雨、翅、紫煙

タチバナ シズカ

プロローグ


 開け放たれた玄関から湿り気を帯びた風が入ってくる。

 時期は梅雨に入るだろう。

 換気の為に部屋の窓を全開にしていたが湿度が煩わしかった。

 すっかり部屋の空気もよい具合になり、玄関の扉を閉めようとした時だった。

 ふと視線を落とすと、そこには翅を畳み休んでいる蛾の姿があった。


「……梅雨が過ぎれば、もう夏ね」


 私は呟いて扉を閉める。

 蛾を残したままに扉を閉め、目を伏せてリビングへと戻った。

 不思議と背に冷たい感触があるような気がしたが、払拭するようにかぶりを振る。

 

 身についた習慣のまま煙草を咥えて火を灯す。

 煙を喫み、咽喉の疼きを感じ、堪えていた息と共に煙を吐く。


 一連の動作を嫌う人々もいる。ニオイからして嫌悪の対象だともいう。   

 部屋の中は換気を終えたばかりなのに、湿気た空気に煙草のえぐみが加わった。

 顔を顰める誰彼もいるだろうか。

 眉根を寄せて直ぐに火を消せという人もいるだろうか。


「蛾、か……」


 私はそれらの反応を気にしない。

 若い女が煙草なんぞといわれても知ったことではない。

 一つの儀式であり、これは呪いにも等しく、業と呼ぶことも出来るかもしれない。

 この火が消えることはないし、頭上に渦巻く紫煙が霧散することもない。


『ねえ、少しは量を減らしてみたら?』


 それは幻聴だったろう。

 私は薄く目を開いてみる。

 私はイスに座っている。

 リビングのテーブルにいる。

 その向かいに誰もいないのに、分かりきっているのに、現実と対峙する。


「……お腹すいたなぁ」


 私は煙草を咥えたまま、煙を吹きながら、火種を宿したまま虚空に言葉を向ける。

 この煙草の火が消えることはない。

 某かの言葉も態度も反応も全て私を強制出来ない。


 例えば燃える火に羽虫が集まるように、それは自然なことだ。

 私は煙の中でしか私を確立出来ない。

 そしてその火を越えて私は私に到達することも出来ない。

 

 例えば燃える火に照らされる羽虫の中に蝶がいて、蛾もいたら、私はその翅を燃やして、二度と飛べぬようにと出来たかもしれないのに。

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