パーフェクト・アブダクション

秋乃晃

要件定義


 二〇〇九年八月二十六日現在二十八歳のは、まだ、霜降そうこう伊代いよを名乗っている。


 下着を身につけて、洗面台の前に立ち、拳銃を洗面ボウルのそばに置いて、ガンベルトを取り外し、ワイシャツに着替え、ベストを着用して、ショルダーホルスターを装備し、そこに拳銃を差し込む。寝癖のついた髪をクシで梳かして、紺色の髪ゴムでポニーテールを作り上げた。それから、顔を洗って、タオルで水滴を丁寧に拭き取って、台所へと向かう。朝食はトーストした食パンを一枚と、買い置きしているドリンクタイプのヨーグルト。ノート型パソコンを立ち上げて、ニュースをチェックしながら胃に流し込む。


 本日のトップニュースは『アイドルグループmisties⭐︎の全国ライブツアーが決定!』だ。伊代はストローから口を離し「大躍進ね」とつぶやいた。


 奇しくもmisties⭐︎が結成したばかりの頃、東京駅の前で、リーダーのカノンからチラシを受け取ったことがある。その程度と言ってしまえばその程度の縁だが、なんだか誇らしい気持ちになった。これだけの大見出しで報道されるのだから、きっと素晴らしい偉業なのだろう。それに、陰惨な事件や悲惨な事故ではなく、いまをときめく若者たちの活躍がニュースサイトで最も広い面積を獲得しているのは、それだけ世の中が安定しており、平和な状態で保たれているということだ。そうは思わないか?


 天気予報を見てから、届いていたメールを流し見する。返信を必要としているものはなさそうだ。送り主が不明なものやダイレクトメールは不要と判断され、未読のまま捨てた。大学時代からの相棒のスイッチをオフにする。


 歯を磨き、化粧をして、灰色のパンツを穿き、ジャケットを羽織った。

 霜降伊代のセットアップは、これにて完了となる。


 ここまでの一連の動作が、組織――正式名称は『風車かざぐるま宗治そうじを讃える能力者の会』で略称はRSKだが、誰もがただ『組織』と呼ぶ。なので、これ以降、組織と書いてあったらこの『風車宗治を讃える能力者の会Respect for Souji Kazaguruma』を指すものだと思ってほしい――に所属した二〇〇三年の春から続く、伊代のモーニングルーティンとなる。彼女が〝霜降伊代〟という名前で生きていくことを決めてからの習慣だ。


 本来の、すなわちわたくしとしての側面を守りつつ、組織で日々を戦っていくおおやけの部分を保つ。この世界の能力者は、心身のバランスを崩さずに日々を乗りこなさなくてはならない。これは能力者に限らず、人間なら誰にでも当てはまることだが、精神も肉体も、一度ひとたび壊してしまえば再起不能になるものだ。俗に「趣味は仕事としないほうがいい」と言うだろう。それと近いものだと思ってほしい。あるいは、素顔を見せない正義の味方。


「さて」


 あとひとつ、出勤前に必ずやらねばならぬことがある。

 拳銃のメンテナンスだ。帰宅後とシャワーを浴びた後も、軽く動作確認はしている。


 この世界にも銃砲刀剣類所持等取締法は存在しているが、伊代は拳銃の所持および発砲が認められている。任務外での使用は許可されておらず、任務開始時と終了時には所持弾数を報告しなくてはならない。やむをえず使用した場合にも報告書の提出が義務付けられている。


 組織からの支給品だ。単独ではなく複数人で任務に従事する場合においても、メンバーへの一時的な貸与は許されない。所持と発砲が許可されているメンバーは伊代だけだ。もはや自分の肉体の一部のようなものといっても過言ではない。帰宅してからは、律儀にも胴にガンベルトを巻き付けて、文字通り肌身離さず携帯し、寝食を共にしている。家にいるときぐらいは手放していてよいと思うのだが、伊代は真面目なのだ。伊代ほど組織に忠実なメンバーはいない。


「本日もよろしくお願いします」


 付き合いも六年となるその拳銃、グロックに手を合わせる。昨日と同じように、何事もない今日を祈ってから、その銃身を解体した。ガンオイルを吹きかけて磨く。動作不良は命取りとなるので、丹念に確認する。本日も異常なしとみて、伊代はショルダーホルスターに収めた。


 充電器に置いていた携帯電話をジャケットの胸ポケットにしまい、戸締りと火の元を指差しでチェックしてから、ビジネスバッグを右手に家を出発する。伊代の「行ってきます」は虚空に吸い込まれた。伊代に「行ってらっしゃい」と返してくれる相手はいない。これもまた、二〇〇三年の春から変わっていない。


 *


これは彼女の物語だ。

結末は決まっている。

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