▲4月23日 雷雨の鷹宮邸(1)

 約束の三日後。

 こちらの基準ではその五倍の十五日後……と、ちょっとだが、ともかくその約束した日の夜に鷹宮家から遣いの車がやってきた。

 鷹宮が登下校で使っていたのと同じ車種で、見慣れた外観ではあったが、自分が乗り込むとなると流石に気後れしてしまう。普通に生活していたら中流家庭に暮らす高校生の俺などにはとても縁がないような高級車だ。


 運転手の男が不機嫌を隠そうとしないのは、車内に乗り込んできた俺がパーカー姿にナップサック一つを担いだチャチな身なりのガキだったからか、あるいは、大雨のせいで視界がほとんどない夜間の道路を運転しなければならないからか。

 もしかしたら、こいつは二周前に集団で俺をボコった奴らの中の一人かもしれないが、正直よく覚えていない。


 車は俺一人を乗せて出発し、時折稲光が走る大雨の中、市街地を抜け、鷹宮邸へと続く坂道へと差し掛かる。俺が以前原付で登ろうとしたあの難儀な私道だ。


 俺は腕時計の針の進み具合を見て、その手前のコンビニで一旦下ろしてもらうことにした。

 トイレに入り、しばらく時間を潰した後、特に欲しくもなかった缶コーヒーを適当に会計し、カバンのサイドポケットに突っ込んで店を出る。

 車との僅かな距離を往復するだけでズブ濡れになった。


 鷹宮邸に到着すると、その軒先で俺は再び手元の時計に目をやった。

 おおよそ予定どおり。

 ここからはタイミングが勝負のカギとなる。


 俺をここまで運んできた運転手の男は何も言わずとっとと車を車庫に戻しに行ってしまったので、一人残された俺は自分の手で屋敷正面の大きな扉を開くしかなかった。


「天気予報を見て予定を組むべきだったな」


 扉の隙間に身をくぐらせた直後、大階段の上からする鷹宮道実の声に出迎えられた。

 高級ホテルにあるような毛足の長い絨毯じゅうたんが階段の上まで敷き詰められた、広大でおごそかなエントランスである。


 俺は肩にズシリと食い込むカバンを掛け直し、無言で階段を見上げる。濡れた髪から雫が垂れて首筋へと伝い落ちる。

 そんな憐れな姿の俺とは対照的に、階段の上では温かそうなツイード地のジャケットを着こんだ道実アバターの才川が含み笑いをしてこちらを待ち構えていた。

 俺は階段まで歩いていく間にも目敏く周囲に目を配り、護衛や使用人らしき人影がないことを確認していた。


 俺がこの勝負の周回における切り札とした

 それは、これから起こるはずの落雷による停電だった。

 4月23日の夜9時18分。二つの県をまたぐ約30万戸が遭遇した大規模停電。それは時々この世界をつまみ食いするようにしかログインしない才川では知り得ない情報──都合18回に及ぶ一年間を、一日たりとも余さず、愚直に生きてきた俺にしか知り得ないアドバンテージであるはずだった。


「未成年の学生には土曜の夜が一番都合がいいんだよ」


 俺は才川の顔色を窺いながら、わざわざこの日を選んだ薄弱な理由を言い返す。


「ふんっ。調べたぞ?」


 才川のその一言で俺は全身の毛が逆立つほどの緊張を強いられた。

 だが俺は、そんな動揺など露ほども表に現さない。そのように努める。

 代わりにパーカーに付いた雫を払いながら才川との距離を詰めるべく階段に足を掛けた。


「遥香だけでなく、その男のアバターにもご執心のようだな」


 俺は話の先を促すように目線で答える。内心では、これから何を言われるか分からない不安で吐きそうになっていた。

 お前の正体は分かっている。取引の日に今日を選んだ小賢しい狙いもお見通しだ。と、次の瞬間にも才川が高らかにそう宣告するのではないかと縮み上がっていた。


「何十年も前に流行ったゲームの設定を下敷きにしてるんだってな。この世界モジュールは。もう何百、何千とバージョンの更新が入っているから原型はほとんどとどめていないらしいが……。

 〈鷹宮遥香〉と〈鷲尾覇流輝〉はその登場キャラクターをモチーフにしてるんだと、古い開発ログを漁ってようやく突き止めたよ。

 本当に、お前ら好事家連中は訳の分からんものに心血を注ぐ。お嬢様学校から転校してきた、謎めいた美少女に一目惚れするボーイミーツガールものだったか──?」


 才川の繰り出すその言葉一つ一つが、俺の精神を、鈍く、深くえぐっていた。

 俺にとってそれは、鷹宮から聞いた「この世界は仮想現実である」という話よりよほど重く響いた。予想だにしていない話を突然耳の奥にじ込まれた。今の俺には、その事実を受け止める準備が何一つできていなかったのである。


 世界のありように対する認識の違いは、個人を同定するものが遺伝子の塩基配列によるものか、コンピューター上の数字の羅列であるかの違いだと言い換えることもできる。

 そんな差異には大した感慨を抱かなかった俺でも、その偶然を装った配列に誰かの作為があったと認めることは我慢がならなかった。

 無性に怒りが湧いた。

 怒りとは、おそらく理屈ではないのだろう。


 才川がしたり顔で語るその事実は、俺という存在を無自覚に、それゆえ無情に、暴力的に踏みにじるものだった。

 少しばかりこの世界のことを知って得意になっていた鼻っ柱を強烈な一撃で折られた……、いや、粉々に粉砕されたような思いだった。


 あのときの──複数の人間の記憶を上書きされ、人格をき混ぜられたような感覚に対し、絶望と恐怖に震えていた──あのときの鷹宮の気持ちが、今ようやく、本当の意味で俺にも分かった気がした。


 実際に身をもって体験していない人間に、この嫌悪感に関する共感を求めることは困難だろう。自分という存在が土台から崩れていく──そんな恐怖におののく、その自分の感情すらも何一つ信用できない……孤独、嘆き悲しむ主体さえ失くした孤独が俺をむしばみ覆い尽くす。

 あの日、学校の校門で初めて鷹宮を見たときに抱いた感情。

 身体の内側からにじみ出すように感じられた、理屈では説明できない恍惚こうこつ

 自分自身ですら不可侵と思えていた、あの尊く、触れがたい何かが、全部作り物の、誰かの理屈にまみれた〈設定〉でしかなかったのかという絶望が俺の心を激しくさいなんでいた。



「──なんてことのない陳腐な、子供騙しの青臭い設定だが、お前らみたいな連中はその追体験のためには金も労も惜しまないんだってなあ?」

「……黙れ」


 腹の底から湧き出る怨嗟えんさの感情を絡み付かせ、俺は口からその言葉を吐き出し、ぶちまけた。


「すまない。しゃくに障ったか」


 才川が慌てて顔の前で手を振り、取り繕おうとする。

 奴の狼狽えた表情がよく分かることに驚き、視界に入る景色から自分の位置を確かめる。いつの間にか俺は階段を上りきり、才川のすぐ目の前まで来ていたようだ。


「悪気はなかった。綺麗に謎が解けたことが嬉しくてね。つい夢中になった。こちらに事を構える気はない。動機はともかく、君の持つ技術は買ってるんだ。そのアバターの擬態技術などは特にな。こちらからはどうやって調べてもただのNPCにしか見えん。きっと君が思っている以上に有用な技術だと思うんだが、どうだろう? 今回の取引とは別に技術提携といかないか?」


 俺は答えない。

 まだショックから十分に立ち直れていないこともあったし、的確な受け答えをするには、向こうの技術について俺には知らないことが多過ぎた。


「……分かった。その話は取引を一旦終わらせてからにしよう。お互い信頼できる相手だと見極めてからの方がいい。だが、今の話は憶えておいてくれ?」


 才川は俺が黙りこくった意味を勝手に解釈し、その話を打ち切って屋敷の奥へと俺を招いた。

 才川の後に続き、俺は二階のとある一室へと足を踏み入れる。


 通されたのは鷹宮道実の書斎だ。


 実はこの屋敷の構造は前回の周回のうちにすべて頭に入れてあった。

 実際に中に入るのも今回が初めてではない。前の周回で俺は、鷹宮邸に食材の納入を行っている業者のアルバイトに応募し、密かに下見を行っていたのだ。昭島の提案と手引きがあって叶ったことだ。

 協力してくれた彼女のためにも、このミッションは何としても成功させなければ……。


 書斎に入ったときには俺はもう冷静さを取り戻していた。

 実際にはどこまで冷静だったか分かったものではないが、自覚としてはそうだ。


 俺を支えていたのは、今日ここに臨むまでに培ってきた使命感と、同じようなアイデンティティ崩壊の危機に遭いながら、その現実に対し気丈に立ち向かってみせた鷹宮に対するリスペクトだった。

 どんなに絶望しようとも、その瞬間に自分という存在が綺麗さっぱり消えてしまえるわけではない。仮想とはいえ、曲がりなりにも現実だ。そんなに都合の良いものではありえない。泣こうがわめこうが世界はただそこにあるだけ。

 俺もそう。現実の一部。役目を果たすための存在であり続けよう。


「──鷹宮は?」


 うちのリビングの倍以上ありそうな広さの書斎を見渡しながら俺は訊ねる。

 書斎の中にもここに来る途中にも護衛や使用人などの人影はなかった。


 このときの俺は、才川が無防備に人払いをする理由が思い付かず、何かの企みがあるのではと警戒していたのだが、あとからたっぷりと考える時間ができたときに才川の身になって考えてみると、ある意味これも必然であったと結論付けることができた。

 調べたり、考えたりすることができる十分なインターバルを設けられたことが、却って才川自身を無防備にさせたのだ。自分は何もかも分かっているという自負。紛い物の全能感が奴の足下をすくうことになる。


「会わせると思うか? 分かるだろ。お前がそうであるように、俺にもアレに思い入れがあるんだ」


 俺はもう一度時計を見る。

 ……まだ早い。

 だが、状況はすべて俺にとって都合よく整いつつあった。

 あとはタイミングだけだ。

 どうにか、二人きりでいるこの時間を引き延ばさなければ。


「今の鷹宮と会いたい」

「駄目だ」


「性格が……、気になったんだ。確認したい」

「おい。勘違いするな。中身はやらんぞ。分かってるだろ? 渡せるのはアバターの外見だけだ」


「最初の……、二周前の鷹宮に会いたいんだが」

「はぁ? あの出来損ないが良かったのか? まともに会話にもならなかっただろう? ……あ、いや、すまん。人それぞれだよなあ。だが諦めろ。復元はできん」


「……どういう仕組みか説明してもらっても?」


 才川は俺のことをレトロゲームのキャラクターに執着する上位世界の好事家か何かだと勘違いしている。だと仮定して、そういう人物ならどういうことを望むかと想像しながら俺は用心深く演技を続けた。技術的なことは全く分からないが、オタク的な気質は古今東西そうそう変わるものではないだろう。


「企業秘密だ。だが、これだけは言える。データは不可逆だ。諦めろ。中身は自分で用意するんだな」


 ぎこちない沈黙。


「〈グレイジング〉の一種か?」


 放牧グレイジングというのは、人間がマニュアルで加えた変更を仮想現実世界上で、より滑らかに、より自然に馴染ませるための最適化処理のことだ。バイクやクルマの慣らし運転のようなものらしかった。


 鷹宮から聞いた受け売りの知識。あのときは単に、自分の知的好奇心を満足させるため興味のおもむくまま質問攻めにして手に入れた知識だったが、今はそのとき聞きかじった半端な知識によるハッタリだけが頼みの綱だった。


「それが秘密か? だから何回も同じ世界を繰り返して──」

「しつこいな! まあ、そんなところだ」


 才川が苛立いらだって声を荒げる。

 その一方で彼の左手はこちらに握手を求めるように差し出されていた。


 才川が見せるそんなチグハグさに戸惑い、俺は反射的に手を出していた。

 手を握り合うとすぐ才川が空いているもう片方の手を忙しなく動かし始める。


「どうした? お前も開け。早く済ませよう」


 言われてようやく才川がコンソールを操作しているのだと気付く。

 俺には見えないが、おそらく今、そこにあるのだ。才川の手元に。この仮想現実世界において、プレイヤーだけに用意されたホログラム状の操作端末が。

 それで例の〈量子脳暗号〉とやらのキーをやり取りしようとしているに違いない。


 以前スマホでやり取りした文脈からの推測だが、おそらく〈量子脳暗号〉とは上位世界において一般的に用いられるセキュアな暗号通信なのだろう。仮想現実の世界ではこのように互いに接触し、チャンネルを開かなくては成し得ないような。


「あ、ああ、それなー。ええっと……、俺のはちょっと面倒臭いんだよなー」


 俺はあせりながらも、肩に担いでいたナップサックを足下に下ろす。

 左手を繋いだまま、下手から才川の顏色を窺うと、奴は興味深そうに俺の挙動を観察していた。ありもしないスペシャルハッキングテクのヒントを俺から盗み取ろうとしているのだ。


 そうか。

 見たけりゃ見せてやる。

 俺の取って置きスペシャルを。


 俺はパーカーの前ポケットに手を突っ込んで中に隠し持ったものを探る。

 まだ時間ではないが今やるしかない。

 いや、もはや停電による不意を衝くまでもなく、距離も、体勢も、周囲の状況も、おあつらえ向きに整っていた。


 俺は膝を伸ばすその立ち上がりしな、右手に掴んだスタンガンを水平に滑らせ才川の横腹に当てた。

 バチリという凶悪な音。同時に俺自身も身体をのけ反らせる。


 ここでまた教訓が生まれる。

 衣服が濡れているときにスタンガンを使用してはいけない、だ。

 特に限界を超えて威力を上げた改造スタンガンの場合は。


 思わず右肘に走った痛みで俺は握っていたスタンガンを床に落としてしまう。

 だが、才川の身体に走った衝撃はそんなものでは済まなかったらしい。ビクリと身体を跳ね上げるまでは俺と同じだったが、身体を棒切れのように硬直させたままドスンと前のめりに倒れてしまう。

 そのまま意識を失ってくれれば良かったのだが、そこまで甘くはなかった。


「な、何を……?」


 うつぶせになった身体を僅かに起こしながら俺の方を呆然と見やる才川。

 俺はまだ痺れが残る手で床に落ちたスタンガンを拾い上げ、今度は才川の首筋に押し当てボタンを押し込んだ。

 だが、反応がない。


 まさか、落とした衝撃で故障したのか⁉

 焦る俺を尻目に才川がヨロヨロと右手を上げる。


 ──ヤバイ。今こいつにログアウトされたら計画が台無しだ!


 果たして奴がコンソールを操作する前にそれが間に合ったのかどうか……。

 そこが重要だったが、どのみちそのときの俺には考えている余裕も他の選択肢もなかった。

 とっさに身体を起こすと、俺は才川の側頭部目掛けて渾身の力でサッカーキックを見舞っていた。

 振り抜いた足の甲に重い衝撃が伝わる。

 蹴り終えた後で向き直ると、才川は身体を横向きに寝かせて昏倒していた。

 動き出す気配は……ない。


「ま、まあ……、因果応報ってやつだな」


 そう自分に言い聞かせて全身の震えをどうにか落ち着けようとする。

 本当は停電の暗闇に乗じて不意を衝くつもりだったが、なかなか想定どおりにはいかないものだ。


 ここで才川に死なれても困るので、俺は寝ている奴の息と脈があることをもう一度慎重に確認する。それから床に横にしてあったナップサックの口を開き、中から一本の注射器を取り出すと、才川の袖を捲くって静脈にそれを注射した。


 昏睡したままの才川の身体を背中に担ぎ上げ、書斎を出ようとしたときになって部屋の電灯が明滅する。

 電灯を見上げたまましばらく待つと、数秒後に完全に消灯し、それから再び点くことはなかった。

 一旦屋敷の自家発電に切り替わり、またそれがショートしたか電力不足になったかで死んでしまったのだ。この日鷹宮邸で起きるトラブルについて、予め昭島から聞いていたとおりの展開である。


 まあいいだろう。これはこれで丁度良い。いや、むしろ最高のタイミングだ。

 俺は書斎の扉を閉め、真っ暗になった屋敷の廊下を記憶を頼りに歩き出した。

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