恋愛はプラネタリウムのような幻想

みなと劉

第1話

1話

《恋に落ちる》

私はいま恋をしている。

それも、このあいだ生まれたばかりの恋だ。

私は、十歳も年下の大学生・哲也に恋をしている。

お互いを好きなのかどうかを確認する作業もなく、デートをするわけでもない。ただ週一度のこの面会だけが、私たちの関係をつなぎ止めていた。

哲也がここに通いだしたのは大学四年の春だった。

親父が倒れたという知らせを受けたかららしい。

私が教えた就職先にたまたま空きがあったので、飛び入りで面接を受けさせたら受かってしまったのだ。

「親父が倒れたのは本当だけど、すぐ退院するらしいから大丈夫」

と彼は言った。

哲也は東京にある超一流大学の法学部を優秀な成績で卒業していた。

そのまま法曹界に進むのだと思っていたら、父親が倒れたことをきっかけに弁護士を辞めると言ったそうだ。

「俺って要領悪いから、公務員のほうが向いてると思うんだよね」

と彼は笑った。

私は彼のことを何も知らない。

知っているのは名前と住所くらいだった。私が何も訊いていないから哲也も何も言わなかった。

このあいだ初めて年齢を知ったが、誕生日がひと月しか違わないのでもう驚かなかった。私は二十四歳になったばかりだった。

「はい、これ」

いつものように面会室で向かい合って座ったとたん、哲也はテーブルの上に分厚い茶封筒を置いた。

「なに?」

「来年のカレンダーのレイアウト。頼まれてたでしょ? 原案ができたから渡しておくね」

そう言って彼は中身を見せた。

紙束の中には六畳間とキッチンとユニットバスの写真があった。

「これ、この部屋?」

「そう。今年の写真も使いまわしなんだ」

来年は私の二十歳の誕生日だ。このあいだの誕生日には、彼がフォトフレームに写真を入れ替えてくれた。

そしてカレンダーにも写真を貼ろうと提案してくれたのだ。

「ありがとう」

私はそれを受け取った。

哲也は茶封筒をまたテーブルの上に置くと、私の方を見てにこっと笑った。

「あとさ、『星々のため息』読んだよ」

「え?」

私はどきりとした。

あれはまだ書きかけの短編小説だった。『星々のため息』は、私の処女作になるはずだった。哲也は原稿用紙に印刷されたそのタイトルをじっと見ていた。

「あれ、すごくいいね。俺、こういうの好きだな」

「本当?」

私が尋ねると彼は大きくうなずいた。

「うん。なんていうか、読んでると悲しくなるのに、読んだあとにすごくほっとする。俺、泣きたいのに笑いたい、みたいな気持ちってなんだかよく分からないんだけど、こういうの読んだらよく分かる気がする」

私は胸の底からじわじわとあたたかいものが湧き上がってくるのを感じた。

私が書いたものを褒めてくれたのは彼が初めてだった。

「あのね、星とか宇宙とかって好き?」

哲也は私の質問にまた大きくうなずいた。

「俺ね、天体望遠鏡欲しいんだ」

「え?」

唐突な言葉に私は目を丸くした。

「それでね、夜中に望遠鏡を担いで家を出て、星を観に行きたいんだ」

哲也は目を輝かせてそう言った。

私はまた目をぱちくりとさせた。

「夜はさすがに警察に捕まるんじゃない?」

そう言うと、哲也は楽しそうに笑った。

「昼間でも人目を気にして歩かなきゃね」

私たちはそれからしばらくのあいだ星の話をした。

私が好きな星座の話や神話の話。

哲也が好きな星の話や天体望遠鏡について熱く語った。

「いつかさ、二人で星を観に行きたいね」

哲也がそう言ったので、私は小さくうなずいた。

「うん」

それはとても楽しい空想だった。

私が二十五歳になったら彼は三十歳だ。

彼が言うように警察に追いかけられるかもしれないし、もっと危ないことに巻き込まれるかもしれない。

それでも私はきっと星を観ているだろう。

二人ならどんな夜も越えていけるような気がした。

哲也はにこにこと笑っていた。

その表情を見て私は思った。この笑顔に、ときどきふっと翳りが見えることを。

「ねえ、哲也」

私がそう言うと、彼は小首をかしげて微笑んだ。

「どうしたの?」

私は言葉を探したが、適当な言葉が見つからなかったので、正直に言うことにした。

「もし私と縁を切りたくなったら言ってね」

彼はしばらくきょとんとした顔をしていたが、やがて声をたてて笑った。

「やだなぁ、急にどうしたの?」

そう訊かれても答えなかった。

いや、答えられなかった。

このまえの誕生日に父親の話をしたときの哲也の顔が忘れられなかったからだ。

哲也は目を伏せて

「ごめん」と言った。

私は彼にこんな顔をさせている自分が許せなかった。

だから言ったのだ。

「約束して」

「え?」

私はもう一度繰り返した。

「約束してよ」

彼は少しだけ困ったような顔をしたが、やがてまた微笑んでくれた。

「うん、分かった」

その約束の日がやってきたのはそれから六年後だった。

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