外すべてを見せなかった。だからこそ、人々には痛いほど勇者の覚悟が伝わったのだ。その勇者の覚悟は、百三十年という年月の中で全く損なわれないほどの約束の骨組みとなった。だから人々の心は、もう、救われているのだ。あなただけが、救われていないじゃないか。心の底では、魔王などもうどうでもいいのだ。死ぬことなど恐れていない。でもそれじゃあ、あなたが救われないから。人々は魔王のいない世界を望む。あなたに救われてほしいから。


 キリエは、何度も何度も聞かされた始まりの勇者のおとぎ話を思い出していた。人々に強い勇者の姿を見せ続けた生粋の勇者。キリエは、始まりの勇者の正体を知った。その物語が、期待の発露ではないことを知った。勇者を名乗るものは後を絶たない。でも、勇者の証を持つ魂はただ一つ。その証を持つ男の子はきっと。



「あなたは、始まりの勇者様なのね」



 キリエは優しく微笑んだ。それは、生まれてきた息子が元気に泣く姿を見て安心した母親の微笑みそのものだった。そしてキリエは、自分が息子の名前を呼べる日がまだまだ先のことであることを悟った。





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