いつかキミと

汐なぎ(うしおなぎ)

第一話 川井悟(一)

 今日は日差しが強い。

 通勤途中。さとるは手をかざして夏空を見上げる。太陽が照りつける眩しい青空だ。悟は眩しさに、思わず片目を閉じるが、それでも空を見上げたまま、夢について考える。


 悟は昨日も夢を見た。いつもの夢だ。知らない女性が出て来て一緒に笑う、そんな夢。

 出て来るのは必ず同じで、とても笑顔の可愛らしい女性だ。いつも名前を呼んでいる筈なのだが、起きるとなぜだが忘れていて、どんなに頑張っても全く思い出せない。

 しかし、それ以外の事は鮮明に覚えている。一緒に食べた食事のメニュー。一緒に行ったお店の場所。果ては一緒に行った映画の上映時間まで。

 そして、昨日の夢で見た空が、悟が見上げていた空と同じだった事も。

 悟は、思い出したように、視線を戻して腕時計を見る。遅刻する事はないだろうが、いつもの電車には乗れそうになかった。


 一本遅れただけなのだが、乗った電車はぎゅうぎゅうの満員電車だった。悟は、これを避けるためにいつも一本前の電車に乗っていたのだ。

 うんざりとした気分で乗っていると、更にうんざりとする出来事に遭遇する。痴漢だ。斜め前の女性の背後に密着している男性が、抵抗しないのをいい事にやりたい放題している。

 周りは気付いていても見て見ぬふりで、誰も助けようとはしない。

 悟は、出社前にゴタゴタに巻き込まれるのはごめんだと、最初は無視を決め込んでいた。しかし、どうにも気になって仕方がない。いつもならば、悟も他多数と同じ様に何もしなかったのだろうが、この日は何故か体が動いてしまった。

「ちょっと、やめないか」

 悟はそう言って痴漢の腕を掴むと捻り上げた。

 痴漢はくたびれた姿の壮年の男性だった。

「いや、これは……」

 痴漢男は慌てて取り繕おうとするが、言葉が全く出て来ない。こんな小心者が、何故あんな大胆な事をしたのか、悟は理解に苦しむ。男性は自分はやっていないと顔を青くしながら言っている。しかし、彼が犯人なのは間違いない。悟は痴漢男を駅員に差し出そうと思い、次の駅で降りた。もう遅刻は確定だが、今更、途中でやめるのも気分が悪い。


 駅に着くと、悟と、痴漢男と、被害者の女性が電車を降りる。そして、悟は痴漢男を駅員室に連行した。

 悟は、身柄を引き渡すだけのつもりだったのだが、質問をされてすぐに解放して貰えず、会社の始業時間はとうの昔に過ぎてしまっている。

 悟は解放されると、まず会社に連絡を入れた。

 分かっていた事ではあるが、褒められる事も、情けをかけて貰う事もない。電話越しに怒られるのに、悟はペコペコと頭を下げるだけだ。悟がひとしきり謝って電話を切ると、女性が遠慮がちに話しかけてきた。

「あの。先程はありがとうございました」

 女性は深々と頭を下げる。

 悟は女性をはじめてしっかりと見た。体型は小柄で少しぽっちゃりとしている。歳は二十歳くらいだろうか。マスクをつけているので顔は分からないが、目元がなんとなく夢の女性に似ている気がした。

「いや、別に」

 悟は女性から視線を外して、困ったように頭をかく。

「お礼させてください」

 そう言って、女性はカバンからスマホを取り出す。

「連絡先。教えて貰えませんか?」

「えっと……」

「お願いします」

 悟は断ろうと思ったが、なんとなく女性の事が気になったので、連絡先を交換した。その時、女性は「夏海彩なつみあや」と名乗った。名を聞いた後、悟は自分の名字を彩に告げる

「川井さん?」

 彩は悟の名を聞いて、驚いたように目を見開いた。

「あの、私!」

 彩は慌てたように何か言いかけるが、悟には聞いている時間などない。

「すみません。急いでるんで」

 悟はそれだけ言うと、慌てて走り去った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る