◆7月27日 水族館デート(4)

 俺が返事を返さず黙ってしまったので、鷹宮はそれでこの話題はひとまず終わりと考えたのか、足を止めていた水槽の前から離れ、再び薄暗い通路の先へと歩き始める。

 俺もそれに従い、少し離れて鷹宮の後ろを歩いた。


 相変わらず周囲に俺たち以外の人影はない。

 今のところ、後ろから昭島やミノ先輩が追って来る気配もなかった。

 どこか分からない遠くの方から子供たちのはしゃいだ声が反響して聞こえているので、まったく人がいないというわけではないはずだが。もしかすると、この辺りは入場客の主要な回遊ルートから外れているのかもしれない。


 曲がりくねった通路は緩やかな下り勾配になりながら続いていた。壁や柱には小さな水槽が点々と展示してある。この辺りは深海系の魚やクラゲなどの海洋生物が多いようだ。


「そういえば俺たちの本来の目的の方はどうだ? 何か思い出すことはあったか?」

「ああ。俺の前世は深海魚ではないらしい。一歩前進だな」


 淡々と話すせいで、それが本気なのか冗談なのか分かりづらい。今のはたぶん後者だろうが。前者なのだとしたら、いよいよ鷹宮の精神状態は危ないと言わざるを得ない。


「そもそも。前も言ったけど本気で俺の記憶を呼び起こす刺激を探すなら、もっと男らしい場所を選ぶべきだろ」

「いや、俺も前に言ったけど、男らしい場所ってどんなだよ?」


「それは分からんが、男の俺が行ってそうな場所だよ」

「水族館だって来てるかもしれないだろ? 本当に鷹宮が男だったなら、彼女をデートに連れて来てたかも。今の俺みたいに」


 いま俺たちはまさしく男女のデートをしているのだぞと意識させようとして、そんなふうに言ってみたのだが、上手く伝わらなかったのか鷹宮の反応は薄かった。


「いや、絶対にないとは言わんが、忘れている記憶を揺さぶるような刺激が要るんだから、そんな一度や二度立ち寄ったかもしれないデートスポット的な場所を回っても、望み薄というかだなあ……」

「強い印象を残す場所なんて。それこそ人による話だろ? ある程度人物像が絞れてるんならともかく」


 この議論では明らかに俺の方に分があった。鷹宮の希望がどうにもフワッとしているせいだ。


「とにかく数撃ちゃ当たる方式で試すしかないんだよ。それに、記憶なんて仕組みもよく分かってない不確かなもんなんだから。インパクトの強さとか関係なく、案外なんてことのない、ふとしたことが引き金になるかも」

「……そんなこと言って、俺を自分の女みたいにして連れ回したいだけじゃないのか?」


「そうだよ?」

「あ、おい。開き直るな」


 鷹宮が後ろ向きに歩きながら俺のことを睨む。


「危ないから。ちゃんと前見て歩けよ。コケるぞ?」


 鷹宮は足下の傾斜に目をやり、一旦は口を開きかけたものの、反論する言葉に詰まって気色けしきばむ。

「……お、おぉんな扱いすんなよ!」


「女扱いっていうか、今のは子供扱いだろ」

「どっちにしろだ」


 俺に追いつかれそうになると鷹宮は急いで向きを変え、バタバタと小走りにして距離を取った。


 どうしよう。楽し過ぎる。


 俺も頑張るからと約束した矢部には悪いが、ぶっちゃけると俺的には今のこの状況でも十分満足できてしまっていた。

 私服の鷹宮を眺めているだけで眼福だったし、真偽はさておき、二人だけの秘密を共有している共犯者めかした関係も居心地がいい。ずっとこのままというわけにはいかないが、とりあえず今は、こういう何ということのない会話を続けていたいというのが正直なところだ。


 いやむしろ、彼女の失くした記憶というのが俺の予想どおりで、思い出すのも辛いものであったのなら、このままずっと思い出さないままでいられた方が良いのかもしれない。



 小さなトンネルのような天井の低い通路を抜けると、その先は左右を巨大な水槽に囲まれた吹き抜けの空間になっていた。明るいというほどではないが、先ほどまでいた通路との対比で、鮮やかな水槽の青さが眩しいくらいだった。


 水槽の中をいくつもの魚影が横切っていく。上の方では橋梁のような通路が三本ほど交錯しており、客の大半はその通路に立って林立する巨大な水槽を見下ろしていた。

 俺たちと同じ最下部にいる入場客は上層に比べるとまばらだった。ここからでは水槽全体に目が行き届かず、それが不人気の理由なのかもしれないが、それでも、そびえるように立つ巨大な水槽を下から見上げるこの景観も相当なものだ。


「凄ぇな。この水族館ってこんなデカかったんだ」

「ああ……」


 鷹宮もこの幻想的で壮大な光景を前に呆気に取られているようだった。

 鮮やかな青色を前に、一心に見惚れているその様子は、逆光の陰影に沈んだ後ろ姿でさえ、一枚のスチルのように見映えがする。


「こういうの、叩き割ったらどうなるかって想像したらワクワクしないか?」

「はあっ⁉」


 愛くるしい見た目や仕草、上品な服装に似つかわしくない暴力的な発言。その激しいギャップに思わず大きな声が出た。


「えっ、ならないか。意外だな」

「意外はこっちの台詞だ」


「男だったらそういう想像するもんだろ?」

「それって男は暴力的だとかいうステレオタイプか? 最近そういうの厳しいぞ?」


 男であらねばという強迫観念が鷹宮にそういう発言をさせるのだろうか。

 しかし、普段の鷹宮を観察していても特別粗暴な行いは見当たらない。むしろ、いいとこのお嬢様らしい仕草が板に付きすぎて、お前絶対女だろとツッコミたくなることがしばしばだ。

 もっともそれは、彼女のことを普通の女子だと思いたい俺のエゴが、無意識に自分を偽り、そう見せているだけかもしれないのだが。


「あっ、そうだ。そういや鷹宮女学院タカジョで前科があるんだったな」


 ふと記憶の中から手繰り寄せた鷹宮の暴力的エピソードを脊髄反射で口に出す。

 そういえば俺も投げ飛ばされた被害者だった。他の想い出が楽し過ぎてうっかり忘れていた。

 もしやあれらは、男であろうとする彼女のストレスのけ口として噴出した暴力衝動だったりするのだろうか。男でありたいのに、身体はこれ以上なく完全な女であることに拒否反応を示し、どうにかして男というものを表現しなければいられなかったから……。

 そういう仮説も成り立つのか?


 俺はなんとなく上手くハマったように感じる自分の考えに夢中になった。が、それはその次に繰り出された鷹宮の自白によってあっさり否定される。


「あーうん、あれな……。あれは別に暴れたくてやったんじゃないぞ? あれは一種の実験だったんだ」

「実験?」


「ハルキはこの世界が作り物なんじゃないかって考えたことはないか?」

「…………」


「実はこの身体で目覚めたとき、最初に感じた直感がそれだったんだ。

 突然見知らぬ誰かとして生まれ変わって……、それがこんな非の打ちどころのない美少女のなりで、しかもいいとこのお嬢様だろ? 出来過ぎというか、嘘臭いというか、如何にもな作り物っぽいじゃないか」

「……ゲームみたいだってか?」


「あっ、そう。なぁんだ。やっぱりハルキもそういう想像したことがあるんじゃないか」

「まあ……人並みにはな」


「ゲームなら、強い負荷を掛けたらするんじゃないかと思って……」

「ああ? もしかして、そんな理由でガラスを割って回ったのか? 何枚割ったか知らねーけど、そんなことで処理落ちなんかしてたら世話ねーだろ」


「物理演算的な描画という意味でもそうだが、このお嬢様の役割を逸脱した行動を取るとどうなるかって試したかったんだよ。

 いやー、しかし大失敗だった。何も起こらない上に、単にこの鷹宮遥香という女の立場が悪くなっただけで……。それで転校する羽目にもなったし、さすがにりてそれ以降は大人しくしていようって決めたってわけだ」

「呆れたな……」


「まあ、そう言うな。お陰でハルキと会えたのは怪我の功名だろ?」

「ん、んー。そ、そうか……」


 そんなふうに言われると弱い。

 おまけにその笑顔だ。

 俺に関しては言わずもがなだが、鷹宮にとってもこの出会いは好ましい結果と思われているのだと、はっきり分かったことに俺はたじろぐ。

 たとえ向こうは男女の間柄という認識ではないとしてもだ。

 好意を寄せている女子から、会えて良かったね、なんて言われてみろ。履違えや深読みをするなという方が無理な話だ。


 そんな照れ臭さを隠そうとして俺は鷹宮から視線を逸らす。ちょうどそのとき、鷹宮が背中を向ける水槽の中に一際大きな影が揺らめいた。


「おぉ……。凄ぇぞ。見てみろ」


 鷹宮の注意を引くつもりで指を差したのだが、そうする俺自身、そのあまりの大きさを間近にして圧倒されていた。

 鷹宮が俺の指し示す方向を追い、いまや視界の半分ほどを埋め尽くすその巨大な影を見上げる。


「…………」


 離れていても鷹宮の息を飲む音が聞こえてきたくらいだ。


 まさに絶句。というやつだろう。


 その有無を言わさぬ大きさの前では、人は誰しも畏敬の念に打たれるものなのかもしれない。

 鷹宮はガラス越しに漂う巨大なジンベイザメを見つめたまま身体を硬直させていた。


 体表に規則的な白い斑点を浮かび上がらせた巨体が、水槽の上層からゆったりと漂い下りてくる。

 ジンベイザメが俺たちと同じ目線の高さまで下りて、その前を通り過ぎ、背中と尾ひれしか見せなくなってもなお、彼女はそれを見つめ続けていた。


 俺が近寄り真横に立ってもそれを気にする素振りもない。目を大きく開き、食い入るようにガラスの向こうの神秘的な存在に見入っている。

 俺も他人のことはいえないが、周囲に対する無関心な態度が板に付いている鷹宮に少なからぬ感動を与えられたことに対し、俺は連れてきた甲斐があったなとしばし悦に入る。


「さすがにちょっと驚き過ぎじゃないか? そんなに気に入ったか?」


 俺は手の平を広げ、それで彼女の視界を遮るように振ってみる。

 鷹宮が、ハッと息を吸い、俺の方を見た。

 その瞳は未だ驚きによって見開かれたままだ。

 続いて、自分の着ているワンピースを舐めるように見返し、手で触れ、両腕を撫で擦る。そこでようやく俺は鷹宮の様子がただごとではないことに気が付いた。


「どうした? まさか、何か思い出した、なんてこと……」

「……あ、ああ……。思い出した」


 鷹宮がようやく放心状態から脱して言葉を返す。

 思い出しただって? まさか!?

 自分で口に出したことなのに、肯定されると自分でも信じられないほど動揺が広がった。


「ハルキ……」

「なんだ?」


 俺のなんてことのない返事に対し、鷹宮はさも意外そうな表情を見せる。

 その鷹宮の反応に俺はショックを受ける。


 これは俺の自意識過剰な思い込みかもしれないが、俺たちの間にはある種、連帯した仲間意識が芽生えていたはずだった。たとえ仮初めの関係でも。鷹宮が本当は何者かという前提が保留のままでも。俺は今の鷹宮を一人の対等な人間として信頼していたし、それは鷹宮から見た俺についてもそのはずだった。そうだと思っていた。

 その繋がりが、今はまったく感じられないのだ。今の俺たちの間には、絶対に越えることのできない、見えない断絶があった。

 あまりにも唐突に生じた変化に、俺は戸惑い、不安に駆られる。


「ハルキ……。そうだよな。分かった……」


 その言葉は、俺に対してではなく、自分の中で何かを確認するように呟かれていた。

 俺から顔を背け、視線が自分の足元へと落ちる。


「待て。待て待て。それはないぜ」


 俺はとっさにそんな鷹宮の両肩を掴んでいた。

 身体を真正面に向け、俺の顏を見るように促す。


「何か思い出したなら共有してくれ。整理するのに時間が掛かるというなら待つけど、そのまま、一人だけで分かって抱え込むのは……なしだ! そういう約束だったはずだ」


 肩を持つ手に力を込め、その身体を揺する。

 鷹宮の薄い両肩を、同意もなく、こんな乱暴に鷲掴みにするのは俺の性分に反することであったが、そんなことを気にしている場合ではなかった。

 いま必死に呼び掛け、ここに……、俺のもとに繋ぎ留めないと、鷹宮がどこかへ行ってしまうのではないかという切実な恐怖が俺を衝き動かしていた。


「お、落ち着けよ」


 鷹宮が落ち着きのない声でそう言い、彼女の細く冷たい指が俺の手の甲に触れる。彼女の左肩を掴む俺の手を撫でるように触れ、そこから退かそうとする。

 そのかすか過ぎる力に、俺は泣きたくなるほどの不安を募らせ彼女の右手を取った。

 両手で包むように小さな手を握り、彼女の瞳を覗く。


「落ち着くのはお前だろ、鷹宮」

「い、いや……。やっぱり落ち着くのはお前だ。ハルキ。ちゃんと話すから、落ち着いて聞け?」


 鷹宮の瞳は確かな意思を宿し俺の目を見返していた。

 間違いなく正気の目で、彼女は言った。


「よく聞け、ハルキ。俺たちは、

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