第12話 親友

 帝都士官学校の修練が休みとなる週末。アリサの部屋にチカコが訪ねて来た。

「天気も良いし、たまには皆で街に出ないか? せっかく異国に来ていると言うのに、修練や勉強ばかりではつまらないだろう」

「アルマ、どうする……?」

 アリサは振り返って、部屋に居るアルマに目配せする。

 アルマはアリサの机の隣に立ち、分厚い教材のページをぱらぱらと捲って勉強を教える準備していた。

「え……? でも今日はアリサの番だよ?」

 アルマは教材から視線を上げると、目を輝かせて何かを訴えるアリサの顔が見えた。

「顔に行きたいって書いてあるよ……?」

 大丈夫かなぁ、と苦笑いしつつもアルマは仕方なく付き合うことにした。

 こうして部屋に居たアルマも巻き添えにし、三人は街へとくり出した。

 普段、士官学校と寮の往復の生活をしている三人は、街の喧騒の中を歩いているとそれだけで気が紛れた。

 チカコは特に文化が全く異なる神楽の国から来ていることもあって、見るもの聞くもの全てが目新しいらしい。

 道に並ぶ露店を食い入るように一つ一つ見ては、気さくに商店の販売員と談笑していた。

 アルマはアルマで、台地の端にある魔動式の大きな昇降機や通りに並んでいる魔力灯に、眼鏡を光らせながらニヤニヤした顔で理解不能な言葉をブツブツと呪文のように呟いている。

 そんな彼女たちと一緒に歩いて疲れたアリサは、二人から少し離れた場所で一人休んでいた。

 すると背後から突然、後ろから腕が伸びてきて身体を持っていかれた。

「きゃああああっ!?」

 アリサは悲鳴を上げる。

 しかし、活気のある露店街の賑わいに悲鳴はかき消された。

 細い路地裏に引きずり込まれる。

「やっ! 離して!」

 アリサは振りほどこうとした時にその人物の顔を見た。

 髪も髭も伸びっぱなし、服も色褪せていて、いかにもみすぼらしい風体の男だった。

 しかし、男は思いのほか身体が大きく力が強い。

「すまない! 許してくれ!」

 アリサの両肩を掴んだ男は、意味不明なことを喚いていた。

「……賊、その手を離しなさい」

 女の声がした。

 アリサが声の方を見ると、帝都士官学校の女子の制服が目に入った。

「コトネ……!?」

 アリサはその女子生徒の名前を呼ぶ。

「その方は私の友人です。離さないならば、覚悟して頂きます」

 コトネは番の短刀を両手に構えている。静かに話しているのに、その瞳には一瞬の隙さえ許さないような強烈な威圧感があった。

 怯んだ男はアリサを掴んだ手を離すと、踵を返して路地の奥へと猛然と走って逃げた。

「アリサさん、こちらです」

 コトネは男が逃げて行くのを見送ると、アリサの手を取った。

「あっ、アリサ!」

 大通りに出ると、アルマがチカコと一緒に駆け寄って来た。二人ともアリサが居なくなったことに気が付いて探していたらしい。

「どうしてそんな細い路地に? 何かあったのか?」

 チカコが不思議そうに聞いた。

「アリサさんは、浮浪者に襲われていました」

「誰!?」

 アリサの背後の路地から急にコトネが出て来て、アルマは驚いた顔をする。

「コトネだ。私の護衛役の……」

 チカコが何故か苦々しく言う。

 闘技場に不法侵入して私闘をして以来、関係が悪くなったコトネは、チカコの目につかない場所から護衛をしているようだった。

「大丈夫でしたか?」

 コトネはアリサの顔を覗き込んで言う。

「う、うん、平気……。ありがとう」

 アリサはさっきまで男が居た場所を振り返った。男は逃げたのか、もう姿が見えなかった。

「浮浪者? 城下街には居ないと思ってたけど……」

 アルマは恐ろしげに狭い路地の奥を見つめている。日があまり入らず薄暗い。

「早く行こう。そうは見えないが、この辺りはあまり治安が良くないらしい」

 チカコが視線を左右に動かして周囲を警戒しながら言った。

「どうか、したのですか?」

 コトネは立ち止まったままのアリサに聞いた。歩き出していたチカコとアルマも不思議そうに振り返る。

 アリサはまだ男の逃げて行った路地の奥を見ていた。

「う、うん……。今の人、見おぼえがある気がして……」

「この街に知り合いが居るのですか?」

 コトネが首を傾げるが、アリサは首を横に振る。

「ううん、居ない……。おかしいよね。たぶん、気のせいだと思う」

 

 日も傾いて来たので、一行は寮へと戻ることにした。

 寮の入り口へと着いた時、アルマは思い出したように「あっ」と声を出して立ち止まった。

「……私、手紙もらって来るから先に戻ってて」

 とアルマに促され、アリサとチカコは先に部屋へと戻って行った。コトネはいつの間にか、また姿を消していた。

 アルマは庭園の中にある書簡保管所の建物へと向かう。

 建物に開いた窓口を覗き込む。

「あの、すいません!」

 と声を掛ければ大抵、書簡を管理する士官学校の職員がどこかに居て顔を出してくる。が、今日は見覚えのある顔が奥から現れた。

「はい……」

 ルフィナだった。

「ルフィナ? どうして保管所の中に居るの?」

 アルマはきょとんした顔でルフィナの仏頂面を見つめる。

「別に、ここでバイトしてるだけ」

「え? パン屋さんは?」

 ルフィナがパン屋で働いていることを知っていたアルマは、子供っぽい大きな瞳を丸くして首を傾げる。

「火事で焼けたわ」

 ルフィナは相変わらず仏頂面のまま言う。

「ええええ!? ウソぉ!?」

「それ、私の台詞なんだけど……」

 絶叫するアルマに、ルフィナは嘆息を漏らす。

 ルフィナのような実績のない田舎者を労働者として雇う職場で、条件の良いところは帝都にほとんどない。まして、住み込み可の働き先ともなるともっと数は限られる。

 住み込みで働いていたパン屋が火事で燃えたと知ったルフィナは、何とかして住み込みですぐに働ける仕事を探して寝食を惜しまず駆けずり回った結果、士官学校の書簡管理の仕事が見つかった。

 士官学校の管理課に事情を話すと幸い士官学校の生徒ということで、特例的に寮に入って働くことが許された、と言う。

「私、呪われてるのかな」

 ルフィナはカウンターに肘をついて疲弊した顔で言う。もはや怒りすら沸いて来ないらしい。

 

 そして翌週、講義室でルフィナはまたしても頭を抱えて絶叫していた。

「ああっ! また無くなってるぅっ!!!」

「あの……ルフィナ、大丈夫?」

 心配したアリサがゆっくり近付いて来て聞く。

「大丈夫じゃないわ……。もう四冊目よ? こうなったらもう絶食でもしないと……」

 憔悴しきったルフィナは声が掠れている。

 するとアリサが目の前に自分の教材を差し出した。ルフィナは「え?」と見上げた。

「よかったら、今日は私のを貸してあげる」

「え……!? アンタだって成績ギリギリなんでしょ!? いいの?」 

「私、次の講義も眠くて寝ちゃうと思うから」

アリサは照れ笑いを浮かべている。


(いや、寝るな)

 離れた位置でその騒ぎ聞くロマンは苦い顔をしている。

 

 また、別の場所でアリサと一緒に座っていたアルマは心配そうに成り行きを見守っていた。

「ねぇ、ヒルデグント、私たちも……あれ?」

 とヒルデグントの方を振り返ると彼女が居なくなっていることに気が付いた。

「……ヒルデグント?」

 アルマはついさっきまでヒルデグントが居た空間を不思議そうに見た。


 重厚な装丁の分厚い本が、空中でページをパラパラと捲りながら落ちる。帝都士官学校の教材はこうした立派なものが多く、ちまたで手に入る本よりも遥かに高額である。

 空中を舞っていた本は、堆積されていたゴミの一番上に落ちた。

 ぽっかりと開いた穴から、ヒルデグントはそれを見下ろしている。

 ヒルデグントは士官学校の庭園端、あまり人の立ち入らない小さな広場に居た。背の高い生垣いけがきに囲われたこの場所に、広場があることを知っている者は、あまり多くない。そんな広場にもご丁寧に黒い鉄製のゴミ箱が設置されている。清掃担当者は外部の人間を安い賃金で雇っている上に、少ない人数で広い庭園を毎日欠かさず手入れしているため、ゴミの内容をいちいちあらためない。

 ヒルデグントはルフィナから教材を奪うと、いつもここに捨てていた。

 もう一冊を捨てようと本をゴミ箱の上に持って行った時、ふと使い込まれた教材を見て手を止めてしまった。何度も勉強したのだろう。紙がくたびれてしまっている。

 自分は今、せっせとその努力の痕跡を汚いゴミの中に捨てている。

(やらなきゃ駄目)

 と自分に言い聞かせると、手を放そうとした。

 葛藤に頭を支配されていたヒルデグントは気が付かなかった。

 あまり人が立ち入らない筈の広場の入り口に、誰か人が立っていたことを。

「ヒルデグント……?」

 聞きなれた声に驚いて振り返る。

 アルマは純粋で人を疑うようなことはしない。まして、親友のヒルデグントなら当然である。

 しかし、その一方で気になることは研究者としての気質なのか、察しが良すぎるところがある。

「なに、してるの?」

 アルマが怯えた目でこちらを見ていた。

「それ、誰の……?」

 アルマの問いに、ヒルデグントは驚いた顔のままで沈黙している。

 しかし、それが何よりの回答だった。

「あ、アルマ……こ、これは……」

 震える声で言いながら、ヒルデグントは歩み寄ろうとした。 

「近寄らないで!」

 アルマから聞いたこともない鋭い声で拒絶される。

 眼鏡の下の大きな瞳からは、軽蔑の眼差しが向けられている。

 アルマは背を向けて行ってしまった。

 

 ヒルデグントはアルマが行ってしまった後、腰が抜けたように広場のベンチに座り、しばらく立つことが出来なかった。


 実の親から無理矢理引き離され、ローデンバルト家に無理やり養子に迎え入れられた時、彼女は本来の笑顔を失った。

 社交の場では取り繕った微笑を浮かべれば、彼女の美貌に大抵の人間は好意を持った。それ以外の場で彼女が笑顔を浮かべることは無かった。

 そんな彼女に再び笑顔をもたらしたのは、故国の学園で出会ったアルマだった。

 ヒルデグントの入れられたアカデミーは、身分の高い家の子供ばかりが居るだけに打算と体裁ばかりの交友関係が蔓延っていた。その中で唯一と言って良いほど、彼女は純粋だった。

 彼女が研究好きであったことも関係があるのかもしれない。幼い頃から魔術の奥深い世界に興味を持ち、それを追究して来た彼女にとっては、打算や体裁などどうでもいいことだったのだろう。

 彼女は子供の時の心境のまま、ただ好きなものを追ってその場に居たに過ぎない。

 そんな彼女にとって、いつも愛想笑いを浮かべているヒルデグントは不思議に映ったらしい。


「ねぇ、本当は楽しくないんでしょ? どうしてそんな風に笑うの?」


 と目を丸くした彼女に聞かれたのが、初めての会話だった。

 純粋な彼女と話していると、寂しさが紛れた。

 だからこそ、ヒルデグントにとって彼女の軽蔑の視線は、ナイフで胸を抉られるほどに辛かった。

 

(それでも私は、もう後には引けないのよ)

 ヒルデグントは立ち上がった。膝に抱えたままだった本を黒い鉄のゴミ箱へと投げ捨てる。冊子は重い音を立てて落ちた。

 ヒルデグントは、広場を去って行く。

 

 講義室に戻ったアルマは、「貸す」「貸りない」の問答を繰り返すアリサとルフィナの元へと行った。

「これ、私の教材。全部使って良いから」

 抱えていた自分の教材を全部ルフィナの目の前にずしりと置く。

 あまりに唐突なので困惑した顔でルフィナは見上げる。

「え、良いってば……私、借りを作るのは……」

「良いから!」

 どこか悲壮感を漂わせ、アルマは遮るように言う。

「分からないところがあったら、全部、私が教えてあげるからね」

「え、うん……ありがと」

 ただならぬ雰囲気のアルマにルフィナは気圧され、思わず受け取ってしまった。

 そして、アルマは逃げるように講義室を出ていく。

「アルマ……?」

 アリサはその背中を不思議そうに見つめる。

 

 それからアルマは、講義の時間はいつも一緒に座っていた筈のヒルデグントをほったらかしにしてルフィナの近くに座り、熱心に勉強を教えるようになった。

 事情を知ってか知らずか、アリサはヒルデグントの近くを離れなかった。

「アリサ。別に、私と一緒に座る必要はないわよ」

 講義が終わった後、ヒルデグントは敢えて突き放そうとしたが、アリサは頑なに首を横に振った。

 しかし、すぐにアルマが歩いて来て引きずるようにアリサを連れて行った。

「アリサも私と一緒に座るの! 勉強教えて欲しいんでしょ!?」

 アルマに手を引かれながら、アリサは心配そうにこちらを見るが、ヒルデグントは意にも介さないように顔を背けた。

 

「ねぇ、アンタ……」

 ある日の講義後、ルフィナは廊下でアルマを呼び止めた。

「教えてくれるのはありがたいんだけど、正直、ちょっと怖いんだよね。どうして、そこまでしてくれるの?」

「アリサ、ちょっと先に行っててくれる?」

 アルマは隣に居たアリサの方を向く。

「え、でも……」

 アリサは心配そうな顔をする。

「大丈夫! 勉強なら、後でちゃんと教えてあげるから」

 アルマは笑顔でアリサの肩を叩いた。

 アリサは何かを言おうとして口を開きかけたが、背後から誰かの手が伸びて来て彼女の襟を掴んだ。

「心配は無用よ。アリサは私が面倒を見るわ」

 アリサの背後からシエルが現れ、そのまま引きずって行った。

「え!? アルマ助けてぇ!」

「助け……!? あなたね……! 座学の講義中は寝てばかりのくせに他人に教えてもらおうなんて恥を知りなさい!!!」

 シエルの怒鳴り声と共にアリサは連行されて行った。

 アルマは呆れ顔でそれを見送った。

 お騒がせ姉妹である。

 気を取り直して、アルマはルフィナの方へ向き直る。

「……ちょっと、別の場所で話しても良いかな?」

 とアルマはルフィナを庭園へと連れ出した。

 

「そんな深刻な事情があるの……?」

 庭園の人気のない場所に連れて来られ、ルフィナは不安そうな顔をした。

 アルマは振り返るといきなり「ごめんなさい!」と悲痛な顔で頭を下げた。

「えっ、どうしたの、急に!? 私に謝ることなんてある!?」

「……あなたの教材が無くなったことなんだけど、私の友達のヒルデグントがやったみたいなの」

「えっ……? どうして?」

「理由は、分からない。でも、ヒルデグントがあなたの教材を捨ててるところ見たから、間違いないの」

 ルフィナは絶句している。

「だから、友達の私が責任を取らなきゃいけない……と思って」

 言葉が途切れる。アルマの目は涙ぐんでいた。

 ルフィナは重々しくため息を吐いた。

「……とりあえず、理由が分かって良かったわ。これ以上は無くならない、と思ってて良いのよね?」

 ルフィナの言葉にアルマは必死に何度も頷く。

「うん! それだけは私が絶対に許さないから安心して。だから、講義の時は私と一緒に行動して欲しいの」

「わかった。仕方ないわね」

 アルマの申し出をルフィナは渋々承知した。

 その後、アルマはルフィナに付きっきりで勉強を教えることとなり、アリサはシエルとマリアナにを受けることとなった。

 

 帝都士官学校が休みのある日、一人の女性が庭園内を訪れた。きれいな長い黒髪を後ろで一本の三つ編みにまとめ、簡素な服とスカートに身を包んだ彼女は、庭園に入ってすぐの場所にある書簡保管所で立ち止まった。

「あのすいません……。お尋ねしてもよろしいですか?」

 女性はカウンターに居たルフィナに聞いた。

「アンタ、誰? ここは士官学校の生徒用の郵便を預かる場所よ」

 ルフィナはその女を見た。ここの生徒ではないのは明らかだった。

「私、こちらの士官学校の生徒、ヒルデグント様のご実家で使用人をしておりましたエリカ・グラーベンと申します」

「え? ヒルデグントの……?」

「知っていらっしゃるのですか? ヒルデグント様はどちらにいらっしゃいますか?」

 関係者のようなので、ヒルデグントの寮の部屋を教え用と入寮者の生徒の名簿を確認してみると、名前が無かった。

「あれ、無い。おかしいわね……」

 調べながらルフィナは怪訝な顔をする。

「どうかなさったのですか!? お嬢様の身に何か……!?」

 エリカはカウンター越しに身を乗り出して聞く。ルフィナは驚いて仰反る。

「え!? いや、寮の名簿に名前が無いの。だから、たぶん、どこか別の場所に住んでるんじゃない?」

「ここに、居ない……!?」

 使用人のエリカはしばらく呆然とした後に

「そうですか……ありがとうございました」

 と丁寧に頭を下げ、去って行った。

 

 エリカは途方に暮れて庭園を彷徨さまよっていると、知った顔を見かけた。

「アルマ様!」

 急に声を掛けられたアルマは驚いて目をぱちくりとさせる。

「あれ、エリカさん!? どうしてここに居るの!?」

 ローデンバルト家へ帰った筈のエリカだとわかり、さらに驚く。

「ヒルデグントお嬢様と、一緒ではないのですか?」

 アルマは「ヒルデグント」と聞くと表情が曇った。

「何か、あったのですか……?」

 それを察したエリカは、身を乗り出してアルマに迫る。

「喧嘩したの……」

 アルマは暗い表情で顔を背ける。

「お二人が、喧嘩……?」

 ヒルデグントが故国に居た頃、彼女からアルマの話をよく聞いていた。実際にヒルデグントが屋敷に連れて来たこともある。ヒルデグントはアルマの前では、子供のような素朴な笑顔を見せていた。エリカは、一番近くに居る自分がそうさせてやれていないことに少し悔しい思いをしたことを覚えている。


「……ヒルデグントは、平民の女の子がやっとの思いで買った帝都士官学校の高い教材を、盗んで全部捨てちゃったの。だから、私、どうしても許せなくて……」

 アルマは士官学校でのヒルデグントの振る舞いを語っている。

「そんな……」

 家の事情を知るエリカは、それ以上聞かずともヒルデグントが置かれた状況が大体分かった。かなり精神的に追い詰められているようだ。

 エリカは訴えかけるようにアルマの両肩を掴む。

「アルマ様、違うのです! それはきっと婚約のせいなのです」

「婚約……って? え!? なんの話ですか、それ!?」

 アルマは初耳のことに驚く。

 エリカはハッとして周りを見回すと、人気のない場所にアルマを連れて行く。

 そして、ヒルデグントが本当は帝国のレオニート皇太子の婚約者としてローデンバルト家から捨てられたこと。帝国側は受け入れするかどうか決めかねており、ヒルデグントの立場は宙に足の浮いた状態であるということを話した。

「……きっと、ローデンバルト家は再びヒルデグントお嬢様が戻ることを受け入れないでしょう。婚約に失敗してお嬢様が国に戻れば、共和国内でのローデンバルト家の信用は地に堕ちます」

 話し終えると、エリカは悲痛な顔で胸を抑えた。

 ヒルデグントを妹か娘かの如く可愛がって来たエリカにとって、彼女の今の苦しみは耐え難いことだった。

「そんなことが……?」

 急に受け入れるにはあまりに大きな話だったのでアルマも唖然としていた。

「アルマ様もヒルデグントお嬢様の性格をご存じの筈です! 何の理由もなしにそんな酷いことをするお方ではありません! どうか、お嬢様の居場所をお教えください! どうか……!」

 エリカは、とうとうアルマの前に泣き崩れた。

 突飛な話ではあるが、これまでのヒルデグントの言動を思い返すと心当たりがあるように思えた。

 アルマは前に一度ヒルデグントが寮に居ないことを何故かと尋ねたことがあるのだが、彼女は答えなかったし、一緒にいる時、心ここにあらずという顔をしていることが何度かあった。

 何より、使用人のエリカが共和国から遠路はるばるここまで嘘を言いに来る理由が見つからない。

「分かりました。でも、私もヒルデグントがどこに住んでいるのか分からなくて……。週明けには会えると思うんですけど」

 アルマは屈みこんで、蹲るエリカの肩にそっと手を置く。

「話してくれて、ありがとうございました。きっと、本当は話しちゃいけないことですよね?」

 アルマの言葉に、エリカは頷く。

「はい。でも、構いません。私、お屋敷の使用人は辞めて参りましたので」

「え……!?」

 驚くアルマを他所にエリカはゆっくりと立ち上がった。

「アルマ様、ありがとうございました。私は帝都で泊まれる場所を探します」

「えっ!? エリカさん!?」

 そのまま足早にエリカは行ってしまった。内心の動揺を抑えられないアルマは、呆然とその背中をただ見送ってしまった。

 

 アルマと別れたエリカは、服の袖で涙を拭きながら庭園を足早に歩いて出て行こうとする。

「ねぇ、お姉さん、大丈夫?」

 すれ違いざまに鮮やかなオレンジ色の髪の青年が声を掛けて来た。

「え……?」

 エリカは背の高い青年を見上げる。

 見上げた彼女の黒い瞳は涙で潤み、まぶたは赤く腫れぼったくなっている。

(俺、こういう弱ってる感じの女の人、ほっとけないんだよねぇ)

 青年は下心を膨らませながら白い歯を見せて微笑む。

「泣いてるの? 俺、オレク・クリシュトフ。良ければ力になるよ?」

「ありがとうございます……。人を探していたのですが、結局見つからなくて」

「どんな人か教えてくれる? 俺が知ってる人かも」

「はい、ヒルデグントという、ヴァナヘイム共和国のローデンバルト家のお嬢様なのですが……」

「ん? ヒルデグント?」

 それなら毎日、レオニートの部屋で使用人の口から聞いている。

「どちらに居るかご存じなのですか!?」

 エリカは縋るようにオレクの両肩を掴んで迫る。

 あまりの勢いにオレクは驚いて少し身を引いた。

「え!? ああ、知ってるよ。でも、君、どちら様?」

「私はそのローデンバルト家の元使用人でして、どうしてもお嬢様にお会いしたくて共和国からこちらへ参ったのです」

「なるほど……」

 共和国からわざわざ帝国まで来たところをみると、訳ありのようだ。しかし、まさか皇族邸宅に他国の一般人が簡単に入れるわけもない。

 と考えたオレクは思い立って、俯いていた顔を上げる。

「……オッケー、それじゃ、俺が連れて行ってあげる。たぶん、俺と一緒じゃないと入れないと思うから」

「え……!? どういうことですか?」

「大丈夫だよ、危ないところじゃないから。でも、その代わりに一つお願いがあるんだけど、いい……?」

 オレクは急に神妙な顔でエリカを見る。

 エリカは少し不安気に目を伏せたが、すぐに意を決したように見つめ返す。

「……分かりました。どんなことでも」

「じゃあ、デート一回と交換ね。君、可愛いから」

 オレクはウインクして見せる。

「え……!? は、はい。そんなことで、良いんですか……?」

「ホント!? よ〜し!」

 オレクは顔を輝かせ、きょとんとするエリカの手を取る。

「さ、そうと決まれば、こっちこっち!」

 

 その日、ヒルデグントは邸宅の私室にこもったまま、食事もとらなかった。

 部屋の窓際のテーブルに俯いて座ったままで、頬には涙の跡が光っている。

 まるで祈るように、胸の前に組んだ両手から、ペンダントの細いチェーンがこぼれ落ちている。

 このままペンダントの中の毒薬を飲んでしまった方が楽かもしれないと本気で考えもした。

 しかし、夢の中で薬を飲んだ後の背筋の悪寒がありありと蘇ってくる。

 突然、静かな部屋にドアのノック音が響いた。

 驚いて肩がびくんと跳ねる。

 ヒルデグントが邸宅に来てからと言うものの、この部屋に誰かが自ら訪れて来ることなど殆どなかった。

「はい……」

 弱々しい声で返事をすると、

「ヒルデグント様、お客様です」

 と邸宅のメイドの声がした。

「……分かりました。入ってください」

 少し咳払いをし、涙を拭いながらヒルデグントが答えると、ドアがゆっくり開いた。

 そして、開かれたドアから見覚えのある顔が部屋に入ってくる。

「エリカ……!?」

 ヒルデグントは、もう二度と会う筈もなかった人の名前を呼んだ。

「ヒルデグント……」

 エリカも名前を呼び返した時には、ヒルデグントは思わず胸に飛び込んでいた。

「どうしてここに……!?」

 胸に顔を埋めて、泣き叫ぶようにヒルデグントは聞く。

「お屋敷を、辞めて来たの」

 エリカはヒルデグントを離して、顔を見ると優しく微笑んだ。

 そして、ヒルデグントのペンダントを握った手を両手で開かせると、そのペンダント持って部屋の端まで歩いて行った。

「エリカ……?」

 ヒルデグントが目でその背中を追うと、部屋の端でペンダントの蓋が床に音を立てて落ちるのが見えた。

 ペンダントの中の毒薬を取り出したエリカは、目の前にある窓を開いて、それを外に投げ捨てた。

「……このペンダントを渡したこと、ずっと後悔していたの」

 エリカはヒルデグントを背にしたまま落ちたペンダントの蓋を拾ってはめ直す。

 胸の中にはヒルデグントとの思い出が去来している。

 幼いヒルデグントに、歳が一番近いからという理由でエリカが面倒を見ることになった。

 

 ヒルデグントが屋敷に初めて来た日の、まるでこの世の終わりを目にしたかのような暗い表情。

 我儘な子息令嬢ばかりのローデンバルト家の中で、唯一自分を気遣ってくれた時のこと。

 初めて心を許した笑顔を見せてくれた時のこと。

 最後に異国の地に独り送り込まれた彼女の背中を見送った時のこと。

 

「ヒルデグント、これからは私がずっと一緒に居るわ。だから、何もかも一人で背負いこむのは止めて」

 エリカは振り返ってヒルデグントを力強い目で見つめる。

「ありがとう……」

 ヒルデグントを見ると、彼女は涙でくしゃくしゃになった笑顔で微笑んでいた。


 週明け。

 帝都士官学校、玄関ホールの掲示板に張り出された成績表が更新された。

 夏も終わりを迎えようとしており、入学からもうすぐで半年を迎える。そろそろ退学となる生徒たちが確定してくる。

 そんな頃合いであった。

 成績表の紙が士官学校の職員によって張り替えられるその様子を、アリサは一人、不安そうな顔で見守っていた。

 張り出された亜麻ああさの用紙に連なる生徒の名前。

 退学圏を示す赤いライン。

 アリサの名前。

 それが、赤いラインの上に移動していた。

「やったぁぁぁぁぁ……!」

 本当は叫び出したいくらいだったが、周囲に他の生徒も集まって来ていたので声は控えめにして歓声を上げる。

 毎日寝る間も惜しんで(というか強制的に)シエルと勉強した甲斐があった。

 掲示板の前にはアリサと同じように拳を握りしめて喜びを噛み締める者、残留が絶望的になり呆然としている者と様々だった。

 ひとしきり喜び終えた後に、一緒に生き残りをかけて勉強をしていたルフィナのことを思い出した。

(そう言えば、あの子はどうなったのかな)

 と冷静になって順位表を見直してみて、アリサは表情を曇らせる。

 

 その日の全ての講義、修練が終わった夕方、ルフィナは士官学校を去ろうとしていた。

 退学者が決定する今期の終わりまで日数はあるが、成績に関わる主な行事が全て終了したため、早々に退学を申請し、士官学校を去ることを決めた。

 その話を聞いたレオニートはすぐに日の沈んだ庭園の中を駆けてルフィナを探した。

 ルフィナはちょうど庭園の門の前に居た。その背中をレオニートが呼び止める。

「待ってくれ!」

 ルフィナが足を止めると、レオニートは思い詰めた顔で俯いた。

「俺の力不足だ。すまない……」

 しかし、ルフィナの明るい笑い声が聞こえて顔を上げる。

「……なんでアンタが謝るのよ。私に実力がなかっただけでしょ」

 振り返ったルフィナは、からりとした表情で言う。

「大体、大袈裟なんだからね! 私はまだ帝都に残るし、絶対他の方法で私の夢を実現させるんだから!」

 全く落ち込む様子のないルフィナにレオニートは逆に元気付けられてしまった。

「……そうか。ならば、また会おう」

 レオニートは、ふっと微笑む。

 二人の笑顔の間に心地よい沈黙が流れる。

 しかし、何かを思い出したようにルフィナは突然大声で「あー!」と言う。

「……そう言えば、アンタに最後に一つ言わせて貰いたいことがあったのよね」

 両手に腰を当てて、ルフィナはレオニートをじろっと睨むと言う。

「なんだ? 何か、気に触ることがあったか……?」

 レオニートは戸惑った表情をする。

 ルフィナはちょいちょい、とレオニートに手招きする。

 耳を貸せ、ということらしい。

「……?」

 レオニートが不思議そうな顔で歩み寄り、耳を貸そうと顔を近づける。

 すると、頬に唇の触れる感触がした。

 レオニートがハッとして顔を向けた時には、ルフィナの背中は遠ざかっていた。

 そして、最後に一度振り返って手を振る。

「あははっ! じゃ、またね!」

「お前ってやつは……」

 レオニートは照れ笑いを浮かべて、遠ざかるルフィナの背中が庭園から見えなくなるまで見送っていた。

 そして、レオニートは、もう一度ルフィナの唇が触れた場所を一度指でなぞると振り返った。

「おい、ロマン! そんなところに隠れてないで出て来い。悪趣味なやつめ」

 レオニートは道脇の背の高い垣根に向かって言い放った。

「あぁ……うむ……」

 垣根の影から、ロマンが気まずそうに現れる。

 二人は皇族邸宅に向かって、庭園を歩き始める。

「……すまない。お前が本気なのは分かっていたが、これもお前と帝国のためだ」

「別にいいさ。二度と会えんというわけでもあるまい」

「お前が皇位を継承した後、いつか公妾こうしょうとして迎える、というのはどうだ?」

「ええい、うるさい! まだ皇位を継ぐと決めたわけでもないのにそんなことまで考えられるか!」

 二人は賑やかに話しながら、暗くなった庭園の中を行く。

 

「アンタ……」

 ルフィナが庭園を出て少し行くと、そこにヒルデグントが待っていた。

 アルマから真相を聞いていたルフィナは険しい顔で睨んだ。

「ゆ、許せないと思うけれど……ごめんなさい」

 ヒルデグントは頭を下げる。

「本当よ! あんたのせいで大変だったんだからね!」

 ルフィナは一度大きな怒鳴ると、それだけでヒルデグントの脇を抜けて行く。

 もっと罵詈雑言を覚悟していたヒルデグントは逆に拍子抜けしてルフィナの方を振り返った。

「え!? あの……待って!」

「何よ!? まだ何かあるの!?」

 呼び止められたルフィナは不機嫌そうに振り返った。

 ヒルデグントは罪悪感から目を背けてしまう。

「……私、あなたに色々と酷いことをしたわ。なのに、その、それだけでいいの?」

「だから、怒ってるじゃない! でも、怒ったところで結果は変わらないの!」

 ルフィナの言葉に、ヒルデグントは静かに首を横に振る。

「私があなたの教材を盗んだり、働き先を燃やしたのを士官学校や皇太子殿下に言われていたら、私は完全におしまいだったわ。あなただって、もしかしたらここに残れたかもしれない。それなのに……」

「パン屋の火事もアンタだったのっ!? アンタ滅茶苦茶ね!」

 ルフィナは驚いた顔を見るにどうやら火事のことは誰にも知られていなかったらしい。

 幸い、あの火事で死人は出ていない。パン屋の店主は無事だったが、当面の間、パン屋は閉店となる、とその後ヒルデグントは聞いていた。

「……アンタ、一応アイツの婚約者なんでしょ?」

 ルフィナは深くため息を吐いて言った。その言葉を聞いて、ヒルデグントはハッとした。彼女が何も言わずに去ろうとしているのは、皇太子の周囲に悪評が立つのを防ぐためだったらしい。

「そのアンタが火事まで起こしたんなら尚更よ……」

 ルフィナは背を向けた。

「でも、もし、次にアイツの足を引っ張るような真似したら、その時は覚悟することね。アイツは私の……」

 と言いかけて、ルフィナは言葉に詰まると咳払いした。

「……あぁ、もういいわ。じゃあね」

 彼女は頭をかき乱しながら行ってしまった。

 ヒルデグントはその背中に向かって深々と頭を下げると、士官学校の門の方へと戻って行った。

 

 ヒルデグントが庭園の門を抜けると、そこにアルマが居た。

 アルマは何も言わず、ヒルデグントをじっと睨んでいる。

 結局、一人の無実の生徒を汚い手を使って蹴落としたことには変わりがない。言い訳の余地すら見当たらないと思ったヒルデグントは、しおらしく俯いて通り過ぎようとした。

「……どうして、言ってくれなかったの?」

 通り過ぎたとき、アルマは言った。

 ヒルデグントはハッとして振り返る。

「エリカさんからここに来た理由、聞いたよ」

 アルマは振り返った。

「私、親友を見捨てるところだった」

 彼女は寂しそうな顔で笑っていた。

 何かを考える前に、ヒルデグントはアルマの元へと走り出していた。

 アルマは両手を広げて受け止めてくれた。

「ごめんなさい、アルマ……! ごめんなさい……!」

 とヒルデグントは何度も繰り返した。

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