エスケープ

「……老人め」


 通信終了の電子音を鳴らす受話器に向けて、忌々しげにそうつぶやく。

 そして、もはや用のないそれを部下に渡し、自らはグラスの酒へ口をつけた。


「何が、死神だ。

 完全に制圧されたタワーの中を、単身で乗り込んでくる者など、いるはずもない」


 ハワードがつぶやいたのは、ごく当然な考えである。

 現在、このタワー内を占拠している兵の数は、およそ三百前後……。

 加えて、外部では十二機ものアームシップが、睨みを効かせているのだ。

 アームシップでも隠し持っているなら、まだしも……いや、よしんばそうだったとしても、である。

 単身で乗り込んでくるなど、蛮勇という他にない。


 だから、ロジャーの言ったことなど、気にする必要がないはずだったのだが……。


「……ああ。

 分かった。ハワード様へ報告しておく」


 VIP席へ詰めている腹心の一人が、インカム手を当てながらそうつぶやいたのであった。


「何かトラブルか?」


「それが……」


 尋ねるハワードへ、部下が言いづらそうな様子をみせる。

 しかし、意を決して口を開いたのだ。


「……地下の動力区画を守備していた兵の一人と、非常階段を守っていた兵たちが音信不通です。

 今、確認のために兵を回していますが……」


 そこで、部下がまたもインカムに手を当てる。


「……そうか」


 そして、追加の報告をしてきたのであった。


「動力区画の方は分かりませんが、非常階段の方は分かりました。

 二人共、射殺されていたそうです」


 ――足元は大丈夫か?


 ――奴なら簡単に潜入する。


 ――すでに、お前の喉元へ迫ろうとしているぞ。


 脳裏で繰り返されるのは、通話を切る前、ロジャーが言っていた言葉……。


「ふん」


 手にしていたグラスを、床へ放り投げる。

 パシャリという音と共に、琥珀色の液体が床の絨毯へと染み込んでいった。


「……舞台へ集めた子供たちと共に、上のマザーシップへ行くぞ。

 単に、念を入れるだけだが、な」


 そう言いながら立ち上がると、最後に、こう指示したのである。


「何者が侵入してきたのかは知らんが、確実に排除しろ」


 ハワードの命令に従うため、部下たちがきびきびと動き出す。

 何も……。

 何も、問題はない。

 そのはずだ。




--




「はっ……はっ……はっ……」


 ――衰えている。


 その事実を理解しながらも、ベックは懸命に階段を駆け上がり続けていた。

 ひたすらに、階段と内壁だけが続く光景……。

 これをもう、どれだけ見続けてきただろうか。


 全盛期ならば疲れなど感じなかっただろう両足は、ふくらはぎと言わず、ふとももと言わず……構成する部位全てが、悲鳴を上げている。

 だが、止まるわけにはいかない。

 こうして駆け上がった先では、娘が……アンジェが、恐怖に震えているはずなのだ。


 それは、もはや、体力というより執念の成せる技であっただろう。


 ――あそこか。


 スタートであった地下階からは、実に七百メートル以上もの距離……。

 それを踏破した先で、いよいよ、中層部へ至るための扉を見つけたのであった。

 道中にも整備用の扉はいくつもあったが、それとは明らかに装いの異なるこれを、見間違えようはずもない。


 ――向こう側には、二人。


 かつて培った勘が、生命の……敵兵の気配を、ベックに伝えてくる。

 そして、それらは静止しているわけではない。

 何か気づいたか……。

 あるいは、なんらかの命令を与えられたか……。

 扉を開け、こちら側を覗き込もうと……。


 ――ダアンッ!


 扉が開くと同時、小銃から持ち替えていた拳銃で、まずは一人目を射殺した。


「なっ……!?」


 共に警備する相棒を殺され、もう一人の見張りが、驚きに目を見開く。

 驚きながらも、手にした小銃をこちらに向けようとしていたのは、褒めてやってもいい点だ。

 ただし……。

 もう少し、ひとつひとつの動作が速ければ、より良かったが。


 ――ダアンッ!


 向けられつつあった銃口を片手で押さえつけ、相手に押し当てた拳銃の引き金を引く。

 それで、見張り二人は無力化された。


「侵入者に備えるため、階段側を覗こうという動きだったな。

 さすがに、殺した奴らが見つかったか。

 ……アンジェ」


 純白の調理着は血に染まり、足元にも敵兵の血溜まりが広がっていく……。

 赤い足跡を残しながら、ベックは目的の場所――劇場を目指したのである。




--




 ヘビに睨まれたカエルという言葉があるが……。

 極限まで恐怖が高まると、生物というのは感情も思考も止まってしまうものであり、それは人間の子供であっても例外ではない。


 泣くでもなく、わめくでもなく……。

 劇場の舞台へ座らされた子供たちは、ただじっとしていたのである。


 とはいえ、緊張状態というのは、永遠に続けられるものではない。

 本来なら、カルメンが上演されるはずだったその時間……。

 その時間に、青の海賊団たちが突入してきてから、すでに二時間以上も経過していた。

 ニカが口を開いたのは、いよいよ、この緊迫感に耐えられなくなったからだろう。


「アンジェ……。

 あたしたち、おうちに帰れるかな?」


 アンジェが、こうまで怯えたニカの声を聞いたのは、これが初めてのことである。

 確か、ブラジル系の血が入っているのだったか……。

 褐色の肌は、健康そのもので、黒髪も短く整えられ……服装も女子というよりは、男子のそれっぽいものを着用しているのが、ニカという少女であった。


 性格は、ボーイッシュとか、男勝りというのとは異なるが、活発であるのは間違いない。

 特技としているのはサッカーで、いずれはサッカーリーグの存在する惑星へ留学し、プロを目指すのだと常々から語っている……。

 それが、アンジェの親友――ニカなのである。


 普段は、どちらかというと自分の手を引き、様々な遊びや催しへ連れ出してくれる少女……。

 それが今は、太陽のような笑顔を失い、心から震え上がっていた。


 アンジェにとって不思議なのは、その恐怖が伝播してこないことだ。

 むしろ、自分の場合は、このような理不尽を押しつけてきた相手に対する怒りというものが、ふつふつと湧いてくるのである。

 おそらくは、父であるベックの気風が、影響しているに違いない。


 自分たちが血の繋がらない親子であることは、かなり小さい頃から聞かされていた。

 だが、遺伝子などというものに頼らずとも、人の魂というものは伝わるものなのである。

 だから、アンジェはニカに対し、はっきりとこう言ったのだ。


「大丈夫……。

 わたしや、ニカちゃんだけじゃない。

 人質になってる他の子たちも、きっと助かるよ」


「どうして、そんなこと言えるの?」


 あまりに、力強く断言した自分の言葉……。

 それに対し、ニカがこう聞いてくるのは、当然のことだろう。

 だから、アンジェも、自分にとって当然のことを口にしたのであった。


「必ず、パパが助けに来てくれる。

 パパはいつも、わたしに何かあったら、助けてくれるって言ってるもの。

 あと、絶対に嘘を言わないパパが、こう言ってたの」


 そこまで言って、精一杯の声真似を披露する。


「安心しろ。

 俺は最強だ」


 あいにくと、この声真似はあまり似ていないと、自分でも分かる出来だったが……。


「――ふふ。

 何それ? 変なの」


 親友に、少しばかりの笑みを取り戻させることには、成功したのだった。


「お前たち、内緒話はそこまでだ。

 ――移動してもらうぞ」


 自分たちを見張る海賊がそう告げてきたのは、そんな時のことである。

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